スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

3月, 2008の投稿を表示しています

授業をガチ

先週末國學院でフリーの音響分析ソフトpraat(→ Praat: doing phonetics by computer )の講習会があった。初心者向けではあったが中上級者向けの課題も渡されており、自分で発展的学習ができる仕掛けになっていた。音響音声分析は、大学院の時に授業で基本的なことを少し学んだ程度だが、音声学の授業でスペクトログラフやピッチカーブを見せたりするくらいには使えている。ただ今年は自分の研究の絡みで、一歩間違うと音声調査をするかも知れない可能性があるので、念のため基礎から学んでおこうと思った次第。ローランドのR-09(→ 製品情報 )も用意してある。本で勉強するのも大事だが、話を人から聞くと具体面がよく分かる。不思議だなー。 さて、驚いたのは、会場で元教え子のK君に出会ったこと。某大学の大学院で音声研究をやるのだという。単純に同じ道に入り込んできたことを嬉しく思いつつ、大学の授業はこういうことがあるから(なくてもだけど)ガチで行かないとなとも思う。学生がいつか研究者の道を歩み始めたときに、振り返って自分の授業が同じ研究者の目に厳しく批評されることになる、私たちが自分の師匠の授業のレベルの高さにあとから再び思い至るように、と先輩に言われたことを思い出す。だから、いつでも自分を常に研究の最前線についていける状態にしておかなければならない、と。この職に就く者として当然のことかも知れないけれど、先輩の言葉が肌で分かった瞬間だった。とはいうものの、カリキュラムの方針に沿った各授業目標が設定されているわけで、「研究者になれます」という目標を織り込めるカリキュラムを掲げている大学は限られるだろう。最先端の技で握る寿司は、必ず食べやすさも考慮されているはずだ、といういまいい加減に考えたおじいちゃんのたとえ話を信じてやるしかない。 ちうわけで、今年も厳しい授業やるぞー(支離滅裂に終了)。 〈praatメモ〉 ・ Praat入門:目次

味付け薄いとたくさん食べられる、は何故?

家族がこちらに越して来てから1週間以上がたつ。山のような荷物は新しい秩序のもとに古い荷物とともに再配置され、部屋の新しい景観をなしつつある。荷物以上に人が一気に3人も増えた。否応なくにぎやかになる。あまりにめまぐるしい変化に、心身共について行けていないが、そうこう言ううちに劇的に冬の風景は消失し、上書きするように摘みはぐったふきのとうが葉を開かせている。変わらないことはただ一つ、僕が料理を担当していることだ。ただし分量が違う。あと、同じ時間で違う分量を作るためにこれまで以上に手際よくやらなければならなくなったことが違う。 褥婦には牛肉がいいと妻が言うので、記憶を頼りに妻の実家で食べた牛肉のポトフを作る。これはお肉と野菜を山ほど食べることに特化された料理なので、素材のうまみをしっかり取り出す代わりにほとんど味付けをしない。ナツメグ、クローブ、ローリエ、塩少々、赤ワインくらいのもの。牛肉もすじ肉を中心に別途長時間ゆでて臭みを抜いたものを使う。あく取りなどの基本的な下ごしらえが終わったら、シャトルシェフで一晩煮込むだけだ。手軽だができあがったものは、おいしいと言えばおいしい。上品といえば上品。このポトフがメインだとテーブルとしてはアクセントを欠くかもしれないので、味付けの濃いものがサイドメニューにあるとよいだろう。 しかしいわゆる薄味だとすぐに飽きて量を食べられないかと思いきや、そうではなかった(食べた感じになかなか到達しない)。薄味を続けていると濃い味のガツンとした感じがほしくなるが、そっちは量を食べることはできない(食べた感じにすぐ到達する)。これは一体どんな身体機制に基づいているんだろうと思う。この食べた感じというのは、満腹中枢を刺激するような意味ではなく、もっと認知機能に根ざした感覚である。食べた感じに到達しきる=味覚への強い刺激に慣れきる、みたいな。 いわゆる「シンプルなものは飽きが来ない」というやつなのだろうが、心理学で言う「馴化」(環境適応のために刺戟に慣れること)が「強い味はすぐ飽きる」ことを十分に説明できるとしても、導かれたその逆の「弱い味はすぐには飽きない」が「だからたくさん食べられる」の根拠になることはない。あるいは逆に、本来生物としての人間が食べられる量は、味付けという文化によって必要量に十分に達しなくなってしまったという仮説はどうか。味付け文化が

今日のおつとめ終了

やっと引っ越しが終わったー。あとは山形で荷物を受け取るのみ。確かに18時以降だけどさ、21時過ぎだよ畜生とばかりに苦情の一つも、などと思っていたら疲労困憊したスタッフが2人来たので、何だかんだとこちらは暇つぶしを全力でやっていたわけだし、と思って労いモードに切り替えた。しかし疲労ゆえに余裕がないのか、部下のミスを上司らしき男が口汚くののしるのは外でやってほしかった。ガテン系の仕事って口悪くても、デスクワークの口悪さより意地汚くないことがあるとは分かるけど、さすがに見てられないものがあるな…。僕も待ち疲れたけども、お互い痛み分けってことでお疲れ!愛だよ愛。帰ってゆっくりビール飲めよ!というわけで、システム完全移行まであと少し。

outlookとauでスケジュール同期

まだ引っ越し来ないー。じゃあ、もっとどうでもいいこと書くから。 みんなスケジュール管理ってどうやってんの?僕はメインで使用しているthinkpadx40のoutlookにガツガツ予定を入力して、モバイルとしてはウィルコムW-ZERO3にデータ同期させて持ち歩いています。ウィルコムは遠隔地のオクサマと話すために家族購入したんだけど、やっぱり山形の奥のほうだとピッチだめです。したがってほとんどスケジュール確認装置としてのみ機能していたわけです。結局、別に持っているAUと両方持ち歩くはめになって、かえって不便になっていました。ところがおとといoutlookとAUの同期方法が分かってしまったので、もうウィルコム解約することにしました。 mysync というソフトをダウンロード購入(2,000円)。これでかなり便利な環境を得ました。で、ほぼ問題ないはずなんだけど、唯一定期的なスケジュールだけが同期されません。定期的なスケジュールは分かってるからまあ大丈夫といえば大丈夫なんですが、どうにかならないものでしょうか。 さあこっからさらにどうでもいい話。オクサマに僕のスケジュールを教えるときに、口頭で伝えるのもいいんですが、できればスケジュール表を視認してもらいたい。そこで google calender にoutlookからcsv形式でデータをはき出して、データをインポートさせる。これのデメリットはgoogle calnederからoutlookへのインポートができないところでした。もしオクサマが予定表に手を入れたとしても、それをoutlookに反映できないわけです。ところが Google Calendar Sync という同期アプリがあるみたいですね。これ使えたらいいなあ、といいながら使えないのは、outlook2003 or 2007のみ対応で、僕が使っているのは2000だからなのでした。 (追記:2009.12.13) 最新情報はこちら(→ niji wo mita: google calender,lightning,携帯電話 )。ただし僕は今ではoutlookは使っていません。でもoutlookでもできるみたい。outlook―gcalの接続手段についてはたとえば 【ハウツー】Googleカレンダー ⇔ Outlook同期ツール「Google Calendar Sync」

アダルト一休さん

そうだ、某所で同僚に約束したんだった。いまこの瞬間をもって、niji wo mitaはR18指定となります。18歳未満の方、これまでありがとうございました。以下、アダルト一休さん、久しぶりに人間愛にあふれる動画です。あ、職場でごらんの方、くれぐれも音声は最大でお願いしますね。お子さんがいらっしゃるかたはぜひご家族で。 ありがとう、さようなら10代の思い出。

ヒマフォビア

人生に何度か訪れるという魔の空白時間となった、引っ越し業者が来るまでの6時間(結果的にね。最初は3時間待ちだと思ってた)。引っ越しのための片づけがあっという間に終わってしまったために、誰もいない実家でただ待つという苦行を敢行することになった。引っ越し準備がたっぷりあると思って本だの何だのを持ってきていない。ネット俳諧で「退屈を しのぎきるまで 6時間」「ツケ払い 金も持たずに 肉を食う」「一食に 2万2千で 妻黙る」じゃなくて、まあそれは俳諧というよりいろんな意味で笑えない川柳なんだけど、ネット徘徊しようとも思うも昨日久しぶりにやってきた偏頭痛ビッグウェイブの余波で画面を長時間見る気にもならない。聘珍樓おいしかったな。そいで、昼過ぎのテレビなんて見る気にもならない。新聞もあっという間に読み終わる。やることが全くなくなってFEN聞きながら窓あけて換気しながらすっかり春の風に吹かれていたらふいにフリーター時代のときの深海から浮上できないような不安に襲われて、懐かしい感じ。やばい。ヒマはいかんよヒマは。友人のsora君にも「オマエんちはおかしい」言われることだが、うちの実家の連中は僕も含め、何もしないでボーッとしたりまったりすることがほとんどない。ほとんどヒマフォビアじゃないかというくらいなのだった。ヒマフォビアな人、この指とーまれー。mixiにコミュ作るか。 よし、オチを見失ったところで、今日知ったすごい事実。今週のスピリッツきまぐれコンセプトで、あの入室と同時に自動的に便器のふたが上がる技術があるじゃないですか。壁についているボタン集積装置は水流すとかビデとかばかりじゃなくて、便座を上げるボタンもついているのがあんのね。きまぐれコンセプトでは年配のおいちゃんが「おれだけ知らなかったの?」とショックを受ける訳だけど、ほお都会ではこういうイノベーションが排便のモチベーションを上げているわけかとひとり感心した。したのだが、実家のトイレにもよくよく見たら見知らぬボタンが…たぶんこれ自動でふた上がるタイプの多くにはついていると想像される。

外来語の社会言語学

陣内正敬『外来語の社会言語学 日本語のグローカルな考え方』(→ amazon )読了、っつうほどの分量でもないけど、さらっと読める割合にはデータ的な裏付けがあってガッチリしている。10数本の論文をまとめたものだからさもありなんだとしても、社会言語学ってやっぱり話題がキャッチーではあるので、専門書でありながら新書的な立ち位置も確保できるんだなあ。4章構成のうち、最初が研究法で、2番目が言語接触の面を強調して論じたもの(もちろん僕はここが一番おもしろかった)、3番目が社会言語学面目躍如な話者の言語意識から論じたもの、4番目は言語政策ということで、入門書としてのバランスもいいと思う。 こないだ国立国語研究所の外来語言い換え案のページ(→ 「外来語」言い換え提案─ 分かりにくい外来語を分かりやすくするための言葉遣いの工夫 ─ )を読んでいて、役所が「分かりやすい言葉を」という議論を持ち出すのはわかるとしても、識者の方々のある種感情的なゴイケンや一方的な伝わる日本語イデオロギーにはちょっと辟易していた。「駆除せよ説」「自然淘汰されるじゃん説」の根底にはどちらも「分かりやすさが大事」の心(=伝わる日本語イデオロギー)があると思うんだけど、仮に社会調査を行ってここまでが分かりやすい外来語、こっからは分かりにくい外来語、って線引きするのもある程度は有効としても、重く見過ぎると分かりやすさは動的であるという側面を見落とすことになると思う。ってことで、公共の情報を発信することが「分かりやすさ」の皮をかぶっていつの間にか分かりやすさの押しつけになるところとか、ちょっとなあ、とも思っていたところ。 本書でおもろかったのは、実際に高齢者とか福祉施設のひとたちに「バリアフリー」「デイケア」分かんねえべ?だから言い換えたげる。とか言わないで、「言い換えてほしいと思う?」という調査を行っているところだった。で、見えてきたのは、確かに分かりにくいけどそういう言葉にも実はついていきたいのよ、ってことだった。言い換えも悪くないけど、そういう言葉は確かに流通しつつあるし、別の分かりやすい説明を付け加えてくれれば勉強にもなるし、というような意見も結構多くて、これは個人的には「ほら~」って思った。本書p.86の「『保護するようなコミュニケーション』(patronizing communication)に陥らな

東大ジャズ講義録・歴史編

ちょっと古いけど、菊池成孔+大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー 東大ジャズ講義録・歴史編』(→ amazon )を7時間ぶっ通しで読了。266ページのこの本を読むのにこれだけの時間がかかったのは、youtubeやamazonの視聴コーナーを駆使して書籍内で紹介されている音源を実際に耳にしながら読んだから。 ジャズの歴史とかウンチクから全く開放されていて、まんま行き当たりばったりに出会った盤をiTUNES的にデータベース的に消費する聞き方が、これでできなくなってしまったかもしれない。聞きたいものを本能に従って聞く、みたいなイノセンス気取る格好ももう取れなくなってしまったな、きっと。というくらいに、この本には明確なパースペクティブがあって、要はコードの様式化とそれ自体の盛衰からジャズ史を描いたというもの。コードによって構造だけがザックリ示されて個人のアーティスト性が自由に発露されるようになったのがモダンジャズで、様式の限界に気づいてモードとかフリージャズへの展開を試みたりしているうちに、一部は密教化していってオタクのものになりつつも、また一方では新しいジャンルの音楽との接触を繰り返しながらMIDIの出現でコードの持つ音楽の生成力にとどめが刺されたという話。ジャズのモダンって、いわゆる構造主義なんだよね?そういう理解でいいのかな。 僕自身は、五線譜は読めるけどコードは読めないどころか存在意義からして不可思議に感じていたので、その意味がやっと分かったという点で、とても面白かった。コードはただの音の組み合わせの定式化であるのではなくて、異なるコードの順列組み合わせによって物語をつむげる様にしたものだったんだー、というジャズ史自体とは直接的に関係ないところで感動しているわけですが。音楽聴きながら「こう来て、次はこう来る」みたいな身体で感じ取っている部分を言語化してもらえた感覚には、たとえば昨年バスケットボールのプレイ理論に関する論文を読んだときと同じような快感があった。 それにしても今回は、youtubeの威力を改めて思い知った。実は、途中まで紹介されている音源をすべてyoutubeからリストアップしてやろうと意気込んでいたのだけど、それよりも音源自体を楽しみたいという欲望が勝って結局頓挫した(笑)。印象的だった動画をひとつだけ紹介しておこう。第5回講義「一九五九~一九六

ハンター再開にて

土曜日の片付け疲れと日曜日の仕事の疲れがダブルパンチでやってきた、魔の月曜日であるが、ハンター再開でやや持ち直す。登場人物の内面がこれだけの濃度で描かれるマンガがジャンプに掲載されている異様さを改めて感じます。関係ないけど、『鈴木先生』への罵詈雑言が多いことにちょっとショック。あれをギャグとして笑える要素が一ミリもないと思っている僕がおかしいんでしょうか。まああれだ、向けた刃はそのまま自分に向けられるつう、ね。

エシディシ

仕事が一段落するといいなあと思って、雑事を先延ばしにしていたら、一段落しない感じになってきたので見きりで雑事に着手。とりあえず家族が3週間後くらいに来るのに、この家と来たら2年前に越してきたままの段ボールが未だ山積みになっているわ、さらに段ボールが送られてきて高みを増すわ、生活の中で新たに貯まった物品も添えられて、新しい観光名所ができあがりつつある勢いです。山形においでの際はぜひお立ち寄り下さい。じゃなくて、この山を少しずつ切り崩して新人3人分の生活スペースを確保すべく、青の洞門を1人で掘り続けております故、誰かが何かの彼方にまとめればいい。 そして迫り来る科研報告書を前に、リーダーは僕に「あとは頼んだから」と言葉を残してニューヨークに。データだけまとめていた多言語景観関係のやつも原稿にまとめようと思っていたのに時間が。ウググとうなるも、東京のかつての非常勤同僚にいい話があって、にわかにテンションが上がる。久しぶりにエクストリームとかAC/DCとかかけて色々やっつけるぞー!の矢先に、"民生ら14組が広める!AC/DCトリビュート・アルバム完成"(→ sanspo.com )の知らせが。92年のライブを丸々カバーするっつう、そのライブDVDを同僚から借りっぱなしだ…。いっちょ景気づけに、ThunderstruckとCupid's Dead。アンガス・ヤングもいいけど、ヌーノ・ベッテンコートも~。