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10月, 2010の投稿を表示しています

extreme "Saudades de rock"

エクストリーム"サウダージ・デ・ロック"(→ amazon )をずっと聞いている。 メタルっ子を引退してからも買っているCD(というか若い世代はもうCDを買うことがマイノリティでしょうけど)の一枚として、新しいアルバムを出していたことも知らなかったエクストリームの、これ再結成して1枚目、通算5枚目のアルバムだな。2008年だって。2枚目"pornografitti"、3枚目"three sides to every story"あたりの音がする。エクストリームというよりか、ギターのヌーノが好きなので、ソロ名義のも実はちょくちょく買っていた。けどここまで90年代的な匂いがするのはなかったな、と思う。ファンクな感じも、コーラスのあの感じも、どう聞いてもエクストリームだってことがすぐ分かるわー。ゲイリー・シェロンも全然声変わんない。90年代に残っていたハイトーンボイスの残党たちは、いまや見る影なしだけど、そもそも彼は昔から無理な歌い方はしていなかった。 懐古主義です。おっさんです。言い訳は一切なしです。じゃあ、若いの!これ聞いてどう思う!いいだろうが。いいものはいいものはいいものはいい、と宇多丸師匠もおっしゃっておる。youtubeにて聞けい。2008年のアルバムから。 そして3枚目のアルバムから、名曲cupid's deadを。4分辺りまでの貯めから、5分のところからのブレイク!よゐこの大きな人が映っていますが、これはポール・ギルバートという槍の名手です。ミッドランド戦争のときには1人で1000人もの敵を倒した功績で、レーサーXと呼ばれたんだ。 さらに2枚目のアルバムから、僕らのアンセムget the funk outを!これこそ生の90年代であって、まあぶっちゃけおじさんも恥ずかしい。しかし当時としてはファンク・メタルというのは新しい感じがしたんだ。今ではカート・コバーンみたいな髪型(=往年の江口洋介=人造人間18号)をしているヌーノもこの時は、しっかりLAメタルみたいなファッションなんだ。このころは松岡というひとがサングラスを後ろ向きにかけて、新しいファッションを無理やりつくろうとしていたんだ。 しかしこの人達が一番売ったのは、たぶん2枚目のアルバムに入っているmore than wordsという曲

マンガだよっ

学会以来忙しくて、なかなか書けなかったのだけど、この数週間で読んだマンガを。書影乱舞。 入江亜季『乱と灰色の世界』(→ amazon )は、とうとう買っちゃった。群青学舎から何気に読んでいますが(買ってない)、買ったら好きになるだろうなあと思っていました。新谷かおるみたいな線を描く人で、輪郭がはっきりしていて書き込みが多いのにキラキラした感じ。好きです。ああ、好きです。 ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ(2)』(→ amazon )は、俺は受賞する前からこのマンガに目をつけていたよっ!と某所でひとりで訴えているわけですが、小樽で起こったロシア人との入浴トラブルの話なんかもう俺に語らせろと。あそこは入浴の解説があったから救われたのではなくて、多言語版の入浴案内を作って解決に向かおうとしたのであって、ローマ人は属州ゲルマンの人向けにゲルマン語派の何か(1世紀ごろのあのへんの言葉)で看板作ればよかったんだ。合わせてヤマザキマリ『涼子さんの言うことには』(→ amazon )。いいお母さんだよ。 よしながふみ『きのう何食べた?(4)』(→ amazon )は、待ち望んでいた4巻。読むたびに主人公の筧氏とどこかで競い合っている僕ですが、料理上手な友人が家に遊びに来る話は激しく共感しました。僕もそれなりに料理を作るけど、そういうコジャレた感じのパーティー料理はダメなのよね。エビとしいたけの蕪料理はそのうち絶対作ります。ちなみにこれは学会で歩きまわって、マックで休憩しながら読みました。楽しい物を読むと疲れが一気に回復するわー。 久保保久『よんでますよ、アザゼルさん(5)』(→ amazon )はもう完全にシモ方向に流れています。小中学生ノリです。いい加減大隈重信が本気で怒らないうちに大概にしたほうがいい。それでも読者をやめませんが。 杉本亜未『ファンタジウム(6)』(→ amazon )は、相変わらず感度バリバリです。言語聴覚士登場なんですが、こいつの胡散臭さの描かれ方がうまいわー。「君の人生の目的は何?」いるいるこういうやつ。いろんな意味で目が離せないマンガ。 五十嵐大介『SARU(下)』(→ amazon )は、相変わらずの五十嵐節です。これは最高傑作『魔女』(→ amazon )のスピンオフと見て良い?星の楽団が夜のアルプスで歌いだすシーンで、空間に花が咲きみだれてゆく演出が

カイト・ランナー

カーレド・ホッセイニ『カイト・ランナー』(→ amazon )を読了。学会の宿を会場から遠いところに置いたので、2日間の移動中に読み終えた。翻訳は2006年が初版。原作は2003年、アメリカの911テロが2001年である。アフガニスタンからアメリカへの移民である著者がこのタイミングでこの小説を書いたことは、テロ後の世界へのメッセージと読むことができるだろう。 前評判どおり、感動的な作品ではあった。まだソ連侵攻の戦火に塗れる1978年以前と、2002年の「現在」を横断して物語は進む。描かれているモチーフはアフガニスタンの裕福な家庭で育った主人公と、その召使いとの友情、裏切り、秘密と贖罪である。王政の古き良き時代が共産時代を通じて破壊され、共産時代なき後の覇権争いで割拠した軍閥、その後のタリバンにつらなる現代史に翻弄されて、スンニ派とシーア派が民族問題と重なり合いながら憎しみあう。文化様式を誇りの拠り所としながらも時にそれに捕らわれて足元を救われる。そうした大文字の装置のなかで徹底的な絶望を体験しながら、それでも普遍的な価値を諦めないところに希望を見出そうとするのが本作品の見どころだと思う。前半の美しいアフガニスタンと、後半の荒廃したアフガニスタン( らばQ:あまりの違いに驚愕、アフガニスタンの首都カブールの40年前と現在を比べた写真 )の対比の中で主人公が重苦しい人生をわずかに前に進める様子が胸を打った。本作は映画化もされている。映画に向いているだろうなと思いつつも、小説の抑制した感じ、最後までじりじりと坂を登りつづけたまま終わる感じが失われていないかが心配だ。 この小説の背後に描かれているアフガニスタンの歴史は、僕のように中東事情に疎い者には、世界史のような俯瞰図視点よりもある人物の当事者目線の方がよく伝わる。僕は、本書を読んでアフガニスタンのことが身近に思ったし、身近に思えば好意を持つところまであとすぐだ。冷戦の時代に翻弄された苦難の歴史を人間の普遍的なテーマで描いた本書は、ベストタイミングでアメリカでもずいぶん売り上げたようだ。テロ後の世界で、この本は少しでもムスリムへの偏見緩和に役立っただろうか。そう願わずにはいられない。 それにしても、こないだ読んだ1960年代の話もそうだけど、僕らは冷戦の時代を生きていたんだなあと思う。米ソの対立の狭間に生きていた。米ソ対

約15年ぶりの名古屋

バスを乗り継いで朝の名古屋駅前。ホテルまで歩くのがもう無理と思ってタクシーに乗る。運転手さんと会話するに久しぶりに生の尾張方言に接して、おおっと懐かしい、もう少し引き出そうと思って要らぬ会話をする。まさに「ふるさとの訛りなつかし 停車場の人込みの中に そを聞きに行く」。実際はふるさとというほどでもない。父の仕事の関係で引越しは小学校だけで4回した。その一部に名古屋市近辺があっただけなのだが、日本語学の教科書が教える言語形成期 5~14才)のほとんどを占めるこの場所の言葉をびびびっと思い出した。山形で言う「んだから」を名古屋で「だで」。この先は一方通行になっとる。だでお客さんここから歩いてもらってもいい?いいっすよ。 ひところ毎月通ったプラネタリウムも場所が変わっていた。駅を降りるのは20年ぶりくらいだな。

お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!

加納明弘・加納建太『お前の1960年代を、死ぬ前にしゃべっとけ!』(→ amazon )。全共闘で活動家だったオヤジさんから、オヤジさんの1960年代をインタビューするという移植の企画で、 Eastedge1946 のWEB企画を書籍化したもの。聞き手の息子さんが1974年生まれで、僕とほぼ同年代ということもあり、インタビューから見えてくるオヤジさんの人物像、息子さんの人物像に強く興味を惹かれつつ、何より父と息子の関係に共感した、というのが率直な感想。 1960年代の話は、僕の母校が1990年代にもなって、まだバリケードとかストライキとかやっていた時代錯誤な大学だっただけに、その背景を知るための良い解説書にもなった。90年代の革マルによる「学生」運動は全然学生の賛同を得られず、もののみごとにポシャったわけだが、その時の僕らの論理は「いいから授業受けさせろ」だった。それが60年代の「クラ連」と呼ばれる人たちと軌を一にしていて苦笑い。経緯や結果はともあれ、登場人物の役回りに新しみはなかったのかもしれない。学費値上げと湾岸戦争が同じ俎上に登りうる節操の無さも同じものを感じた。90年代は運動をしていた人達にとっては、ベトナム戦争のときと違って時代の後押しが弱かったと思うが。「多国籍軍」ってアサヤンでパロディ化して使われているくらい、世論は違う方向向いていたもんなあ。 なお、書籍には含まれていない、WEB版第八章でバツ2を迎えそうになる74年生まれ息子氏の半生が語られる。書籍のタイトルからして含めない方が良かったのだろう。同世代としてはここも結構読んでいて共感するところが多かった。

狂っているけど狂ってない人たち

うちの学祭がつまらん。ということで、教員何人かで、DJがいてメイドがいてポケモンイベントがあってコーヒーがおいしいカフェを手加減抜きでやろうということに。大人の悪い力(高い尿酸値など)をすべて使いきって、本気で作り込んだところ、大人の悪い空間が現出!そこに悪い学生が集合して、山形のダークマターが新しい宇宙を作り出すこととなった。 ロゴはデザイン本職の妹に発注。学科長の顔を無断でスタバのパロディロゴに変える。ポスターやエコバッグなどのグッズにロゴを使用して、収益もはかる。ユーストでDJやメイドの様子を発信して、地方に雌伏する強力ナードな皆様をお呼びする。そして養成校系の学科が企画した子ども関連のイベントに目をつけ、コジャレ系のカフェを演出してママさんを陥落、じゃなくて憩いの場所を作る。でー。学生の教育とかいうお題を完全無視して、ただ教員が悪乗りして楽しめることを全部やる。 そいで僕はコーヒー担当だったのだけど、元同僚(かなりのワル)に教わったマジうまなコーヒー屋さんとのコラボでやりたい放題のバリスタ具合。2日間で延べ430杯のコーヒーを淹れた。これをぶん回すのは超絶楽しかった。なぜならば、いまもって果たしていない僕の夢が100人分の給食を作ることで、大勢にたくさんの飲食物を台所ぶん回すことがやりたかったからだ。宴の最後は夕暮れのなかDJ兼VJがエレクトロな空間を演出してくれて、自然発生的にレイヴ状態に。コーヒーも大盤振る舞いで満足満足。 そんなわけで、楽しさだけがひときわ残ったイベントだったかというとそうではない可能性も保留して、職業病として学生にとってはどうだったのか、ということも想像しておく。思いつきの段階から外部交渉、教員同士の言いたい放題のアイディアの嵐など、準備段階の全てに関わるメーリス全部見せてきた。当日も教員がやりたいことを本気でやっているさまを、教育的な配慮抜きで見せた。いや、見せるほどの主体的意識もないまま、見られたといったほうが適切か。学生に投げっぱなしの教育や、それと対極の完全パッケージ型教育があるとして、そのどちらも「学生をどうにかしたい」教育の重力圏にあると考える。それで「どうにかなる」部分ももちろん大きい。しかし、日頃、大学のあり方、評価とカリキュラムの厳密化、教育の質保証みたいなことを考えさせられるだけに、そこを突き抜けたあり方が結果的に