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投稿

6月, 2009の投稿を表示しています

スリラー尽くしにて追悼

フィリピンの刑務所の連中も、悪びれずによくやるな、と思う( 時事ドットコム:囚人たちが追悼ダンス披露=M・ジャクソンさんの「スリラー」-比 )。 こんなにかわいいスリラーがあってよいものだろうか。 ファイナルファンタジーの面々によるスリラー。 マサラ・スリラー。途中、襲われた女性が顔をひきつらせるシーンがあるが、まあいろんな意味でひきつるよねと思わせる名シーン。 そしてオリジナル。音楽の事もだけど、黒人の地位をこの人は紛れもなくあげたよね、という意味でも本当に尊敬する。

ホリエモン フランス書院にて

堀江貴文 | 諸行無常のセックス観 (via. finalventの日記 )。ホリエモンすげえ。だいたい全然諸行無常じゃないし。トランスジェンダーに興味があるとか言ってますが、これは字義通りではなくて、性倒錯の対象としてのトランスジェンダーであって。と、突っ込みを入れるのは野暮承知だけれども、相手が36歳だから一応突っ込みを入れておきたい。というか何がすごいって、ある意味板垣バキの世界。誰が一番強いか中学生が語り合うかのような世界観がそのまま36歳まで持続していることの、失敗例でもあり成功例でもあるホリエモン。もうすげえ。午前中からおなかいっぱいです。

100年たったらみんな死ぬ

なんか帰宅したら机の上にどーんと置いてあった包みの中には、松田奈緒子『100年たったらみんな死ぬ』(→ amazon )の上下巻が。畜生山下、山形では手に入らねえんだよ!あてつけか! で、もっさもっさと読みました。おもしろー。変な人がいっぱいだった。しっかし雑誌を作る現場ってこれどこじゃない頭おかしい人がたくさんいて楽しいんだろうなーと思うよ。そいで確かに三宅乱丈に似ているとも思ったけど、『いとしのエリー』で知られる高見マコっぽいなとも思った。目から「カッ」ってビーム出すとこいいよね。 月曜日はねえ、いろいろ雑誌の発売日だから大変なの。喧嘩商売ようやく決着ついたし、SQジャンプの松井優征の読み切り力抜けた感じだったし、アイ・アム・ア・ヒーローすっとぼけてるしさ。それで、明日の仕事の準備まだなんだよ。もおさー。ありがとう。

マンガでいえば冨樫

授業準備のためにfreemind(→ FreeMind活用クラブ - マインドマップをフリーソフトで )で内容をまとめていたら、思った以上に深みにはまってプレゼンファイルへの転換ができなくなってしまった。もういいやってことで、これで授業やるわ。ノートテイキング用に、HTMLファイル化してからドキュメントファイルにして部分部分虫食いにして配布。初めての試みだが、マンガでいうところの下書きということになりかねない。 任意のノードを選択的に全画面表示できたら、もしかしたらプレゼンファイルよりも構造把握には適しているかもしれない。プレゼン紙芝居の弱点は、どう工夫しても全体のどこを説明しているか、聞き手が抽象的に把握しなければならないところにある。もっとも普通の文章をはじめとしたスクリプトとはそういうものだけど。瑣末な内容よりも話の構造を理解してもらいたいなあといつも思っているので。 (追記) 教室のモニタがあまり大きくないので、結局文字を大きく見せるためには倍率を上げる必要があった。そうやって部分を拡大すると結局全体が把握しにくくなる。できるだけ全体の構造を見せてから詳細に入る順序を取ったが、構造がいつも見えるようになっているわけではないので、思ったほどの効果はないかもしれない。巨大な画面があるといいのになあ。

木簡から探る和歌の起源

犬飼隆『木簡から探る和歌の起源 「難波津の歌」がうたわれ書かれた時代』(→ amazon )読了。昨年出土して騒がれた「難波津」「あさか山」の両面歌木簡について「国語学」による位置付けを試みつつ、万葉集編纂から古今和歌集あたりまでの「うた」から「和歌」までの見通しを考察したもの。本書では、人々の間に取り交わされた素朴な「うた」が典礼用の「歌」となり、それが平安時代の和歌につながっていく、との仮説に基づいて、7~8世紀の木簡を歴史の中に位置づけようとする。 いわゆる啓蒙書なので読みやすいが、学会内輪ネタとかもあって興味深い。内輪的によくある「文学対国語学」のなかなかかみ合わない論戦のところは、個人的に懐かしい味わいがあった。物証にこだわる「国語学」からすれば、木簡のような物証そのものこそが学問的手法の原動力たり得るので、文学に対する舌鋒はキレッキレである。犬飼氏の主張は、韻文の表記は一字一音式は訓字主体式に先行するとのこと。文学の連中は木簡も見ずに紀記万葉、風土記の類だけで上代語るなよコラという図式である。が、なんというか上の世代の論争だなという印象を受ける。若い世代は改組改編の津波後の世界を生きているので、そもそも文学と「国語学」はとっくに手を組んで、むしろコミュニケーションとか表現とかメディアの人たちを仮想敵とした同盟を結んでいるのだ(嘘)。 閑話休題、本書の筋道と別のところでもっとも興味深かったのは、木簡にあらわれる万葉仮名は「記紀万葉とはことなる使用層を示し、発音の清濁を万葉仮名の字体で区別して書かない」(p.111)、「上代特殊仮名遣いの区別もずさん」(同)という記述である。犬飼氏は平城京東院西辺出土の一部のものを除き、7~8世紀の木簡には同様の傾向がみられるとする。そしてその理由を、歌が書かれた木簡は典礼などで口頭に読まれたあとは捨てられる一回性のものだったため、とする。万葉集が「晴」の様相であれば木簡は基本的に「褻」の様相であるというわけである。 この違いを表記態度の違いと見るべきか、口頭言語における規範意識の違いと見るべきか。たとえば仮名のように清濁を書きわけないシステムは、あくまでも表記の問題であって当時の人たちが清濁を分けずに発音していたわけではない。しかし上代特殊仮名遣いは、発音上の区別が失われるとされる平安期よりはるか以前に曖昧になっていたとい

品切れ

村上春樹『1Q84』、買おうかなと思ったところがもう遅い。山形では完全に品切れの模様(情報母数=1)。アマゾンも品切れ、どころか中古が定価の120%で売られている。資本主義すげーなあ。思えば以前パフュームのDVD付きCDも同じだった。まさかとは思うけど、投機的に買ってる人たちが?そろそろ書評がガンガン上がってくるだろう。その前に読みたいんだけど。

google map apiの続き

google map apiの続き。javascriptでxmlファイルを呼び出して表示する仕組みのを採択。携帯電話で取得したgps情報がdms形式であるのに対し、google mapではdegree形式であるのは、計算式でいくらでも変更可能と分かった([百分率の小数点以下] = [分] / 60 + [秒] / 3600)。なのでエクセルにdmsで記入させて式でdegree形式に変更する。携帯のgps機能はどんなに精度を高めてもやはり誤差が出る。市街地の看板のプロットは数メートルの誤差でも駄目なので、携帯のGPS情報はそのままでは使えない。と思ったら、auでgps情報をメール送信する際に、手作業で地図を見ながら微調整できることが判明ゆえ問題クリア。となると問題は山中の目印がないスポットでは、微調整ができないということだが、これは別途 Google Maps API 2: 座標の取得(Lat, Lng) にて、航空写真を使いながら完全手作業で位置を特定する。念のため携帯電話でもgps情報を拾って置く程度。