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11月, 2009の投稿を表示しています

すごいまっとうな会議

今の職場に勤めてからこれまでたぶん一度もなかった、すごいまっとうな会議を経験した。目指すべきゴールが明確に示され、その方法論が述べられ、具体的な方法のいくつかが模索され、出席者の課題として渡された。概論から各論への流れと、各段階におけるさまざまな方向への可能性が十分に議論されたのに、時間どおりに終わったし、やるべきことが出席者にきちんと理解されている。仕切りが違うとこうまで違うか。しかし僕以上に驚くのはおそらくこれを読むかたのほうだろう。そんなことすらできていないのによく回っていたねその職場とのツッコミ。ここはそういう風に回るのだ、と状況に自分を馴致させていたことがもう一度ひっくり返って、うん、いい感じ。

結城浩さん

同僚に借りた結城浩(原作)・日坂水柯(イラスト)『数学ガール』(→ amazon )のコミカライズ版を読み終えて、うーん、マンガとしては微妙。悪い意味でのオタクくささというか、ボクとキミの世界みたいな、登場人物の生々しい背景が一切語られない実験演劇みたいな作りにはあんまりのめり込めない旧世代の36歳であることを自覚した。物語としては、ゴルデル『ソフィーの世界』(→ amazon )みたいに、哲学や数学が語ろうとする意味や思考の構造の在り方を、物語の着想としていて、じっくり読めばもっと楽しめたかもしれない。いや、実際、実験演劇なのだからそう割り切って読みたいところなのだが、マンガの絵柄や語り口というのはすなわち小説の文体であり、苦手なものは苦手でしょう? というわけで原作の人って何者だろうとネット検索したら、ずっと前にな王( sweet soul dance music, and You )が言ってた神様みたいな人って、この結城浩さん( 結城浩 - The Essence of Programming (プログラミングのエッセンス) )か!しかも山形浩生氏関係でもあったような…。既視感がある…。 勢い余って、『数学ガール』原作(→ amazon )と、『プログラマの数学』(→ amazon )を購入してしまった。後者はこれまた既視感がある…。

google documentとttm

■量的調査と分析手法を学ぶ授業で、google documentを使うことで楽に共通のデータ入力シートを作成することができた。これまではエクセル(個人のPCではOpenOffice calcしか使ってませんが)で参加者がバラバラにファイルを作成し、あとで誰かが取りまとめて一つのファイルを作っていた。バラバラに作成する方法だと、(1)途中で入力方法を変更したり(2)欠席者への課題説明の際に具体的なブツを示しにくい、などの問題があった。しかしgoogle documentだと、全員で同じシートを作成するので、入力方法の変更などに個別的に対応する必要もなく、他の入力者の状況を参考に適切な入力を進めることができる。入力方法の変更は、学生相手だと必ず起きる。というか、どのような不備が入力方法の変更をもたらしたかを考えることに意味があると思うので、調査票のチェックは軽め。 ■インタビューをまとめる授業で、なんちゃってテキストマイニング(以下ttm)を導入。 TTM: TinyTextMiner β version から必要ソフト(フリー)をダウンロードすることができる。インタビューしながらの主観メモと、音声データを基にしたフル文字起こしテキストを比較しながら、主観メモに客観的な装いの補完情報をくっつける試み。聞き手のフィルタがフォーカスとみなしている話の内容と、ttmが重要とみなした内容とは概ね一致するが、一致しないところはどう考えるか。もちろん、ttmの分析がソフト内部でやっていることがどういうことか、よーく理解しておかなければならないのだけど。参考にしたのは、松村真宏・三浦麻子『人文・社会科学のためのテキストマイニング』(→ amazon )。ものすごく気軽に始められて、それなりの分析結果が出てしまう半面、ttmから読み取れる「重要さ」が何を意味するかよくよく考えなければならないな。そして談話データから取り出された「主観メモ」も、聞き手が何を重要と考えたのか、メタ視点からの説明が必要。

目的論的にかたる

どうして日本軍は真珠湾を攻撃したのか (内田樹の研究室) 。皮肉が効いている。そして、目的論的に語ると面白く見えてしまうものだよなあ。 もちろん、日本にも「ワルモノ排除システム」は存在する(存在しなければとうの昔に地表から日本国は消えているであろう)。 それはどのようなものか。 それは「秀才を権力中枢に集中させる」という手法である。

三宅乱丈『ユーレイ窓』

三宅乱丈『ユーレイ窓』(→ amazon )が久しぶりに読みごたえのあるマンガでホクホクした。粒ぞろいのシリアス、ホラー、ギャグ、ガイキチ、ヒューマン?が詰め込まれている。基本三宅乱丈にヒューマンなどを期待していないのだが、2ホラー1ギャグ0.5ガイキチくらいのリズムに最後の決め打ちがヒューマンだったので、ほとんど編集の人の思惑通り落ちた。この作風のバランスを培ったのは、『ペット』『イムリ』でシリアス&ホラー方面、『ぶっせん』『北極警備隊』『まちこ船』『秘密の新撰組』でギャグ&ガイキチ方面、であることは間違いない。ギャグ&ガイキチが厚遇されているなあ。 初期のどうみても登場人物が男性だろうと女性だろうと全員ゲイみたいな感じが、少し変わってきたな。それは『ペット』リマスターエディションもそうなのだけど(これについては別エントリで)。ほら、やっぱり、ミヤーケランジェーロの思いが込められたペンネームであるからして。

plum song

omodakaの新作出てたんだ。江戸小唄「梅は咲いたか」のアレンジ(元曲あった 江戸端唄・俗曲の試聴と紹介: <梅は咲いたか> )。これはramrider"PORTABLE DISCO 8bit edition"に収録の「ミラーボール」じゃ…と思ったら、そっちがFar East Recordeing(omodaka氏のレーベル)によるものであって、ということだった。 小唄そのものは、江戸を舞台に春先にちょいと遊んで行こうかね、といったもの。吉原でちょいちょい、みたいな話を受けて、映像はそっち系ですが小粋にまとめてますね。かっこいいな。

行方不明の音源をyoutubeで

このCD、前にダビングしてもらったんだけどどこかに行ってしまった…。和ジャズ。ピアノが中村八大ということで記憶に残ってた。MCが素敵すぎる。困ったらyoutubeを探れ、は鉄則だな、もはや。どなたが上げて下さっているのだか。1957年、ラジオ番組から。 COTTON TAIL。 THERE'LL NEVER BE ANOTHER YOU。 S'WONDERFUL。 SUMMERTIME。ボーカル素晴らしすぎる。 そうそう、このCD、"Jazz at the torys"だった(→ amazon )。

寒い

昨日から山形はすごく寒いです。仕事が終わって車に乗ったら、自分で入れっぱなしのCD「日本のうた」、カヒミ・カリィの「からたちの花」が流れて、体感温度が3度下がった。気持ち的にはむしろこういうのが欲しい。結局やらなかったグルーブ地獄~! こういうの今でも全然行けるけどなあ。梵我一如な感じでな。カッコよすぎる。

パる

このところ職場での仕事を少し切り詰めて、子どもと就寝する時間を作る努力をしている(その分早朝に仕事を回す)。 で、下の子が暗くしてもなかなか寝ない。といってぐずるわけでもなく、一人で延々と歌を歌うのである。歌といっても既存のものではなく、子どもが時々やるあの自作のやつである(僕も小さい頃にはよくやった記憶がある)。止めても無駄だし、反応すると却って寝ないので、知らんぷりのふりを決め込むわけだが、ああいう時の歌詞って不思議だねえ。しいたけぇ、 たべたあいぃ~ パぇたぁい~に知らんぷりの限界が。なんだよしいたけぇ、 たべたあいぃ~ パぇたぁい~って。笑い起きた。ホント録音してみんなに聞かせたいよこの親バカが。このしいたけをみんなに味わわせたい。 そんな子ども1歳11カ月の発音エラーを語っていいですか。上の子は音韻論の概説書類でよくみる「テレビ→テベリ」「エレベータ→エベレータ」みたいなのが多かった。CV音節レベルの転倒や、C音素(しかも素性の近い)レベルの転倒が多かった。しかしこの1歳11カ月は、9か月?あたりから、響きの弱い母音や、いわゆる母音の無声化を起こしている音節ごと落として発音する。単語のなかで響きの強い母音を中心にして、なんとなく言葉を認識しているみたいだ。分節音が分節化していないというか。 面白いのは、音節は落ちているのに、子音の素性だけが生きて、隣接の音節と融合して新しい音節を作っているところだ。具体的に言うと、「食べる」のことを彼女は「パる」と発音し、「パらない」「パぁたい」などと活用する。この「パる」はおそらく…図みたいな感じ。説明するのがめんどいので図示。第1音節の子音tの無声性と母音情報が残り、第2音節の子音bの両唇性と合体。というか、これは第2音節が落ちて、その情報の一部だけが逆行同化したと考えるのだろうか。類例を思い出せないので、これだけでは言語習得のデータとしてあまり意味がないのだが。

自分もマイノリティかもと疑ってみる

16日の発達障害を持つ学生への支援セミナーは、教職員にきちんと理解してもらうことの難しさ、受け入れ態勢を作ることのむずかしさ、という点で大変参考になった。発達障害の個別性への対応と、ユニバーサルな姿勢の両極において、対策を練らねばならないとの由。敬服すべき事例を聞くことができて良かった。 しかしこういうマイノリティへの対応という話になると、「対策」という善意の顔に潜む「分類」に話がシフトし、「発見」の「方法」だとかが議論される不毛さ。発達障害はそのスペクトラム性(発達のなだらかな凹凸)に特徴がある、というのが近年の貴重な論点である、つまり誰しも生得的に抱え得ることだ、とさんざん発表されたのに、自分はまるで選良であるかのごとき目線で語る方々がいらっしゃるのには本当に閉口する。バカと発達障害をどう見分ければいいのか、とか、発達障害の学生が大学にいることが問題ではないのか、とか、どの学部に分布しているのか示せとか、耳を疑う質問も複数あった(偉い先生方からね)。臨席していた心ある専門家による、「自分に似ているやつ、と思えば発見できるよ」と辛らつなユーモアで少し溜飲が下がったが。 病や障害は生理的・身体的な基盤を持つ、と無批判に語られることが多い。しかし病や障害は、常に社会から発見されるものだった。逆にいえば発見されなければ、病でも障害でもなかった。むろん、近代的な意味では、発見されることで社会の同質性から外れたことを自他ともに説明でき、ひいてはそれがある種の社会的摩擦を予防したり緩和したりする。しかし発見されることで、対象を作り出し、囲い込み、場合によっては囲い込んだ対象をカルト化させることでは、むしろ摩擦を作り出す(この10年くらい盛んに言われる「共生の欺瞞」も同じ)。落語の与太郎には嫁さんがいて社会に普通になじんでいる光景があることを思い出すべき。 つまり「彼ら彼女ら」を「私たち」に言い換え、同じ目線の延長上に捉えなければ、どのような対応をしても本質的な対応にはつながらないのではないか、と考える。精巧なチェックシートによる判別ができたとしても、意味はない。発見するのは、つねにチェックシートを眺める「あなた」でしかない。だから、「どうすれば発達障害の学生を見分けられるんですか」という、セミナーの主旨を全く理解していない教員への解答は、「あなたもマイノリティかもしれない、と

首いたい

借金的な意味合いでないほうのあれで、朝起きたら首が回らなくなってた…。完全に寝違えた。この状態で本日も仙台方面に出張。そしたら某所から首の骨骨折したとの一報が…。これは祟りに違いない(本人は10日後ごろに飲みらしき約束を取り付けようとしている生命力ぶり。自重しろよ…)。 仙台では、障害を持つ学生受け入れについてのシンポジウムが行われる。昨今、大学ではこういう出張に行くのもフツーの仕事なんだぜ、と。水曜日には発達障害支援センターのかたとミーティング。ホントはどこの部署が請け負う仕事だったんだ?

コーヒーと合うのは乳酸菌発酵食品

東京駅大丸の地下で購入したチーズたっぷりのキッシュを食べつつ、コーヒーを飲んでいる。キッシュがおいしく食べられる意味でコーヒーと合う。が、僕にとって真にコーヒーと合う、というのはこういうのではない。 以前からずっと思っているのだが、「コーヒーに合う」だとか「コーヒーと合う」という現象には、細かく見れば「食べ物主役系」「コーヒー主役系」「共に高め合う系」の3系、亜種を入れれば4つの合わせ方がある。なお、以下に示す「香り」はモノ自体から感じられるアロマじゃなくて、口から鼻に抜けるときに感じられるフレーバーのこと。 コーヒーによって食べ物の味や香りが引き立つ コーヒーが食べ物の味や香りを押し流す コーヒーの香りが引き立つ コーヒーと食べ物の味や香りが共に引き立つ 1番目の主役はコーヒーではなくて、食べ物の方である。僕はこれはあまり体験したことがない。コーヒーのほうがおおむね香りが強いので、その香りに勝って主役になれる力があって、かつコーヒーとかち合わない食べ物がなかなかないからだと思う。1番目の亜種である、2番目はよくある。本日のキッシュがこれ。クリームやチーズの強い乳製品は生臭みと裏表であるから、度を過ぎると飽きたり気持ち悪くなる。だから口の中の香りが蓄積しないように、どこかでリセットしてやる必要があると思う。コーヒーで口の中をリセットすれば、改めて乳製品の香りをゼロから味わえるという意味で、1番目のような主役を引き立てる役割を持つ。油脂を多く含むナッツ類との組み合わせも同じ。 3番目ではコーヒーが主役になる。のだが、これも僕はあまり体験したことがない。そもそも香りを引き立てるというのは、本来それが持っている良い香りや味を強調するために、①そうでない香りや味を殺す②主役の香りや味を相殺しない方向性で主役の香りや味との落差を示す(差異化)、という2つを意味するはずだ。コーヒーにとって、①そうでない香りや味というのが、いわゆる雑味であるとすればきちんと淹れれば出てこない。苦味や刺激的な感じだとすればミルクと混ぜればいいのだが、僕の主観ではそれはむしろミルクが主役になっているように感じる。 4番目もなかなかない。が、僕にとってはぬか漬けとコーヒーがこれに該当する。2番目みたいに「押し流す」ことが全くなくて、質量ともにバランスが取れた新しいフレーバーが誕生する感じだ(同じ発酵食

ほとんど訪書旅行

母校で玉篇写本を見る。影印では使うけど、国宝の原本を見るのは初めてだった。神保町に移動して古書店めぐり。図書館でガツガツコピーした影印本が安く出ていたので購入する。えー。コピーしたの無駄じゃんか。うれしいけど。 エチオピアでカレー後、「一般の人にも来やすい工夫」との触れ込みである古書展を冷やかして、やっぱり敷居高いよと思いつつ(投機的な目的のプロがうごめいてるんだから当たり前だ)、せっかく近くだしってことで秋葉原へ。3年ぶりくらい?また変わってるなー。数メートルおきに立っている道しるべがごときメイド風女性に、台湾のビンロウ売り小姐を思い出す。どっちも取扱商品の効能は幻覚作用だろうが。神保町から秋葉原近辺には、頭おかしそうな人がたくさんいて楽しい。 歩き疲れたので少し休憩して、上野の asahi.com : 朝日新聞社 - 冷泉家 王朝の和歌守(うたもり)展 ( 東京都美術館 )。まあ一応のつもりが、ちょっと驚く規模の展覧会だった。影印叢刊がようやく完結したことの記念とのことで、国宝重文級がこれでもかと400数十点並ぶ。日本語史のテキストとして有名なやつがたくさん。それにしても800年間、展示されていない分も含めて、これだけのテクストをよく蓄積したものだと思う。ずいぶん見たと思って、そろそろ終わりだと思ったらまだ1/3くらいで、最後は閉館の雰囲気に押されるようにして駆け足で見た。いやー満腹。 文献は権力のあるところに集中する、というのを東京で、という意味でも体験したし、冷泉家や五島家という意味でも体験した。とりわけ冷泉家の展覧会では、そもそも書くこと自体も権力を背景とすることをまざまざと見ることができた。現代でも、書くことは、大まかに言って時間と金によって階級化されている。紙や筆が今と比べ物にならないほど貴重だった過去においては、言わんやをや、だ。書かれたものに基づいて構築する日本語史は、そうした背景に不可避的に制限を受けていることを、改めて忘れずにおこう。

五島・後藤・語頭のゴトーづくし

五島美術館 から母校の図書館に戻るおり、久しぶりにカフェゴトーに。りんごとサツマイモのタルトが異様においしい!のだけど分量ありすぎて、一食分くらいの満腹具合になってしまった。焦げたカラメルとシナモン、りんごとサツマイモの酸味と甘み。実際、これ晩御飯で良かったな。この後の晩御飯がほとんど食べられなかった。 今野真二『文献日本語学』(→ amazon )を半分くらい読む。亀井孝、小松英雄的な文献へのまなざし。ただし小松英雄『徒然草抜き書き』みたいな表現に踏み込んだ分析ではなく、狭義の国語学に基づく文献学。いや、文献学に基づく狭義の国語学といったほうが正しいか。 帯に「アプローチ」「提言」とあるように、方法論のためのアイディア集と読める。語頭語末の文字遣いについて、「使い分け」とはそもそも何かといった原理のレベルから批判するようなものって、小松英雄以降、正面から論じたものって他にあるかな?文献研究者の、特に初学者向けとして良いテキストになるかも。

せめて引き出しに入れるべき

宿泊に使っている初めての某所APAホテルは、ビジネスホテルなのに大浴場あり、朝食豪華でお値段オトク、なのに入室してから折に触れて視界に入ってくるこれ…。机の上に会長のヤバメの書籍と一緒に立ててある。ああ…。忘れてた。メンバーズカード作っちゃったよ。 田母神論文で問題になった例の件は、アパグループだったよね…。社長の強烈なインパクトに気を取られて、うっかりしていた。商売と政治的主張はせめて表向きは切り離せばいいのに、ととりあえず眼前の事態に思いつつも、宿泊料も活動資金になるんだろうなあと思うと、次はないなと思う。ロケーションもサービスも気に入ってたのに。

やっぱり拙速はいかんよね

まとまった時間と、細切れになった時間とでやれることは違う。細切れになった時間でやれるのは、作業程度のことであって、ある種のパースペクティブも批判的思考もいらない。けれども、まとまった時間でしかやれないことをやるためには、その時間を作るためのライフハック的(笑)工夫が必要だったりするし、仕事量全体を見据えた「引き受け量」調整が必要だったりするのだが、不足な事態が常に起こりうるような状況だと、ごめんもう水が溢れます状態のコップにさらに水を注がなければなぜかパソコンの上をゆっくりと通過中の別のコップが溢れて大変なことになります、だとか、表面張力ギリギリのコップを持って100メートルダッシュせよみたいな状況だとかが時に起こったりする。 さあ長い弁解の前置きが終わったところで、自分史上最強のダメ会議資料であることが分かりつつもそのまま出さざるを得なかったため、久しぶりに自分が院生時代にゼミ演習でボコられるがごとき事態を招いたことを開陳するよ。しかもその後始末をする間もなく出張へ。電話で敗戦処理のお願いをしつつ新幹線は上京。二日間冷や汗かき通し。最悪の重ね塗りの結果、事態は沈静化の一途をたどりつつある模様。さあ開き直って文献調査の合間に五島美術館に行くぞー! (追記) ダメ会議資料、やっぱ次の会議を通らなかったみたい…。やっぱり拙速はいかんよね…。

紅に染まったこの俺を

なぐさめるやつはもういない。 近所の丘から。こういうのが自転車の距離で楽しめるのは山形の醍醐味。

日本のマラーノ文学

四方田犬彦『日本のマラーノ文学』(→ amazon )を、島根からの帰途に読んだ。ユダヤ人は蔑称であるマラーノ=豚と呼ばれるその出自を隠して生きなければならない、歴史的経緯があった。同じように、出自を隠して「仮面のアイデンティティを被りながら執筆を続けてきた者がいるはず」(p.21)とする。 日本人という物語を演じながら文学的活動を続けてきた者がいるはずだ。彼らが出自をめぐって抱え込んでいる両義的な回避と拘泥の構造を、従来の在日文学論とは別の角度から見つめてみたい。(同頁) 出自を隠すという生存方策、表現活動を論じることは、特定の出自を持つ者や集団を対象とすることでもっとも意味あるものとなるだろうが、僕は出自を隠すことを要求する側へのインパクトを考えた時、対象範囲をもっと広げることにも意味があると思う。つまり出自を隠すこと自体は、さほど特殊な状況を設定しなくても小さな歴史の中にでも発生しうることである。そこから語ることを出発すれば、語られたメッセージは広い射程で届くのではないかと考えるのだが。

最強の飛行機

先週、山形から島根まで学会に行った。もちろん問題となるのは飛行機である。山形空港から伊丹までの路線を体験し、小型飛行機の揺れを知ってからは、恐怖のタガが外れてしまって、ほとんどあらゆる飛行機がダメになりそうな勢いなのだ。ゆえに「全て陸路」をさんざん模索したが、どうしても仕事との折り合いがつかない。泣く泣く羽田まで新幹線、羽田から飛行機を選択したのだった。 行きは天気が良かった。揺れも少なかった。しかし帰りは折悪しく例の寒波で天気は大荒れ。天気予報を見ながら大変嫌な思いをしながら空港に到着。グランドのひとに、揺れの持続する時間と大きさを具体的に説明してほしいと頼む(最近は必ずこれをやってます)。1時間のフライト中、最初と最後の20分がテーブルの上に飲み物を置けない程度で、真ん中の20分はシートベルトのランプが消えない程度っである、と的確な説明をいただく。迷わず笑顔で往復チケットをキャンセル、陸路を選んだ。 が、出雲空港を出たのが14:30。松江駅から岡山まで地元の特急、岡山から東京まで新幹線と乗り継いでも、東京から山形行きの最終は終わっている。ので高速バス。結局13時間かかったが、電車の長旅は本も好きに読めるし、ゆっくり眠れるし、もう好き放題の大臣旅行でザマーみろ飛行機。早朝4:00の山形駅からタクシーで帰宅する凱旋パレード感。ちょい眠りして仕事してやったわこのアホ寒波が。 という勢いで、今後は国内は行けるところまで陸路しかないな、と腹をくくったところ、たまたま電話をよこした幼馴染のパイロット野郎が「いや飛行機は揺れるのが普通でお前の恐怖はまだ揺れ世界の入り口」とでも言わんばかりの嘲笑ぶり。逆に、航空業界は、俺が考えた揺れない飛行機を真摯に開発するべきと申し上げた。パイロット野郎が言う、(1)揺れは速度に2乗する、(2)翼面積の大きい方が揺れる、(3)パイロットだけが知っている機体の重心位置は最も揺れない、の3つの条件で考えた最強の飛行機はこれです。 マジで開発しろよな!