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9月, 2010の投稿を表示しています

手話の「方言」にもプレステージ意識はあるか

いろいろ感度の高い学生がいる。学生に限らず感度が高い人って、尊敬してしまう。で、そういう人はどこかでマイノリティ体験をしていることが多いのだけど、その学生は両親が聾だという(本人は非聾)。だから母語に近い感覚で手話を使うことができるとのこと。手話も文法構造を持つので何かの補助手段であったりただのシンボルであったりはせず、ひとつの言語なのだけど、非手話言語に比べれば限外に読み取らねばならないモダリティ的要素が多くありそうなことは推測がつく。僕は手話を勉強したことがないので、あまり迂闊なことは言えないが(手話ニュースは時々見る)、目線や表情、身体の微妙な動かし方が、文脈を形作るのだろう。そうした読み取りが必要とされる環境に置かれていたことが、感度の高さにつながっているのかなあなどと思った。 その学生が僕の日本語学関係の授業を履修している。今日は方言への気づきの話。言葉に地域的なコードがあることは幼児でも環境が整えばすぐに気づかれるのだけど、環境が整わなくても小学校の国語で方言を取り扱う際に概ね気づかれる。ただ自分がどの程度の方言話者であるかとか、どの言葉が方言かといったことに気づくのは個人差や語彙差が大きい。という話をしていたら、関東で手話を使ったら自分の手話が「訛っている」ことにショックを受けた体験を件の学生が話してくれた。手話に地域差があることは知っていたが、それを「訛っている」と捉える感覚は面白いなあと思った。よく言われるように東北方言話者の多く(特に高年層)は自己方言のプレステージが低いと感じており、それを誤ったものとして「訛り」と捉える。自己方言のプレステージが高いと感じられることが多い、例えば大阪方言などの話者は、自分の言葉を「訛り」と捉えることは少ない。方言など言葉の変異に価値付けを行うことは言語外の要素が大きく影響するわけだが、手話の地域差もおおむね方言のプレステージが適用されてしまうものなのかなと思った。たぶんこういう研究はあんまりないと思う。

上村一夫『凍鶴』

風呂に持ち込んで上村一夫『凍鶴』(→ amazon )を読む。何度目か分かんないけど、久しぶりに読んだ。絶品過ぎ。阿久悠のあとがきも素晴らしい。よーし!寝る。

稲刈り・「はせ」の語源

子どものご近所コミュニティ行事で、稲刈りを手伝った。春の田植えからここまで来ているわけだが、奥さんに任せっぱなしにしていて、父親は初めての参加。1年ぶりのバスケでも大丈夫だったのに、稲刈りのハードさで右足付け根を軽く肉離れした模様。連日の雨でぬかるんだ田んぼに長靴がのめり込み、引き上げる動作がこの事態を招いたようだ。 稲刈りが終わって、稲を天日干しにする。田んぼに突き刺した棒に、ひとつかみ大に結わえた稲を干していく。写真を取らなかったので、その様子をこちら(→ 雰囲気だけ:はせがけ )で。山形に来てからやたらに見かけるこの干し方、稲刈り教室のじっちゃん先生に「これ何て言うんですか?」と尋ねてみたところ、「はせ。棒ははせ棒。こうしたのははせがけ」との答え。初めて名前を知った。 帰宅後、日本国語大辞典(第二版)を調べてみるも、載っていない。方言辞典の類には載っているかどうか。はせがけ体験をしてみて分かったが、紐などで棒に結わえるのではなく、棒に直角に打ち付けられた横板に稲を互い違いに乗せていき、その重みであの形を保っている。とすれば、「斜掛(はすがけ)」の転か。などといい加減に考えて東北地方の習俗に由来を持つのかなどと想像していたら(これこそまさに語源俗解,folk etymology)、東海地方で「はざ」という記述を発見(→ 稲を干す。 | 特集 | 住まいネット新聞「びお」 )。ああ、これは小さい頃よく見た形だ。そこで改めて日本国語大辞典の「はさ」の項目を見ると、ヒット。 はさ【稲架】《名》(挟(はさ)むの意。「はざ」とも)農家で、木や竹を組み、刈り取った稲をかけて乾燥させる設備。おだがけ。いなかけ。 確かに稲を架ける様子は、斜すようにも見えるが、挟むようにも見える。むしろ東海地方のような横に組んだ棒に挟む形で縦に架けていく様子こそが、「挟む」にふさわしい表現であるから、こちらが本来の形か。山形の「はせ」はそもそも「架ける」という表現では無理がありそうでもある。いずれ地域ごとに稲架けの方式が変容して、東北地方では縦にした棒に稲を架けるようになった。そして名称だけがそのまま残って、語形と意味のつながりが失われたと考えるべきだろう。 保元の乱、ではなくて方言の欄を参照すると、同系の言葉が本州に広がる。文献の初出例として『和訓栞』(谷川士清,1709-1776)が挙がるが

矮小化してごめん尖閣沖衝突事件

尖閣沖衝突事件の中国人船長を釈放: 極東ブログ 読んだ。ああ、政治ってそういうジャブの応酬だから、虚実の見極め大事だな思ってニヤニヤしながら納得してしまった。小学生のプロレス技に本気出してクラス内ドン引きというそういう構図と読むべきか。ネット上で吹き上がる皆様はさしあたりプロレスでヒールをやった子に本気のクラス会議を開いちゃって、ヒールの子も引くに引けないみたいな。ヒールの子目線にたって、事態を矮小化してみよう。 俺技かけるときはいつも「こんくらいなら本気で痛くないしいつも怒んないじゃん」って調整しながらやってたんだけど(でもちょっとあいつ生意気だからちょっと痛くしてやれとも思う)、力加減間違えると先生に怒られるから力加減は絶妙にやれてた。休み時間のプロレスごっこ楽しいし(でもプロレスごっこでのやり役やられ役はクラス内の人間関係、直だけど)。でもあいつ最近先生と仲よくない感じだからもうちょっと強くても大丈夫かなと思って力をちょっと強くしたら、マジギレしようとするからこっちもちょっと引いた。何、今日家でなんかあったわけ?引いたくらいでもいいんだけど、俺も俺グループへの面子あるしこっちも怒るフリするよな。そしたら、向こうで先生睨んでるし。先生いつもあいつをひいきして。でもあいつ先生に言いつけたりしなかったから見所あるな。 中国ってやっぱり歴史背負い込んで国家やってるから、「周辺諸国には基本、上から目線」をいまさらやめられない。そこを本気で対等と思わせたいなら、グーでやりあうしかないけど、やりあったあとの世界で日本は得をするんだろうか。クラスのやんちゃなやつの鼻をいつか明かしてやりたいと思いながらも、そうでないところでいろんな関係を作りながら小学校時代を生き抜く方法を、卑怯で弱腰と言えるだろうか。乱暴者に対して泣いて本気でかかっていく子を、クラスのみんなはむしろどん引いた目で見ていなかったか。乱暴者に対する定石は、みんなと仲良くなって「みんなあんたのそういうとこ嫌だって言ってるよ!」ってクラス委員長に言わせることじゃなかったか。先生も子どもにチクられると対処に苦労するけど、こうやって団結するのを見てると、あとで「先生助けてくれなかったじゃん」って責められるのも嫌だから、おいしいところで仲介に入ってくれるから。 そういうネタだから。 finalventさんを読みくだくために

マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』

マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(→ amazon )読了。ゴールはやや理想主義的ではあるけれども、夫婦間で論争になったことや、会議でもめたことや、つい自説の正義を語ったときに後で「でも相手の言うことも分からなくはないよね…」と思ってしまったことがあるなら、そうした経験に前向きな意味での方位磁針を与えると思う。断定しきったあとの一抹の不安は、どれだけ合理的な話をしていても、僕らは価値の問題から完全に自由になることがないことを意味している。コミュニタリアニズムの理想をゴールとして、社会と価値、価値と正義を平易に解説するのが本書の肝。哲学の先生なので理屈で固められてはいるが、少し暖かい気持ちになれる本とでも言おうか。 話の骨子は単純だ。サンデルは正義についての三つの立場を紹介し、様々な角度から検証する。乱暴にまとめると、大きく分けて次のようになる。 みんなの最大公約数的な幸せこそが正義説 選択の自由を尊重することが正義説 リバタリアニズム的な自由市場至上主義;機会の自由によって利益が得られたのは俺の実力説 リベラルな平等主義;利益が得られたのは生まれや育ちなどの環境のおかげでお前の実力じゃない説 対話でみんなが気持ちいいと思えることが決められたらそれが正義説 「みんなの最大公約数的な幸せこそが正義説」はベンサムが主張するもの。できるだけ多くの人の最大の幸せこそが社会の正義となりうる、と。でもこれだと人間の幸せはひとそれぞれ違うという側面が無視されるので公平さに欠ける。「リバタリアニズム的な自由市場至上主義」はたぶん自己決定論につながるんだろうけど、自分で決めたと思い込んでいるものでも他者との関係性や環境の中で決定されることのほうが現実に即しているので、傲慢じゃろう。自由市場至上主義も「リベラル平等主義」も、選択の自由を保証することが幸せにつながる、つまり価値判断をせず中立の立場を守れ、とすることが共通だけど、じゃあ何を選んでもいいかというとそうでもなくて、何となく制約はある。同意があれば相手を殺してもいいかというと、倫理的にOKな状況を特別に仮定しなければ、いいとは言えないのが人間の感覚。人間は社会(=共同体,コミュニティ)的な存在としての自分から逃げられない。だからどれだけ耳あたりのいい中立(というかパターナルな立場から

署名という方法

「完全分離」通行で賛否両論 山形・中心部の社会実験|山形新聞 とか、 日本ホメオパシー医学協会 とか見ていると、署名という方法は難しいよなあとつくづく思う。署名を集めようとしている主体だけに有利にならないように、母集団の質に配慮がどれだけできているかということもあるし、署名そのものが全住民のどれくらいの割合を占めるかという視点も必要だろう。署名のメリットは民主主義的な見せ方ができるという点にあるのに、民主主義的な手続きがきちんと押さえられなければただの小学生の裁判みたいになるよ。ただ署名をすればいいってもんじゃない。 もっとも署名は科学的・合理的な根拠に基づく立証ではなくて、「権力の暴力」に「数の暴力」で立ち向かう(ようにみせている)政治的パフォーマンスである、という本質はあるけれども。署名を1万人集めたところで、結局は1人の根拠ある意見で決着がつくこともあるでしょう。パフォーマンスで決着しそうなことが、一人の鋭い声でひっくり返されるなんてことは、身近な会議でも何度か見た。そもそもがそういう性質のもの。署名をたくさん集めれば「民意が届いて」ものごとが決着すると単純に考えるのは、短絡だよ。衆愚といってもいいかもしれない。

山形でリセットする

夏の研究ラッシュが終わって、職場のちと面倒くさい案件もソフトランディングしたところで、ああもう忘れてた、な原稿も午前中で書き終えて(大幅な字数オーバー)、今週からいよいよ通常授業が始まる。一度リセットしなければたぶんまずい、とカラータイマーが点滅する前に陽の光を浴びておこう大作戦in蔵王温泉。思い立って観光センターに電話して、紹介してもらった空きのある宿に決める。40分ほどの距離に温泉街があるなら、それを利用してみようホトトギスなのであった。思えば、近所のちょっと遊びに行く日帰りスポットとしての利用はあっても、温泉宿泊客というのは一度もなかった。 ロープウェーに乗ってみたり、 買い食いしてみたり、ジャズライブ見てみたり、どうということはない温泉客をやって就寝。朝は子供と一緒にプリキュアとかドラゴンボール見たりとか、ダラダラ過ごす。雨の蔵王はやることなし。チェックアウトして、下山して街中へ。 山形で遊べるなら何があるかなあ、など考えながら運転する。 山形まなび館・MONO SCHOOL って、あったなあということを思い出す。その昔、なおうに荒井良二の絵本『おばけのブルブル』(→ amazon )をもらって、偶然にも出身地の山形に赴任することになった。で、イベント 荒井良二の山形じゃあにぃ2010 は芸工大のチームによる企画。小学校跡地を非常にうまく使っている。子供大喜び。大人向けの物作りに裏打ちされた、子供の世界のあざとさもまたうまい。 荒井良二とは別に常設展もあって、そちらでは明治以降の小学校教科書や、学校日誌など生々しい資料を見ることができる。平安以降の出土品展示コーナーもあったが、ちょっと節操がない感じか。嶋地区から出土の呪符木簡拝見。東北にいた文字が書ける知識層なのか、中央からの持ち込み品なのか、どちらなんだろと思う。 お昼は、家族には初めての一寸亭肉そば。いったん帰宅して、友達の子供と西蔵王公園でアスレチック。ガンガン遊びます。最後は FROM*YAMAGATA さんがツイートしてた、西蔵王の隠れ温泉。この露天から見えた雲がちの夕陽はもう最高でした。フツーにたくさん遊んだぞ!

刻刻3巻

堀尾省太『刻刻(3)』(→ amazon )を読んだというだけの話。実家近くの狭山ケ丘とか小手指とか出てきてビビッと反応した。看板に地名が思い切り書いてあったけど。『アンダーカレント』(→ amazon )とかに分かる人にだけ分かる形で下井草と、下井草駅近くのカフェモンクが出ていたのは、当時は妙にうれしかったな。『リン』(→ amazon )には善福寺公園近辺と思しき場所も。ローカルな有名じゃない場所をマンガに織り込んで「俺だけは分かってるこの場所を」と優越感を味わわせる技術。 このところ、2歩進んで一歩下がる、都合一歩進みました、みたいな仕事。大変苦しいがまずまずやれてるかもしれん。

TeXの\section変更

自分用のTeXメモ。\sectionのフォントサイズがデフォルトだとでかいので、どこからか持ってきたプリアンブルに書く用のソースを使っていた。これだとフォントサイズはうまい具合に変更されるのだけど、本文の段落頭が1字分下がってくれない。 \makeatletter \def\section{\@startsection {section}{1}{\z@} {2.5ex plus -1ex minus-.2ex}%上スペース。 {0ex plus 1.2ex}%下スペース {\normalsize\bf}%体裁} 自分で見ても分かんないので、いろいろ調べてメモったのがコメントアウトしてあるところ。1字下げなくてもいいや、欧文とかも下げないみたいだし、という荒業(開き直りともいう)で数年すっ飛ばしていたところ、いい加減この書式考えたほうがいい、と編集側からツッコミが入った。「これ意図してるんですか?」「いいえしてません不可抗力です」「直してください」みたいな。ホントごめんなさい。甘えてました。で、行きあたったのが Tex tips 。ここによれば 第1引数:カウンタ名(sectionやsubsectionなど) 第2引数:レベル(深さ)。 section は1、subsection は2。 第3引数:見出し前に付加するインデント量。 \z@ は 0pt の省略形でインデント無しを指定する。 第4引数:絶対値が見出し前に付けられる空白量。負の場合見出しに続くテキストのインデントを抑制する。 ←ここか! 第5引数:見出し後に付けられる垂直方向の空白量(負値の場合、見出し後に改行されず絶対値分だけ水平方向の空白がつくられる) 第6引数:見出しのスタイル というわけで、さっきの \def\section{\@startsection {section}{1}{\z@} {2.5ex plus -1ex minus-.2ex}%上スペース。← この行のマイナスを取った。 {0ex plus 1.2ex}%下スペース {\normalsize\bf}%体裁} これであっさり段落頭の1字下げが実現した。基本が分かっていないTeXユーザでもこうやって生きていけるという例です。

ジャンクフジヤマ「A Color」

ジャンクフジヤマのアルバム、A Color(→ amazon )を購入。まあともかくジャケット見てください。これいつの時代でしょうか。70年代後半から80年代中盤くらいに発売されていてもおかしくない。 ジャケットから伺われるサウンドに嘘偽りなしです。これなら確かに噂通りの達郎フォロワーだと思ってしまう。洗練されたシティポップに間違いなし。先日紹介したライブ盤Junktimeとは全然印象が違うので驚きます。ヴォーカルも軽めに歌い上げているので、一瞬同じ人かと疑ってしまうくらいです。Junktimeの本格っぽい重厚でパワフルなヴォーカルと両方聞いてみると、その振れ幅も楽しめる。

蝿に愛好される

夏のお勤めとして、論文一本と研究発表一つ。いつもは一つのテーマを二つに分割して論文と研究発表としていたのだけど、今年は完全に別々のテーマでやってみたので、もうフルスロットルだった。学校業務は最低限のレベルでこなすことにして、健康も二の次にして、久しぶりに大学院生だった時のように根を詰めた。そしたらどうなったか。蝿が寄ってくるのね。モスとかマックでも、図書館でも、寝ていても蝿が寄ってきて僕に止まる(念のため書いておくが妄想としての蝿じゃなくてリアル蝿)。フツーに風呂に入っていたので、これは汚れじゃなくてもっと何か生物としての活動が危うい時に体の奥底から沸き上がってくるプレ死臭みたいなものだったのではないか。サマオクに「俺って臭い?」と聞いてみても、「そうでもない」とのこと。あれは蝿にしか分からないヤバい臭いだったのだと思う。僕はそんなにいい匂いだったかい? で、ひと通り終わって反省会と称した飲み会の途中、某所からたまには飲もうぜ銀座で待ってるからすぐおいでとの声。会を途中で失礼して銀座に行くと、失われつつある文化を君に体験させておきたいから付いてきなさい、と連れていかれたところが銀座のキャバレー。人生初。もう銀座にはここ一軒しかないんだ、と。キャバレーはキャバクラと違ってダンスと生バンドがあるんだ、と教わりつつ女性が左右に映帯す(蘭亭序か、っつー)。もちろん苦手は苦手なんだが、連れてきてもらった手前というのもあるし、楽しまなきゃ損だろうと思ってフルーツ盛りを注文させてもらいました。その上でショーステージに上げられて記念撮影。お客さん100人以上いたと思う。この思い出を抱えて死んでゆきたいと思います(涙)。その後上野のお店をはしごして、嫁さんの実家に泊まらせてもらう。こういう遊びをしてるからお金が貯まらないんですよお義父さん!しょっちゅう来てるわけじゃないんだ、というエクスキューズは余計怪しくなっちゃうじゃないですか。二人で深夜に帰宅して、お義母さんの前で「女の子」にもらった名刺を破り捨てるお義父さんの姿に何かを学ばせてもらいました。 まあでもこういう昭和の香りが濃厚なキャバレーは本当に数が少ないんだろうなあと思わせられる。「明朗会計」を謳ったお店ではありながらも若い客は殆どいないので、昭和趣味は時代には相容れないのかも知れない。上品な感じではあったが。昔はこの手のお店

音楽も豊作なの(実っていたのはずっと前)?

ジャンクフジヤマが久しぶりのハードローテーションになっている。本当にいい声してるなあ。倍音たっぷり。ソウルもとろける感じだけど、ポップスのメロディもホントアラフォー直撃(笑)。ヤマタツのエピゴーネンという括りでは本質を見誤るかも知れない。twitterで本人フォローしたら逆フォローされたつながりでか、音楽関係の人のフォローが入り乱れて、音楽情報がここまで届くようになった。これはうれしいな。 さっそく新妻由佳子というひと。あら、今時珍しい発声法のひと。かわいらしいですっ! これはライブで聞きたいなあ。

ジャンクフジヤマ

山下達郎フォロワーだという記事を読んで、物は試しと買ってみたらすごくよかったジャンクフジヤマ(→ JUNK FUJIYAMA OFFICIAL SITE = ジャンク・フジヤマ = )のJUNKTIME(→ amazon )。ベタベタのソウルでとにかく染みるわー。学生時代を思い出すね(いま記憶を捏造しました。僕は学生時代は目も当てられないくらいのメタルでした)。で、1曲目の秘密を何度も聞いている。 最初の方、ドラムを叩いている村上ポンタ(三池監督ではありません)が長いので、それを超えるとライブが始まる。達郎に似ていると聞けば似ている、、か?もうちょっと荒削りでパワフル押しな感じのボーカルではある。誰だろう、もっとこの人だっていう似ている人がいるのだけれど思い出せない。このyoutubeのはCDに収められているライブ映像だと思うので、これで行けるなら買いでしょうな。