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3月, 2009の投稿を表示しています

「こちとら日本語で書いてんだヨ」

センバツ出場の球児、ブログで対戦校侮辱(読売新聞) - Yahoo!ニュース だってね。僕が野球嫌いなエッセンスを詰め込んだような記事で、これまで以上に野球どうでもいい。サッカーの事大主義と同じくらいどうでもいいな、これは。そして、 Weekly Teinou 蜂 Woman でのコメントが最高で、もう泣いた。 「世界中に発信するブログで書くことではない」などと大げさにご立腹の方々もいるようだ。笑っちゃいますね、世界発信!こちとら日本語で書いてんだヨ!バーカ! たしかにプロフはモバゲーと違ってPCでも読めるが、自分の息子(同じ年代)に限っては、世界はもちろん日本、いや中野区全域にだって発信している気などサラサラない。ただ仲間内でメールをするような感覚で打ち込んでいるだけだ。 インターネットなら世界につながる、ネットはなべて公共空間、だとかは現場を見ていない人間の言葉ですよ。ネット空間の公共性にはすでに階層がある。人んちの中をのぞいて「問題だ!」はねえだろう。それにこちとら現地語たる日本語で書いてんだヨ!バーカ!水村美苗たんが泣いてますよ。

連濁の例外@博多

■博多の出張業務がとっとと終わったので、山形への飛行機までの時間を仕方なくつぶす。 ■到着した昼、夜と食べ続けている豚骨ラーメンを、さらに翌朝から名店めぐり。昼も豚骨ラーメン。そうまでして食べまくったラーメンから分かったことは、山形市にある豚骨ラーメン専門店「うま馬」は結構レベルが高いのではないかということだった。こういうことは、外の世界を知らないと判定できない。 ■国立九州博物館と太宰府天満宮をまわる。「東風吹かば」の詞に着想を得たに違いない銘菓、梅が枝をほおばりながら、山形を二月は先取りした春の風を楽しむ。国立九州博物館は、国立博物館としては後発ということもあって、気合の入れ方が違う。閲覧客が楽しめるような工夫や、作りになっていて、ちょっとしたアミューズメントパークのような様相を呈していた。所蔵品についてはよく分からないが、土地柄もあって古代史が手厚い。図録にちゃんとしたものがなかったのが残念。 ■太宰府に向かう途中、「朝倉街道」を「あさくらがいどう」と読ませる表示があって、思わず写真を撮る。街道を後部要素に持つ複合語は、「~かいどう」となるのが多くのケース。後部要素にすでに濁音が含まれている場合は、連濁を起こさないというライマンの法則があるが、これは数少ない例外だと思われる。普通名詞だとなわ+はしごで「なわばしご」とかね。ネタゲット。 ”○○街道”とは、「がいどう」ではなく、「かいどう」が正確なんですよね??? - Yahoo!知恵袋 にもトピックが上がっている。 ■出張につきものの「ちょっと遊び」がこれだけ充実したのは久しぶり。学会出張のノリだな。校務出張だとスケジュールがタイトであることがほとんどであるから、これだけ楽しめることはない。飛行機の本数が少ないことを喜べたのは初めてかも、と今更ながら気づいた。

今更ながら新明解国語辞典第6版

新明解国語辞典の第6版を購入(2005年に最新版が出てるのをようやく購入)。この辞書は語用論(pragmatics)を盾に、相当な無茶をやるということで業界の内外にファンが多いことで有名である。辞書のことはあまり詳しくないのだが、言海(→ 言海 - Wikipedia )に連なるユニークな解説の系譜ということになるのだろうか。新明解国語辞典は版を重ねるごとにそのオルタナティヴさを緩めつつあると知られている。手元にある第5版ではすでに修正されてしまっているが、第3版あたりには確か動物園の項目に、そっち業界からクレームが入ったという伝説の解説があった。しかし第6版を第5版と比べてみると、方向性を微妙に変えたオルタナがいまだに息づいているのを感じることができる。 たとえば、これまた有名な項目、「恋愛」は第5版では次の通り。 特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、 出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら 、 常にはかなえられないで 、やるせない思いに駆られたり、 まれにかなえられて歓喜したりする 状態に身を置くこと。 第6版では次の通り。 特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけで一緒にいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、 それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になる といった状態に身を置くこと。 第5版では情交テイストを匂わせつつ、「うまく行かないのが恋なのだよ」路線だった。第6版ではプラトニックテイストを匂わせつつ、「恋なんかに振り回されるのは愚か者だよ」(超訳)路線である。編集部に何があったのだろうか。いや、時代と人は言うのだろうか。などと韜晦しつつも、この辞書をめくっていくと、改めて意味記述の客観性なんて原理的にあり得ねーってことがよく分かる。立場や文脈に全く依存しない記述なんてないもんね。もちろん「客観性」に向けて文脈や立場を少しずつそぎ落とすことは、近代化の歴史が示すように、意味が通じる集団を保証する(作り出す)点で、効能があるとは思う。けど、根本的にはそれだけの話。

ユリイカ特集 米原万里

Amazon.co.jp: ユリイカ2009年1月号 特集=米原万里: 本 をアマゾンでポチっと注文して、積んでおくつもりがむさぼるように読みとおしてしまった。特集といっても追悼特集なので、米原についてみなが語りたい放題である。語りたい放題でも全然みな「語りきれない」と思っているのがよく伝わるエッセイがそろっていて、個人がしのばれる。 『オリガ・モリソヴナの造語法』『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』( niji wo mita: 嘘つきアーニャの真っ赤な真実 )と、あとどれだったかエッセイを数冊読んだだけなのに、なんというか最後の最後まで信頼できる人だなあと思わされる。ファンであるとか、好きであるとかではなくこう思わされる人って、現実に出会う人も含めて相当少ない。そのことを確認できたのは、佐藤優のエッセイ「米原万里さんの上からの介入」だった。佐藤が例の外務省での背任疑惑で逮捕される直前、報道が先行して騒がれているときに、執拗にレストランでの食事に誘うくだりは浸みるものがあった。 それはそうと、一番の発見だったのは、この人が迫力のある美人だったということ。写真特集「マーリ・イターロヴナ・ヨネハラの写真帖」では幼少時代からの写真がモノクロで紹介される。ロシア語通訳時代の、現在よく知られるアイラインを強調した魔女のようなメイクがバシッと決まっている写真が印象的。橋龍に襲われそうになったというエピソードや、その他の彼女の豪胆さを感じさせるエピソードの数々が、点となって結ばれた気がした。年表と照らし合わせると、30代半ばの、ちょうど切った張ったの大活躍を始める時期。この人のジェンダーネタは読んだことがないが、才能と容姿の武装で刀を振るった経験が、『終生ヒトのオスは飼わず』あたりにつながるのかななどと想像する。 読んでないけどね。読んでないけど語る、ということについては、目下手元にピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』(→ amazon )を置いて、時間を作っているところ。この本を読まずに紹介できればネタとしては上なのだろうが。

怪獣

水中にいる巨大な生物が本当に苦手でありながら、つい見てしまう被虐志向はホントどうかと思う(via. 「現代の恐竜」とでも言うべきサイズのワニを捕獲:ひろぶろ )。 僕のトラウマを作った原因である、釣りキチ三平がどうのというレベルではない。そして後ろで聞こえるのはどこの言語だろう…。

多様性礼賛

専門の副業的仕事で同僚と県庁とか市役所でいろいろお話を伺ったりするんだけどさあ…。役所って、驚かされるのは、自分の部署の仕事が恐ろしいくらいに全然分かってない人が、一定程度いるんだよね。俺聞きたいことあるからここにいるんだけどなあ…一応担当部署にということで話を聞かせてもらいに来ているのに、何かの意地悪でこういう人を紹介されているのかなと思うくらい。いや、仕事柄ポジショントークをしなきゃならない時があったり、ウソじゃないけどホントでもない鬼防御モードで話さなきゃならない時があるのも分かるよ。でもそういうときであっても「うちじゃなくてあっちの部署」くらいの、役所の得意技であるところのたらいまわしくらいはしてくれる。たらいまわしができるってことは、それが自分たちの仕事ではないってことは最低限分かっているということで、それすら分からないと次の部署へのキューもないし、ここでも回答できないしということで、まるで怒られた学生が沈黙を決め込むみたいな状況になってしまう。役所って、皮肉じゃなくて本当に不思議だ。 もちろんすごく分かっていて問題意識もあって有能で、みたいな人もいて、ああこの人がこの部署を引っ張っているんだ、と思うことも同じくらいある。いつも馬車馬みたいに働かされている人もいる。しかしその一方でスゴダメな人もいる。振り返って自分たちの職場を考えるに、中小企業でかなりアレな職場だけど、ああいう超絶な人はたぶん最初から採用されていない。たぶんそういう人を採用したら潰れる。別に公務員批判をしたいわけじゃないんだ。だけど、そういう人にコンスタントに会えている状況は、相当この県は公務員に優しい。よく山形の人は優しいっていうけど、本当にそう思うよ。ごめんこれは皮肉だ。 でもそれが役所社会の面白そうなところでー。だって役所って淘汰されないわけだから、珍獣が珍獣として生き残ることができるわけでしょ。多様な生物相が展開するという意味では、皮肉抜きでうらやましい。うちみたいな中小企業だと規格外的な魅力的な人は淘汰されちゃうもの。

開いて接続するだけで

1年に1度あるかないかの偏頭痛ビッグウェイブ来たる。前兆が終わった偏頭痛のさなかにさらに前兆が走るという、偏頭痛on偏頭痛という初めての体験でした。スタンドに矢を打つとスタンドがさらに進化、じゃないけど偏頭痛に前兆が乗ると、僕の場合は閃輝+暗点+めまい+回転がすでに走っている頭痛と渾然一体となってサイケな風景が出来上がるという、まるでCMYKでカラー原稿できあがりますよみたいな新境地。まっとうに歩くこともできないまま帰宅してガツ寝してようやっと復活なわけです。 一昨年ごろから頻発するようになった偏頭痛については、 niji wo mita: 偏頭痛 タグでまとめてあるので、ご同病の方はよろしければ。最初は自分の記録という意味と、同病のかたの情報源として、またあなただけではないというある種のエンパワメントとして役立てないかなと考えて、一連のエントリをつづったわけですが、いっときからあんまり書かなくなりました。偏頭痛自体が減ったわけではないです。mixiの偏頭痛同盟というコミュニティを知ったからです。ここへの書き込み、特に「今まさに痛い!!!」というトピックが、もう何と言うか読んでて涙出てくる…。前兆が始まっただとか、今朝から痛いだとか、そうした呟きの集積なんですが、これだけの人たちが世間の認知の低さとフィジカルな痛みのなかで苦しんでいるのかと思うと、不思議と元気になるもんなんですね。なんだこのしゃべり。 ともあれ、この「普通にあることだから大丈夫じゃん」「あり得るあり得る」という感覚は、偏頭痛に限らず大事なことだと思います。「自分にしか分からない」「どうせ他の人にはわからない」といって、閉鎖系=カルト環境を作っていくのは、幸せをもたらさない。開いて、接続するというだけで、それが力になるということはあると思います。 まあそんなんでー。偏頭痛on偏頭痛も、きっとあるある。

ここ最近で限りなくどうでもいい話(嫉妬ゆえ)

今月中に上げる予定の、共同執筆の原稿について打ち合わせをしていると、タイから突然の電話が。失職中モジャからの「いまタイだぜイエーイ」的なテンション激上がりコールだったため、まだ俺行ったことないのに的かつ人の仕事中に的脊髄反射で切ろうとしたところ、そうだ京都行こう的に巨大ナマズを釣り上げるご趣味のtriphopを紹介するから君はもう釣具屋に就職すればいいじゃんと我ながらナイスプラン。速攻で連絡先を伝えてあとはあれだモジャの新しい人生の門出に勝手に乾杯して寝るよもう俺は。

エイングリッシュ・マフィンだぁーいすき

看板類に現れる東北地方の気づかない方言を、ネタとして公開しようと少しずつ収集しているわけだが、たまにこちらの予想を超える作品に出会う。今日も近所のマックスバリュ(若者語的にはマクバ)で音声学的な指導の入った表示に出会った。 エイングリッシュ。僕が中学時代を過ごした愛知県の片田舎では、英語の先生が"English"をそんなふうに発音していた気がする。どこか本場ふうの、"apple"の発音がジャイアント馬場みたいだと爆笑していた青春の思い出。いや、オランダ語をほのかにたたえる江戸以来のエゲレス風味な発音なんすよなどと言う輩もいるかもしれない。いねえか。写真は僕が大好きなイングリッシュ・マフィンに過ぎないのだが、妙な発音指導を受けて久しぶりの更新。そして真に受ける方のために一応これは誤植の類で山形方言ではないからね。