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8月, 2010の投稿を表示しています

影のある居住空間と大きな大きな机

栃木の妹夫婦の家で一泊二日。両親と、もう一人の妹夫婦も来ていて、実家で久しぶりに集合するかのようなのんびり加減(写真は義弟二人)。クラフト系の妹夫婦が農家を改築した家なのでそこここにこだわり未満の作りがあって、とにかくいるだけで気持いい。居住空間の気持よさに対して僕はほとんど無頓着なのに、ここまで何がアピールするんだろうと思う。 ひとつ言えるのは、家の中の暗さだろう。古い農家に入ったことがある人ならすぐ分かると思うが、日本の農家はとにかく暗い。現代の家に住む我々はその暗さから脱出すべく、採光窓を大きく作り、照明装置で余すところなく照らし出す空間を作ったので、建物の中にあまり影を見ない。その気持よさと安心?は、この気持よさとは明らかに逆。偏頭痛持ちは光が苦手なので、僕だけがそう感じているのかも知れない。 夕方でこの暗さ。実際はもうちょっと明るいかな。写真に出てくるこの暗さは、写真を見ていても(僕は)気持いい。手前の垂れ下がっている布は梁に吊るしてあるハンモック。夜、子どもを妻と寝かしつけながら、曇りガラスが張ってある格子戸から隣部屋の柔らかい光が薄く差し込んでくるのをぼんやりと見た。 写真は、家の外側に暑さ対策として立てかけてあるヨシズ。夜、外から見た様子なのだが、子どもが寝ていた部屋から見ていたのと似た雰囲気。こういう光はなんともいいなあ。 もう一つ、この家から刺激をうけるのが、居間にある大きな机。たたみ2畳分くらいか。以前訪れたときに書いたように( niji wo mita: 連休にサービス )、妹夫婦が北京にいたときに建て壊した家屋の廃材(門)をもらってきて、大きな机としたもの。で、これくらい大きな机があると、4人くらいが荷物を取っ散らかしても十分余裕を持って仕事ができるのね。子どもの勉強部屋とか作らないで、こうやってデカイ机でみんなで勉強したり仕事したりしても面白いかも、と思う。 持ち家とか持ちたいとは全然思わなかったのだけど、これはけっこう心が揺れるものがあるな。

dvipdfmxでのフォント埋め込み

とりあえずの原稿がひとつ上がった。結局、mojikyoフォントに依存しながらTeXで書くときのubuntu上のお作法が分からなかったので(というかその問題に取り組む余裕がなかったので)データ取りの段階はずっとubuntu、途中まで書くのはemacs、最後の原稿調整からコンパイルは結局winに戻って行なった。 ところでこれまでdvipdfmxをかけるときにフォント埋込みをやらなかった。これは異なる環境で自分の書いたpdf原稿を見る機会が乏しかったせいだが、ubuntu環境で見るとおそらく漢文表記とか特殊なことをやっていることもあってか、ちょっとwinの時の表示と異なる箇所があった。提出先のプリンタで印刷されて版下にしてもらった時は、同じwinでも版面の印象がちょっと違っていたのも何だかなあと思っていたのだ。そこで今回はきちんとフォント埋め込みをすることにした。 方法は、 チュートリアル/PDFの作成 - MyTeXpert に従う。あっさりできあがる。とりあえず見慣れたMSフォントで。iPadで開いてみても、Apple特有のおしゃれフォント(笑)に変更されていない。ubuntuではIPAフォント依存なので、そっちでもいいんだけど。 platex file platex file dvipdfmx -f msembed.map -o output.pdf file.dvi 内輪の研究会雑誌に投稿するものなので、各投稿者が完全版下原稿を持ち寄ってキメラ的な論集に仕上がる。『新常用漢字表の文字論』(→ amazon )みたいに、論文によってイメージがまちまちなのも学問的な背景とは別に、手弁当感覚みたいで結構好き。以前掲載された論文なんかはまだTeXの使い方に習熟していないので、今見るとこここうしたほうがいいなと思うところがあったりするのは、ご愛嬌。 出来上がりの原稿を自分でチェックするとき、これまでは必ず印刷していた。そのことの意味って、iPadを使ってみてしみじみ分かるんだけど、異なる媒体で眺め直してみるというところにあると思った。全体がよく見えるということはあまり重要ではない。それだったら大きな画面でPDFファイルを見ればいいだけ。でもそれだと不思議と「読み直している」感覚が湧いてこない。違う角度から見る、ということが媒体レベルで行われるとき、初めて「読み直す」感覚が生

広島ってどうなってんの?

息抜き程度に観るはずがすでに1時間も過ぎている。きっかけは何の気なしに観始めた暗黒舞踏だった。ニコ動で観てたんだけどリンク解んなくなっちゃったからいいや。筋肉の動き見てるだけで全然飽きないと思いながらリンクを伝っていったら、ノヴァ子というのに遭遇。何これ。また広島?広島ってダンス突然変異を生み出しやすい体質なの?水なの?砂糖に含ませた微量の毒物すなわちレメディなの?自然治癒力なの?(→一時期はまった YouTube - アイドル界の新星 アムロレイ  0第2幕 0 ) ノヴァ子(→ ノヴァ子とは (ノヴァコとは) - ニコニコ大百科 )となりのトトロ『さんぽ』を感性のおもむくままに踊る。 でもこの人の最高傑作は、ニコ動に上がっているキャッツだ(→ 劇団四季catsのジェリクルソングを感性のおもむくままに踊る。‐ニコニコ動画(9) )。他にも前衛と前衛じゃない世界のギリギリ狭間の世界を狙ってくる作品がてんこ盛りです。次世代動画サイトに全然ついていけてないんですが、ニコ動をどうやってブログに引きずりだすのか教えてくれた人にフィールズ賞上げます。ずっと観てたいなこれ! 広島、グギギギ…。 (追記) 自分にフィールズ賞を差し上げます。たぶんこれで見えているだろう名作キャッツ劇団四季紛いを。いややっぱできてない。フィールズ賞お召し上げ。 【ニコニコ動画】劇団四季catsのジェリクルソングを感性のおもむくままに踊る。 ついでにスリラーも。 【ニコニコ動画】魔女宅の「やさしさに包まれたなら」を踊ってみた。 いや、少し冷静になってみると原稿の締切が近くなって、俺おかしくなってんのかもしれない。落ち着いて角砂糖に微量の毒薬を浸してみるわ。

逝去したデスクトップPCとCRTモニタの行先

逝去したデスクトップとブラウン管のモニタを廃棄して、thinkpad x200に外付けモニタ生活をするつもりだったのが、初手から失敗。まずブラウン管モニタってもう廃棄もできないし、お店も引きとってくれない。回収業者に別途当たるか、メーカーに引き取ってもらう方法しかない。回収して輸出している業者もあるみたいだから送ってみるか( モニター(ディスプレイ)処分 廃棄 無料 回収 引取 方法 送るだけ!@大阪 )。デスクトップの方は、OSを再インストールすればたぶん使える。でも、たぶんもう使わないなあ。大きい画面が必要なら液晶モニタの大きいのを買うし。 もひとつ問題はthinkpad x200にはHDMI端子がないということ(涙)。何、昨今のノートにはHDMI端子は標準装備ですか!どういうことかというと、最近主流のワイド16:9の画面にきちんとした縮尺で出力させるには、HDMI端子がついていないとちょっと間延びした感じの画面になってしまうのだった。見れるからいいじゃないかという考えもあるだろう。あるよね。あるだろう。あるだろうよ。しかるに大き画面が必要であっても液晶モニタの大きいのは買えない(にげられない!)! ということで職場に鎮座ましましている4:3の古い液晶モニタが急に大事に思えてきたよ。 デスクトップもモニタもOS再インストールすれば問題なく使えるはずで(起動しなくなっただけだから)、使えるようにしてどっかに置けよというのはそうかも知れない。学生に聞いてみようかな。ただし極めて望み薄。

わっ、今月は豊作ですか?実りの秋だから?

遠藤浩輝『オールラウンダー廻(4)』、望月峯太郎『東京怪童(3)』、東村アキコ『主に泣いてます(1)』だけでも大変なのに、山岸凉子『テレプシコーラ第2部(4)』、三宅乱丈『イムリ(8)』に短編集ちょいちょいで今月は豊作であるぞー。『東京怪童』はもう一度最初から読んでみよう。東村のは絵柄のパロディとしての水木の影響をマジで受けてるように見える。何が変わったんだろう?

ジャガー最終回は本当だった

噂は本当だった。うすた京介『ピューと吹くジャガー』の連載が終わってしまった。しかも最後はまた楽屋オチ的な…。ハマーが35歳だという設定は泣ける。ジャガーの頭がああだったこともね。季節の変わり目は、楽しみにしていた連載がまた一つ去り、気のおけない同僚がまた一人去りゆく。 夜中に屋久島の友人が送ってくれた時計草(パッションフルーツともいう)を半分に切る。果実の表面に皺が寄るほど置いたら、鋭い刺激のある酸味が落ち着いて、南国独特のまとわりつくような香りとどろっとした甘みが前景化する。立て続けにふたつ切って食べる。まな板にこぼれる果汁がもったいない。でも、昨年は果実の表面に皺が寄ったのを古くなったと勘違いして捨ててしまっていて、こぼれるどころでなくもったいなかった。今年は食べごろの見極め方をきちんと聞いている。 集まり散じて人が変われば、散じたところと美味しいものの交換が、もっとできるのだ。

同じ皿から一緒に飯を食え

TeXで書いたテキストがどうしてもコンパイルできない。と思っていたら、そうだこれエンコードがutf-8だったんだよねと思い出して、jisに直してからコンパイルしたらすっきり通った。ずっとjisで論文書いていたものだから、oooのcalc(msで言うところのexcel)でユニコード文字を取扱い始めていたのを忘れていた。 どうなんだろ。日本語史の表記研究やっている人、特に文字研究やっている人はデータを取るときにもうユニコードで取るようにしているというけれど、僕の場合はjisベースでデータを構築してきたから、いまいちユニコードに突入する気持ちになれない。データそのものは大漢和辞典番号で一意に管理しつつ、アウトプットの時だけmojikyo fontwo使っていた。ところがこれがやや年配の共同研究者に受けが悪い。wysiwyg(what you see is what you get)でないのが主要因。あとは今昔文字鏡みたいなソフトがないと対応できなかったり、フォントに奇妙な著作権がくっついていることなんかが原因なんだけど。今年やっている作業からユニコードも使っていいことになった。それはそれで時代の流れかなあとぼんやり思いつつも、問題は共同作業者が同一の文字に対してあるときはユニコード文字、あるときは今昔文字鏡依存みたいな使い方をしているということだ。つまり、what you seeでは同じなんだけど、データ的なwhat you getが同一でない。 これを説明して、きちんと納得してもらうのはものすごく大変なんだよね。それは、データに対する考え方が根本的に違うから。よくwordで作った見栄えの良い印刷文書を、空白が見える設定でデータ分析してみると、スペースなんかで調整したものすごいアナログな手法が見えたりすることがあるじゃないですか。で、バージョンが違ったり互換性のある他のソフトで開くとレイアウト崩れまくり、みたいな(コンピューターに詳しい同僚に言わせれば、あれは悪しき原稿用紙感覚であって、文書作成者には常に見えないマス目があるらしい)。つまり、データそのものと見えている姿の、2つのレイヤーを区別する考え方を理解するまでに一つのハードルがあるわけ。で、そのハードルを越えたところに「見えているのと違うデータが存在しているのはわかるが、いま見えているものの背後にあるデータを手探り

呪いの法則

僕が通い詰めるお店はなぜか潰れる、という呪いの法則があると思い込んでいたのだが、どうやら市場としてまっとうにパイを狙えていないお店を好きになってしまうだけなのかも知れない。思い返せば記憶に残る大好きだったお店は、確かにどれも脛に傷持つ系であったような気がする。店主が10回くらい転職してたどり着いた感じであったり、変な宗教にはまっていたり、極度のマクロビ信者だったり、資格なしであれしてたり、店員全員が不自然なくらいに無愛想だったり、それでも美味しかったり気持ちよかったりするお店に、なぜかたどり着いてしまうのだ。そしてそういうお店は、ある種の大衆性というかマーケティング的な当たりの要素を決定的に持っていなかったりするものだから、長続きしない。長続きするとしたら、たとえば社会不適合者が集まり続ける中央線沿線くらいのものだろう。それか、社会が俺に適合しないと言い張る者が集まり続ける中央線沿線くらいのものだ(後者のほうが本当の意味での社会不適合者)。 そんなわけで、行きつけているお店が長期休暇に入ろうものなら、途端に不安になってしまう。今朝も髪を切ってもらっているお店のブログを見て、長期休業は新装開店の準備と分かって安心したし、よくできたアンドロイドみたいな女の人がレジやってるパン屋さんも、ただのお盆休みだったと分かって安心した。元同僚に教わってまだ行っていない、コーヒー豆のおいしいお店があるのだが、話しを聞くだに上記のお店的な不安要素を持っているように思われる。行ったら行ったで、呪いの法則強化になりそうで怖いわけだが。

her yack she night more rail

そんなわけで、8月頭から色々あって、色々在宅でやったりしていたわけである。お盆などは、初めて山形で過ごした。父がイギリス、母が台湾に行っていたので、実家はもぬけの殻。おかげで実家行脚をせずに済み、ひたすら自宅でとうに締切りを越えた作業を行っていた。座りっぱなしで食べまくり。夜は荒んで一人飲み。そんなわけでとうとう 「horror girl date it kit war」 「zoo born kits eel death」 恥ずかしいので英語で言いました。わかんなかった人は、 AT&T Labs Natural Voices® Text-to-Speech Demo でネイティブに言葉攻めしてもらうといいよ!座っている時の微妙な腹部へのセルフ圧迫感ってあるじゃないですか。ああいうの。

再びEDEN

半月遅れで共同調査のデータ入力を終える。そして別件原稿の月末締切りが迫る(季節研究者のお約束的ボヤキ)!今月もほんと色々あったんだけど、それは気が向いたら。 で、またもEDENを全巻一気読みした。物語全体のフレームがだんだん分かってきた。老衰期を迎えた現宇宙が新宇宙を生み出すための準備を人類に行わせるために、神様的な何かがエリート集団に人工生命体を作らせる、という話だ。すごい陳腐な物語りに思えてくるな、こうして書いてみると。 でもEDENの素晴らしい所は、新宇宙に向かわずに、人類が貧困と殺し合いのなかで絶望しながらも踏みとどまる人たちを描くところにある。以前、神話に似たシークェンスについて触れたことがある( niji wo mita: しかしわたしはあなたと共にある )。逃げ出したいけれど逃げ出せない、あるいは逃げ出さないという選択は、けっこう自分の価値観に合うものがあるな、と思う。予定調和的な大団円もなく、逃げ出さなかった結果と責任を(主体的な意志とは関わりなく)背負ってただ生きざるを得ないという人間に向かって、救いはないけれど救いのフィクションだけを「真実」として掲げ続けることが、本当の意味での希望なのだろう。そういうもんだ、と考えることが性分に合っているみたいだ。 ああ、また非建設的なことを。最近どうにもいかんね(ゆえに更新が滞っている)。いや、論文書けよということでしょうね。