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8月, 2009の投稿を表示しています

8月5日のこと

シミズと久しぶりに夕食。これまた久しぶりに吉祥寺(山形に移り住んでから初めて!)。ショックだったのは、西武国分寺から逆方向の中央線に乗りこんでしまったのに、日野に到着するまで気付かなかったこと。山形ボケすんのも大概にしろって感じです。すげー遅れて、パルコ下でマンガを漁る。品ぞろえが違うなー、とつくづく思う。マンガも本も、並んでいる中から選ぶから、並べる方も並べ方に工夫を凝らす、これが都市の良さ、というかその並べ方のセンスにお金を出しているのだとも思う。その後、オクサマへのシャツを選ぶ。男二人して何をやっているのかと。パルコの上の方のフロアを歩いて、あーなんかもう俺たち世代違うかも、と気づく。そしてくぐつ草でカレーとビール。なんてことはないことのに嬉しくって書いちゃったよ。 このときは『もやしもん(8)』(→ amazon )を読んだ直後で、どうしても地ビールを飲みたかったのだった。そしてこの写真はシミズが最近ハマっているとかいう一眼レフ。デジカメにデジカメ用ではないレンズを付けるのが流行っているとか、そういう話だった。で、僕はと言うとオリンパスのPEN(→ E-P1 )が欲しい。

8月4日のこと

書きためてあったのを。 今年も山形の学生を連れて関東に連泊である。毎年、東京での学生の振る舞いや、人や物への感じ方が面白いなあと思って観察することになるのだが、昨年あたりから、そのある種の「異文化接触」への感じ方が僕の内部で少し変化してきた(ようやくとか言わないで)。当初は、うちの学生を、地方社会の外部を見ようとしない「異文化経験値」の低い側、ないし「異文化許容度」の低い側に配置していたものが、東京もそう変わらないかも、というふうに思うようになってきた。もちろん都市の方が多様性にあふれていることは間違いない。しかし都市が出会える多様性は、当然のことながらやはり都市という文脈の中での多様性にすぎないのであって、その文脈で捉えられない・にくいものは、異物として排除されたり周縁化されたりする。そしてそうやった追いやられたものには「マナー違反」とか「下品」というレッテルが貼られて構造は強化される。それって構造だけ見れば地方と全く同じだ。地方では追いやられたものに「変な人」というやや大雑把なレッテルを貼るだけのことだ。 電車の中でご飯を食べるとか、化粧をするというのは都市部でのレッテル。そしてそれは地方ではOKだったりするので、引率した学生はどちらもやりまくる。一瞬出遅れて、様子見よっかと放置した。そしたら案の定、そういうことに一言いいたいのだろうという表情がありありと分かる方々が何名か。なんか言われたら説明しよっかなー、と思っていたが事なきを得た。あとでホテルで、あれは少なくとも東京ではナシという人もいる、と伝えたら「早く言ってくださいよ、自分ら田舎者みたいじゃないすか押忍!」みたいなことを言われて、「マナー違反」「下品」のあとに「田舎者」レッテルを追加した。

沈夫人の料理店

深巳琳子が新作を書いていた。『沈夫人の料理店』(→ amazon )は、言わずと知れた『沈夫人の料理人』と世界がつながった話で、舞台は中国古典から租界時代の上海?に。相変わらずドSの沈夫人とドMながらの料理人の李三が織りなす胸の痛む異色料理譚だ。意地悪な状況に追い込まれれば追い込まれるほど料理の腕が上がる李三は、スーパーサイヤ人になると超一流の調理師になるのだが(笑)、沈夫人は絶対に褒めないし本性からドMな李三は日々従順かつ自虐的な人間へと落ちてゆくことで、今日もまた最高の料理が誕生する。相変わらず意地悪な状況を作り出し続ける深巳琳子に拍手。胸が痛みつつも、どこかニヤリとしてしまう腹黒さを持ちつつ、おいしい中華を本当に愛している人集まれ~。 (写真は「料理人」の方) 深巳琳子はデビュー作『他人の家』(→ amazon )では善意の悪気を書いていて、沈夫人シリーズでは逆に悪意の優しさを描いている。そういうのビミョーな線を表現するマンガって僕が領域とするマンガではなかなか目にしない。その意味でけっこう貴重なマンガだと思う。

終了とメモ

原稿終わった。内輪の雑誌なので70枚くらい書いた。ただ長ければいいってもんじゃないっていうか、長い分ジャッジありのところに投稿するみたいな練られた感じじゃなくて、資料研究みたいな内容。今回の原稿は、1つのことを論証するための論文ではないので、データは全部出した。掘り起こして公開するのも研究者の仕事だろうと考えて。でもなかなか皆さんデータを公開されませんね。業績を稼ぐ前にデータを流用されるのを抑止しているのだろうけれど、あんまりそういう空気が強くなるとそのディシプリン自体が停滞する。媒体はともあれどんどん公開すればいいのにと思う。 僕がいつも思うのは、データ乗り入れのプラットフォームが必要だということ。各人が自分の研究に適したデータ作成をするのとは別に、他のデータとフラットに扱えるためのプラットフォームがあればいいのに、と思う。昨年試作品を作ったけど、あまりいいものではなかった、というのと、共同研究だったので研究者間でデータ公開に対する温度差があってうまくいかなかった。温度差があることも含めていい勉強になったので、将来的にはプラットフォームを作りたい。で、そこで必要になるのはデータベースの専門家の協力なんだなー。理系の人脈を増やしたいので、情報系の学会とかに足を運ぶべきだな、ということで忘れないうちにメモしておく。

人間は進んで

衆院選だが。飲み屋でおっさんと隣り合わせになると、時々議論を吹っ掛けられる。選挙行け、と。行くけど白票かな、と。民主主義は個人が社会を作り出す方法と頭では分かっていても、根本のところで信用できていない。僕は「国民が」などという政治家が嫌でしかたがない。なぜ「私は」「私たちは」と言おうとしないのか。あなたも国民じゃないのか。あなたも個人じゃないのか。社会を変えるあなたは、社会とどうかかわろうとしているのか、といった小学生並みの素朴な疑問があとからあとから。思想が先に?思想の手先に?人間は進んで思想の奴隷になろうとするものじゃないだろう。

在宅日数

8月に入ってからの在宅日数が4日間。出張と出張の合間にわずかに家にいて、これから埼玉の実家に。データ入力とか原稿とかマンガとかのタスクが山積しているなか、川とか山とか行きたいのに!読んだ本の記事とかも書きたいし、ドラクエのすれ違い通信もやってみたい(そもそもソフト買ってないし)のに!

3 seasons in Yamagata

東北は梅雨明けなく秋に 03年以来6年ぶり - 47NEWS(よんななニュース) だって…。そんな気はしていたけどね…。ただでさえ短い東北の夏が全くないことに。 仙台管区気象台は10日、「東北6県は梅雨明けと判断できる時期がないまま、秋への移行期に入った」と発表した。梅雨明け時期は1951年以降発表しているが、特定できなかったのは、2003年以来6年ぶり。

五十嵐大介と福岡伸一

五十嵐大介『海獣の子供(4)』(→ amazon )と、福岡伸一『世界は分けても分からない』(→ amazon )を読んだ。大好きな漫画家である五十嵐大介は、おそらくデビュー作から一貫してロゴス=言語で規定される以前の「世界」を懸命にとらえようとする作家。数年前にベストセラー『生物と無生物のあいだ』(→ amazon )を著した福岡伸一は、抒情的な方法を駆使しながらロゴスで「世界」を構築しようとする研究者。両者は対極の立場にありながらも、生命を流れ・全体・動きとして捉える点で、同じ地平に立っているように思えて、奇妙な符合を感じた。 五十嵐大介は独自の世界観で、生物産出の表象としての海を装置として、我々の「生命」という虚構を描こうとする。宇宙・地球・生物をニューエイジ的視点でつなぎ合わせ、マクロ―ミクロの連続性から大仰に捉える。よくある構図ではあるけれど、ロゴス外をそのまま作品内で描こうとする五十嵐節の真骨頂がいよいよ発揮されつつある4巻は、やや拍子抜けだった3巻の認識を新たにさせた。一方、福岡伸一は前作よりも一層の抒情的表現を交えつつ、分子生物学の立場から、細胞の局所的・非俯瞰的な動きが全体を「動的平衡状態」(動き続けている秩序状態・またの名を自転車操業常態状態)に見せている研究成果を前作同様に、でも前作よりも濃いミステリー風味で紹介する。この「動的平衡」がとりもなおさず生命が営まれている状況だとして、その平衡状態が保たれなくなったとき生命は生命でなくなる。逆に言うと生命を生命たらしめているのは、この平衡状態を作り出している機構そのものであって、誰もが知るように原子レベルで比較すれば生物と無生物に明確な線は引けない、という構図である。そこにはミクロ―超ミクロの連続性から、「生命」という虚構を描き得る立脚点がある。 全体と部分を階層構造としてとらえる構図は、人文社会学の営みにもまま見られる。が、知的に面白く見せるには技芸が必要であって、それはなかなか難しい。2人の著者にその技芸をもたらしているのは、全体をとらえるために部分を凝視せず、部分を脱出しようとする姿勢(そいでもってそういう姿勢は往々にして周縁を歩ませることになる)なのだろう。

この1カ月やってたことと昨晩の体験

現実のniji wo mitaを知る人からは意外!と言われるのだが、昨年の身体健診でメタボ宣言を受けた。腹回り87センチで(メタボの規定がおかしいという説はともあれ)内臓脂肪が多いのだという。血液検査では脂質が高いとの結果で、極端な運動不足、それなりのストレス、夜遅い食事など当てはまる項目が多すぎ。で、検診前の悪あがきというだけでもないのだが、この1カ月、炭水化物を減らして、昼食をナッツのみに変えてみた。炭水化物が減った分、野菜と肉などを多めにして、全体の食事量が目立って減らないようにしてみたところ、あっさり4キロ減って、昨年より腹回りが7センチ減った。途中、3食ともナッツにしたときは抵抗力が落ちてうっかり風邪をひいた。注意して進めれば、運動をほとんどせずに適正な体重に戻るのが分かった。 で、夜遅い食事と酒の主要因である元同僚と久しぶりに飲んだ。はしごしてたどり着いた店が、ボウイとかレッドウォーリアーズとかジギーとかレベッカとかそういうのを売りにしたバーで、その趣味色の世代ジャストミートぶりと店長の生ギターに軽い衝撃を受けつつ、キャバとかスナックが入りまくっている雑居ビルになぜかようなお店がとやや腑に落ちないものが。「お客さん、このお店のカラオケって音がいいんですよ」とにじり寄る怪しげな自称同い年の女性が歌うプリプリがうまい。レベッカのガールズブラボー泣ける。で、また別の女性が歌う工藤静香が似すぎ。聞けばお店の人ではないという。何ここ。腕に自信のある人しかこないお店ですか。工藤静香に歌声が劇似の女性、最後はリクエストに答えてくれて抱いてくれたらいいのにを歌ってくれたのだが、店の人ではないというのに客(彼女も自称客である)あしらいが妙にうまく、かつカウンターに座っているあからさまに堅気でなさそうな客などからして、清算が大変心配になってくる。そのうちなぜか店内の女性が工藤静香バトルを始めるも、みなうまい。元同僚ととりあえずノリでグロリアを歌って、出よう、と清算をするために立ち上がると、自信がある曲があるからこれだけ聞いてほしいと留められ、Blue Velvet。はい、どうも的にやや急ぎ足に清算を終えると、意外にも普通の金額で、いったいこのマクー空間は何だったのかと。

このところのマンガメモ

がね、もやしもんの最新巻なのだよ。武藤の話が良くて、特に作中企画の地ビールの話、とても良くて。ビールが飲みたくなったのはもちろんとして、もやしもんの呼びかけに応じてくれたあれのあれとか、ネタバレになるから書けないけれど、大学が舞台のマンガとしてはこの巻がいちばん見せどころじゃん?みたいな盛り上がりを見せた。こういうのが、こういうのだよね(読んでない人には全く分からないだろう)。 尾玉なみえも円熟期に入ったのかと思わせる落ち着きぶり。大手誌、しかも少年誌でやってほしいネタがてんこ盛りであった。少年誌の書き手が一線を退いて青年誌で少し羽目を外して書く、というのが作家のキャリアを広げるありがちなルートでもあるのだが、尾玉はそれでいいのだろうかと思う。尾玉は本来、青年誌(あるいは成年誌か)的ネタを子ども世界に翻案して毒濃度そのまま、ガワだけ違うのが持ち味であるから、少年誌のほうが味が生きる。単行本だったら同じじゃん、というわけでもない。少年誌単行本のあのサイズで読めば、やっぱり味が生きると感じるのが極北マンガ道であるはずだ。 そしてファンタジウムがマンガ読みの間であまり話題に上らないのは、うーん、テーマがあまりにniji wo mita好みであるだけなのかどうか。マンガとしてというのとは違う次元で面白いことは確か。

この3カ月聴き続けた音楽

が、山下達郎だけ、という僕としては異常事態である。だいたい3か月持たず飽きるのが常態である。どうやらRCA/AIR時代が一番好きだということが分かった。ライブ盤のJOY、Disk2が良いというexpopの話は嘘じゃなかった。レッツ・ダンス・ベイビーが素晴らしすぎる。そしてライブ終盤あたり、声がジョージ・マイケルみたいだなあと思う。歌い声が好きなんだなあ。

いろいろメモ

久しぶりに子どもを預かる。奥さんが所用で大阪なので、子どもにご飯食べさせて風呂入れて寝かせて、みたいなの。東京にいた時にはよくあったことだけど、子ども2人という状況は初めて。奥さんの苦労が身にしみるわ、みたいな。たった1泊だけど。お母ちゃんお母ちゃんと2人がわんわん泣くので、こりゃいかんなと思う。仕事と家庭のバランスは、もっと上手に取れると思っていた4年くらい前。行うは難し。 で、今日は甘口のドライカレーを作った。豚ひき肉と玉ねぎとピーマンと、あと卵の黄身を乗っけてアンパンマンみたいな顔を作って、これなら娘も食うだろうと。でもひき肉の食感がダメみたいで一口も食べてもらえず轟沈した。息子はおいしいと言ってくれたけど。うー、難しいな。辛いスパイスは使わず、ケチャップ多めにしたから味は大丈夫と思っていたら、食感か。