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6月, 2011の投稿を表示しています

雅から性欲へ、じゃなくておいしくて良かった話

UCCから出たジャパンプレミアムシリーズの新作「雅」がおいしい(→ 美(おい)しい香 雅| レギュラーコーヒー UCC JAPAN PREMIUM(ジャパンプレミアム)凛・艶・雅 )。キャッチの「香り立ち良く、コクのある味わい。メープルのようにやさしく、ほのかな甘み。」は、ほんとにほんのり甘みがある。スーパーで買う豆でおいしいお得感とあいまってなんか良かったので、HPをキャプチャ。 よく行くコーヒー豆屋さん(→ スイカフェ Sui-cafe + beans store 山形県山形市 焙煎工房 スペシャルティコーヒー専門店 )も、もちろん豆もおいしいのだけどキャッチの書き方がいつも上手だなあと思っていて、つい買ってしまう。香りや味を別の食べ物になぞらえて表現するというのは、僕はこの店で初めて体験した。ナッツ系の香り、フルーツ系の香り、チョコの香りなど、ちょっと新鮮。と思っていたら、コーヒーテイスティングの世界では、ある種の専門用語としてこうした言葉のラインナップが存在するのだね(→ コーヒーテイスティング用語|上海珈琲実験室・自家焙煎珈琲屋アルトコーヒー )。 肯定的な評価に用いられている言葉、ああ見たことあるある。独創性ということではなかったみたい。それでもやっぱり目を引くのはあるね。なかでも、口に含んだ質感で「きつく目の詰まったニットのような」ってどんなだろう。こうやってコーヒーを表現する語彙が豊かであるのは、気安く「文化的な香り」がするなどとは言いたくないけれど、実際楽しい。 * * * * * 臼井隆一郎『コーヒーが廻り世界史が廻る 近代市民社会の黒い血液』((→ amazon )によれば、ピューリタン革命後の17世紀イギリスでは、アルコール廃絶運動とともにコーヒー・ハウスが隆盛を極めたそうだが、ご婦人からはコーヒー飲むと夫がインポテンツになるからやめろ、などとコーヒー反対運動が起こったとの苦笑いしちゃう話がある。ほんで18世紀フランスではヴェルサイユの貴婦人方に大受けしつつも、やっぱり性欲減退させる説が妻帯に厳しいカトリック僧侶にも受けて、というこの本はなぜ近代市民社会を性欲で語ろうとするのでしょうか。近代市民社会を作ったカフェ文化の話は、イギリス、フランスどちらの章も性欲の話で終わっています。 コーヒーといえば、昔アラブの偉いお坊さんが西田佐知子に歌を教え

宋本広韻データ

宋本廣韻データ を使う。昔あった電子広韻とか電韻200とか呼ばれていたものからすれば、隔世の感がする。ユニコードではIPA拡張があるので、音声記号での表示もできるし、表示される漢字の種類もたくさん。かつては蟹攝咍韻を表示するのに「口台」などとするほかなく、いまも僕が使っている登録辞書には「かい」と入力すると候補に出てくる(消すのがめんどくて)。 しかしこの 漢字データベースプロジェクト ってほんとすごいです。 niji wo mita: 恐るべし漢字字書データベース で触れた時のデータがこのなかに移動したのだね。かつては声調と調値の関係が漢文のひとたちの解釈であって、言語学的な解釈とは異なるものが記載されていたけれど、あら金田一春彦や頼惟勤が参考文献となっていて(おいしんぼ栗田さん的な余情表現)。

コントローラブル・ドッグ

長年の犬苦手症候群が友人のところで犬と交流を続けているうちに、なんかこう勘所がわかったような気がしつつあるかもしれない可能性が見えてきた。元来犬と猫のどちらをかわいがるかといえば、昨今の「犬と猫は必ず択一」みたいな派閥構成方法に則るならばもちろん猫であるのだが、犬も両立しうるかもと思うわけです。 犬の何が苦手である(あった)かというと、ずばり距離が近い!ってことなんですね。いや、ちょっと違うな、どちらかというと僕は距離が近い付き合いも生物全般(人間含む)において好きなのですが、相手から詰められると弱いのですよ。猫ならばこちらが近づいていって、なでなでしたり猫の気分が乗っているならだっこしたりできる。猫が寄ってくることは空腹時以外は滅多にない。しかるに犬は違う。オールウェイズ密着距離の強要であります。 相手がどんな美人(美しい人間という程度の意味です)であれ愛らしい犬であれ、その距離を詰めるのは主体的な私であって二人称であってはならないのです。俺こそがその距離を決める。なぜならばどうもコントロールできないものが怖い、という感じが僕の奥底でかなり強い電波を発しているからなのです。思えば小学生の頃、ニケツでチャリの後ろを担当した時もすごい怖かった。けど自分が運転しているときは大丈夫。天敵の飛行機も自分が操縦していると思えば、まだしも恐怖が薄れるのです。 しかしあのアンコントローラブルなお犬様!わたくしの顔を超ベロベロする「ゼロ距離」と、わたくしが腕を伸ばしてよしよしする「腕距離」についてはコントロールすることができるようになりました。その距離は俺が決める。この距離は完全に俺のコントロール下にある。すなわちコントローラブル・ドッグなわけです。至近距離であってもそこに程度の違いを見出してコントロールしたことにする、これは犬のコントロールに見せかけた自己コントロール術にほかなりません。やったぜ、自分。犬克服の瞬間であります。

OpenOffice3.2はCJK統合漢字拡張には対応せず?

やっぱり、OpenOffice3.2(on ubuntu10.04)では、ユニコードの拡張Bに属する文字は表示できないようだ。 [openoffice:6501] UnicodeのSurrogate Pair(Ext-B)対応の件 によれば、OpenOfficeがサロゲートペアに対応していないかららしい。 OpenOffice.orgは内部的にUnicodeで処理しているようですし、データ保存時にも Unicodeで記録していますが、現状ではSurrogate Pairに対応していません。 そのため、Ext-Bの漢字などを入力しても、正しく表示されません。WordやExcel でExt-Bの漢字入りのドキュメントを作成して、これを読み込んだ時も表示だけは されますが、Surrogate Pairを正しく処理していないため、通常に編集することが できません。 もちろん、現状においては、Surrogate Pairへの対応は緊要ではありませんが、  ・今後、日本国内での標準的文字コードとしてJIS X 0213の定着が見込まれている ・Windows環境などでJIS X 0213に完全対応するためにはアプリケーション側での  Surrogate Pair対応が必須  ・既にMac OS XはJIS X 0213完全対応を謳っており、Windowsも次期バージョンでの   対応が公表されている(Longhorn)  ・既にWindows XPやMS-IME2003やOffice2003はSurrogate Pairに対応しており、   JIS X 0213対応フォントさえあれば、Ext-B漢字を含めてすべてのJIS X 0213文字   を扱える  ・ATOK17/2005や次期一太郎(2005)もSurrogate Pair対応。来年2月の一太郎2005発   売時にはJIS X 0213対応フォントの無償公開が予定されている といった動きがありますので、おそらく2005年~2007年頃にかけてSurrogate Pair 対応が必要となってくるのでは?と思っています。 上記記述は2004年のものだが、2011年をもってしてもいまだ対応していない。このへんの技術的な理由はよく分からない。OpenOfficeの度重なる買収が関係しているかどうか。 Extens

木簡学会編『木簡から古代がみえる(岩波新書)』

木簡学会編『木簡から古代がみえる(岩波新書)』(→ amazon )。木簡と古代史にまつわる話題を分かりやすくまとめたもの。16人の著者が短いトピックスを連ねている。歴史書から見える古代と、木簡から見える古代が違うというあたりが木簡の面白さなのだろう。日本語学にとっては、おなじみの歌木簡(なには津、あさか山の歌)などの話しあり。木簡によれば万葉仮名の完成が従来の説より古い、7世紀中葉とある。犬飼氏が書くトピックかと思ったらそうではなかった。さらっと読めちゃう古代史の本、ということもできるか。

久繁哲之介『地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか?』

久繁哲之介『地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか? (ちくま新書)』(→ amazon )。タイトル強烈(笑)!ケーススタディ的な失敗体験談+ノウハウ集。話の構図は「ハコモノ行政で儲かるのは行政と土建屋、あと地域再生関係者は都市部の僅かな成功例を地方社会に導入して大失敗、だからコミュニティ志向のカフェとかスローフードとかやるといいよ」的なもの。で、その筋はあるある話だし、間違っていないので、読み潰せる話。 気になっていたのは極東ブログの書評(→ [書評]地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか?(久繁哲之介): 極東ブログ )の以下を読んだから。 これで地域再生は可能になるだろうか。読後、私が思ったのは、この「使える」提言を「使う」ためには、地域コミュニティーが生き返ることが前提になるだろうということだ。それは鶏と卵のような循環になっている。提言が目指すものこそ、地域コミュニティーの再生だからだ。もう一点思ったのは、本書が言及していないわけではないのだが、この難問には地域における若者と高齢者の再結合が問われていることだ。地域の若者の現実的なニーズと高齢者のニーズをどう調和させるか。そしてその二者の背景にある巨大な失業の構造はどうするのか。問題の根は深い。 やー、読んでみてそういう理想郷的なコミュニティーって成立するかな、と思うよ。もちろんfinalventさんが言う生き返りの大切さも、宮台的な社会的コストの重要性という意味において分かる。でも、山形に住んでみて、僕がよそ者だということの要因もでかいと思うけれど、地域コミュニティーのある種の閉塞感てすごい感じる。排他的な意味、ではなくてね。山形にもたくさんの地域コミュニティーがあるよ。でも著者が書いているような、カフェやスローフードにつながりうるような文化的背景や厚みをもったコミュニティーというと、たとえば子どもでつながる地続きのコミュニティーとは別物なのですよ。子連れファミリーが作り出すコミュニティーはあるけれど、著者が言う地域再生ってそこがゴールじゃない。極東ブログは「鶏と卵」というけれど、そして「生き返る」という表現を使うけれど、その循環の輪が成立するのか疑わしいこともあるわけで。これはもう歴史的な蓄積の有無が決定しているようにさえ思えてしまうこともある。 で、それは打破できないのかというとで

主に泣いてます(4)・Fantasium(7)

東村アキコ『主に泣いてます(4)』(→ amazon )がものすごいスピード感。トキばあとこももの(時にトキばあ単独の)コントが間(ま)という間を埋め尽くしていて、息を付く暇がない。よくもまあこれだけアラフォー狙いのコネタとキャラで埋め尽くせるものだと思う。『ひまわりっ』の終わりあたりの速度がここへきて加速している。そして全編ただよう水木しげる感は、天狗面の登場をもってつげ義春感にあらためて確定させていただきたいと思います。 杉本亜未『Fantasium(7)』(→ amazon )は、これっていい意味で分かりにくいだろうな、と他人事のように思った。で、ディスレレクシアの主人公が電子辞書を片手に文字を紙に書いていくシーンが、何かとても良かったよ。フレイレ系の研究者が、南米での事例報告をどこかでしてたのを思い出す。書き文字に基づく識字教育が持つ権威性と、ハードルの高さが、パソコンによって割合容易に越えられるという話だったと思う。現代社会にとっての読み書きとは何か、と。全能感にあふれた変な先生の登場とのすれ違いまくりな交流も、最初はどうだかなと思ったけど、今後が楽しみ。

長谷川英祐『働かないアリに意義がある』

長谷川英祐『働かないアリに意義がある』(→ amazon )を読んだ。新書なのでさらっと読めたが、ビジネス書が並ぶ末尾の既刊書タイトルから推測するに、シリーズに反してハイブローな本だと思う。 内容は、真社会性生物であるがどのように社会性=群体性を遺伝的に保っているか、新しい研究結果を交えて一般向けに報告したもの。ビジネス書を選好するオッサン向けに柔らかく(そして時にエヴァを交えながら)書かれてはいるものの、きちんと研究に裏打ちされていて読み応えがあった。ムシが社会性を持ち利他的なふるまいをみせることについて、いまだ定説を見ないらしい「血縁説(血が濃い者を助けたほうが遺伝子を残す可能性が高まる)」と「群選択説(2個体でやった仕事は3以上の効果を発揮する)」との比較を通じて、生物の多様性を論じている。進化生物学のハミルトン則、倍数倍数性生物(人間みたく遺伝子2n同士が次世代を作る)、単数倍数性生物(遺伝子nと2nが次世代作る)など生物学に暗い人間にもテクニカルなことが分かりやすく書かれていて、うまいなあと思った。10年くらい前に流行った、働いているのは集団の2割だけという話も出てくる。 生物学の研究手法を人文学にも適用することは、僕の友人でもやっている人はいるし、また言語学でも古くは系統樹説があったし、今でも英語学の人の語彙拡散の説明に利用されることはある( KAKEN - 語彙拡散理論と生物変化理論-英語の史的発達に基づいて(11610512) など)。 また、個体は自分が見つけられる範囲にいる個体としか交配できません。このような変動要因まで考慮したときにどのような進化が起こるのかは、実はまだほとんど研究も理解されていないのです。(本書p.178) 音韻変化は一斉に生ずるという青年文法学派のお題目に従わない語群が生ずるのは何故か、といった問題を考える上で、語彙拡散(lexical diffusion)についてこれと相似形の説明を行うのを読んだことがある。つまり自分が出会える範囲の語群、という文脈だったように思う(記憶が曖昧)。つまり一般的な構造言語学で説明するような、均整のとれた共時的体系と共時的体系を並べて、その変化を論ずるような理路では捉え切れないものに光を当てる考え方ということになるか。というあたりになると、本書とはもう別の話題になってしまうが。

タモリと山下洋輔の出会い

あー。授業の教材をyoutubeで探していたらこういうのにぶつかっちゃうんだ。xVideoServiceThief( xVideoServiceThief Official Web site )でガンガンビデオをDLしておこうと思った矢先に一発目がこれですよ。タモさんの多言語ネタが欲しかったのですよ、本当は(見つけたけどね、やまほど)。 今でいう江頭だなんて。九州ネタということでしょうか。

dvipdfmx on ubuntu10.04

Ubuntu10.04でdvipdfmxが使えなかったので、以下を参照した。 Ubuntu10.04 dvipdfmx のエラー ** ERROR ** Could not find encoding file “H” | NAO No. 4 アモール・ファティ: 日本語を含むDVIファイルをPDFファイルに変換できるように日本語フォントを追加 論文のTeXファイルをコンパイルするのにはいつもWindows環境でやっている。理由は3つあったが、(1)がクリアされたので残り2つ。 (1) dvipdfmxの使い方が分からない (2) 文字コードの設定の仕方が分からない (3) 文字鏡フォントの設定の仕方が分からない それにしてもある時にトライして全然ダメだったとしても、後にやってみるとクリアされることがあるのは不思議。知らないうちに経験値がたまってきているのか、あるいはWEB上にトラブルシューティングの記述が増えてきたからなのか、少しずつクリアできることが増えてきている。emacsも使うし、参考書片手にviを使うこともある(つかsudo viで苦しまなくてもsudo emacsを使えばいいのも最近知った)。トライ&エラーを繰り返して、ある時突然できるようになる。何か、閾値があるのだろう。 残る問題のうち(2)は簡単に解決できるのだろうということは、 Emacsの文字コード指定 などから分かっている。あとはそれを支える他の知識が育ってきた時、バシッと使えるようになるはず(楽観的!)。それと、文字鏡フォントは曲者なのだが、たぶんWindowsとインストール方法は同じで、設定ファイルとパスの通し方とかで苦労するのだろうと思って後回しにしている。 ずっとubuntuをいじったりしているのに全然上達しないのは、集中して本気で学んでいないからなのだろう。unixの基本的なところからやれば氷解するだろうに、商用OSがいやだから、という根本が不純な動機であるがためになかなか進まない。生活や仕事に必要な大抵のことはもうubuntuでできるし、どうしてもwinが必要なときは職場のパソコンを使う。研究の下準備もubuntuだが、論文のコンパイルだけがたったひとつ抜けない大きなトゲのよう。 今日は家族と外出もしたけれど、昼寝もしたりして休憩がてらパソコンをいじっていたら、ひとつクリアできた。

言葉の権力性脱構築、両面からのアプローチ

元同僚の職場で催された、方言の権力性や、背後に潜む本質主義を撃つ、みたいな内容が大変面白かった件。 もちろん、面白かったというのはギリギリのネタをやってくださったからである。地域の人達を招いた一般公開講座で、方言の権力性や本質主義を撃つことの高いリスクとうらはら。ええっ、って感じかも知れないが、東北方言についてはスティグマの問題もあるけれど、地方分権の背後にある郷土愛的な土俗ナショナリズムがコミュニティ強化の名のもとに、方言の力を借りて本質主義化していくことはよくある。地方:中央の構図、スティグマ克服もあって、なんというかある種の被害者ポジションをとりながらこの話は展開する、ぶっちゃけこの議論ってとりわけよそ者に取ってはタブーなのですよ。方言称揚は「失われたコアの回復」という機能、物語という筋も確かにあるだろうから(近代の幻想だとしてもだよ)、方言が権威化されているかもしれない、などということは普通ネイティブには感知されないものだと思う。そこへよそものが方言は権威的と言おうものなら、という感じ。 というか、言葉には「群れ機能」(人々をくっつけようとする機能)と「分断機能」(人々を互いに分かつ機能)があるから、特権的な人たちを作るのに一役買うことは、歴史の上でいくらでもあった。だから方言に限らず、言葉にはそのような機能がはじめから内蔵されていると考えることもできる。 問題は権威同士がガチで殴り合った時。会場からの質問で、方言的な発音と標準語的な発音がぶつかったときどうする?(超訳)との質問が出た。これは山形では非日本語母語話者の日本語学習過程によく見られることで、たとえば「仕事」の読みを書かせる問題で、日常生活において耳にするのは「すごと」であるからそのようにテストで書いて☓を喰らう、みたいな話。なんで☓なんですか?と問われると、実は脳天気に「方言コンプレックスは良くない、あなた自身の本当の言葉だからもっと自信をもって話すべき」とか言っていたのが簡単に蹴散らされる。僕らは学校の暴力で「しごと」が正しいと言うさ。でも学校の暴力が何に乗っかっているかというと、標準語が上位変種(公的場面で使える)、方言は下位変種(私的領域でのみ使える)というダイグロシア的構図であって、それの良し悪しはともかくとしてたしかにそれは観察可能な現象である(それが現実とかは言わない)。 方言に権力

easytether on Ubuntu10.04

もうありがたいやらうれしいやら。朝からubuntu上でeasytetherをどうやって動かすか、色々試したのだけれども。本格的にやろうものなら、 Linux + GNU = Humans Enabled: How to Tether your Android to Ubuntu(or Fedora) GNU+Linux for Internet Connectivity を参考にして15ステップくらい踏めばできるみたいだけど環境が違うから無理くさい。 それで、ここ(→ EasyTether | studio PRIME Weblog )に書いてあるとおりにしたら一発でつながった。ターミナルを2つ起動とのこと。呪文のようにメモしておこう、ターミナルから"easytether connect", "easytether0"。 参考: niji wo mita: IS05によるtethering

ルール変更をしたふりをする

一昨日、娘がお定まりの「幼稚園行きたくなあいー」でぐずった。我々夫婦も最近は心得てきて、「そっか、行きたくないよね、行きたくないもんね」と肯定しまくり、気持ちを落ち着かせて幼稚園バスに突っ込む荒業を繰り返していた。が、乗車時まで気持ちが落ち着かない先日、幼稚園先生の必殺技が繰り出された、と妻から聞いた。 「そっか、じゃあこれから幼稚園に行って、◯◯先生(担任)に幼稚園行きたくない、って言いに行こう」 娘は「?!」とした顔をしたのだろうと思う。腑に落ちない感じで、でも分かった!とバスに乗り込んだらしい。傑作である、と僕は思った。「ルール変更したことにしているが、実はルール変更していない」だましのトリックは小さい頃から好きだったなあと思い出すに、ほら例えばという感じ。なので思い出し2つメモしておく。 〈ココアといったらコーヒー〉 「ココアと言ったらコーヒーって言ってね」 「ココア」 「コーヒー」 「コーヒー」 「無言」 (ココアで反応、コーヒーで無反応というルールを悟らせたあとで) 「じゃあピザって10回言って」 「ピザピザピザ…」 「(ひじを指さして)じゃあここは?」 「ひじ」(ピザとヒザを混同させるルールだと思わせて) 「ブブー。コーヒーでしょ」 〈中東のとんちばなし〉 あるところに頓智で有名な男がいた。男が隣町を歩いていると、建物の2階の窓から呼ぶ声がする。お前の評判を聞いているぞ、頭がいいらしいな、そんなに頭がいいのなら、お前のとんちで俺を1階まで下ろしてみろ、と。とんち男が答えて曰く、確かに俺は頭がいい。でもそんな俺でも2階にいるやつを1階に下ろすのは無理だ。ただ1階にいるやつを2階にあげることならできる。やってみるか?おーし、というので2階の男は1階に降りてきてしまう。 * * * * * と、ここまで書いてみて、日常的な交渉事って少なからずこのロジックを使うことはあるかも、という気もしてきてきた。子ども相手でも、職場でも。交渉の基本なのかもしれん。この手の話をご存じの方、募集中です。

文字コード、異体字、データベース利用者

日本語学会シンポジウムのメモ。おなじみ HNG や、透明テキスト付き画像が簡単に作れるツールを知ったという点で大変興奮した 拓本文字データベース に関わるご発表など、面白かった一方で課題も浮き彫りだったなあと感じた。 漢字データベースの構築は、文字コード内の異体字の取り扱いが壁となって、利用者にとっては必ずしも使いやすいものになるとは限らない、という話。というかそこまで具体的に言及されることはなかったのだけど、僕も漢字に関わるデータベースを作ってきたので、こと共同作業になるとこの難しさが大きい問題となることがよくわかる(個人作業でも揺れを防ぐのは一苦労)。異体字がどう位置づけされることとは別に、作業上の方針としてこの異体字はこの字とおんなじ、みたいな包摂基準を作ることはあっても、包摂基準を設定するだけで多分一つのテーマになっちゃうくらいだろうから、そこのところは薄目をあけるくらいに目をつぶって作業を進めるのがよくある話なのだと思う。 何が問題かというと、データベースを利用する側はいったいどの文字で検索すればいいのか、ということ。包摂基準がきちんとしていないと、利用者はヒットしそうな文字をかたっぱしからトライしてみなきゃいけないし、そもそも包摂基準を推測するだけの文字知識を備えていなければならない。それが分かっていたって、データセットの全貌が見えていないと「トライ漏れ」が出てくるわけで、やっぱり大変。 コンピュータでjis漢字(第何水準かはさておくとしても)しか表示されない時代は、まだ問題は牧歌的だったろうと思う。いまやユニコードで表示される文字数が増えてしまったから、コード内に異体字と正体字の関係、異体字同士の関係に迷うものも増えてしまった。 話は変わるけれど、今昔文字鏡が現れたとき、これでどの字を代表形とするか迷わずに済む、とおっしゃった先輩のことを思い出す。古い文献を見ていると、どの字で入力して良いか悩むことが多い。漢和辞典首っ引きになって、どの字はどれのこと、とか解釈して行かなければならなかったのを、今昔文字鏡が持っている字数が16万字という触れ込みなものだから、古い文献に出てくるような「変な」字であっても表示されてしまったりする。我々は規範的な字はこれだ、などということをイチイチ考えずに見た目まんまの字を入力すれば良い時代になった、と。それがたとえば和語の表