スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

8月, 2012の投稿を表示しています

川上郁雄『私も「移動する子ども」だった』

川上郁雄『異なる言語の間で育った子どもたちのライフストーリー 私も「移動する子ども」だった』(→ amazon )読了。「移動する子ども」というのは、両親あるいはどちらかを非日本語圏に持つ、あるいは非日本語圏と日本語圏を自ら移動した経験のある子どもをさしている。「ハーフ(ダブル)」など血統を惹起させることばを使わず、移動とそれに伴う多言語体験は社会構築的なものだ、ということを意味づけるうまいフレーズだと思う。 著者は日本語教育学の方。本書の内容は子どもが言語習得をしていく過程には、社会的文脈に沿った言葉への価値付けが大きく作用する、ということのケーススタディであるように読めた。そこがたぶん、日本に生きる「移動する子ども」たちへの救いのメッセージなのだろう。僕もこの手のことをよく考える時期にこの本に出会っていたら、これまでのブログエントリもまた違った感触になっていただろうなあと思う。 本書の構成は、第一部を「幼少の頃、日本国外で暮らし、日本に来た」ケース、第二部を「幼少の頃から日本で暮らし、複数の言語の中で成長した」ケースとする。第一部には、セインカミュ、一青妙、華恵、白倉キッサダー、響彬斗・一真、第二部にはコウケンテツ、フィフィ、長谷川アーリアジャスール、NAMの各氏。インタビューと川上氏による談話の意味付けが交互に続く構成。 ここで選ばれている人たちの特徴は何なのか、と読み終わって考えるに、全員が幼少の頃にバイリンガル教育に「失敗」していることにあると気づいた時、これだけのメンバーへのインタビューをお集めになったものだと著者に敬服した。本書は、それでも別に大丈夫だよ、と呼びかけている。みな親から日本語ではない言葉を学ぶよう誘導されるが、子どもはその言葉が社会的にどう価値付けされているかにとても敏感で、たとえば「◯◯語はかっこわるいから使いたくない」だとか「英語はなんか役に立ちそうだから」といって成長の度合いに応じて言葉を値踏みする。母語継承の取り組みが子どもにとっては「大きなお世話」になりがちで、でも言葉にはすでに社会的な「ランキング」が刻まれているからこそ、逆に言えば「大きなお世話」のような「不自然」なことをしなければ言葉は継承されないということでもある。しかし、本書でも、あるいは私が見聞きするケースでも、たいていはこうした取り組みは「失敗」に

夜中のアイスコーヒー

麦茶はちょっと。熱々のコーヒーもたまにはちょっと。夜遅いしビールは見送りたいし、ラムとかでカクテル作っちゃってもいいけどお酒は少し休みたい。という気持ちでネット見てたら、ここ(→ 誰でも簡単にできる本格アイスコーヒーの淹れ方 | roomie )に出会いました。あー、美味しそう、ということで。 ただ、うち(というか僕だけ)みたいにヘビーにコーヒーを飲む家だと、コーヒーメーカーで作っていることも多いと思う。なので、カップに氷をいっぱい詰め込んでおいて、淹れたて熱々のコーヒーを流しこむ。コーヒー豆はいつもの2倍くらいの濃さにしておいて、氷が一定程度溶けるのを待てばできあがり。 という感じで目分量でいい加減につくってみたけれど、美味しい。キュっと冷やすと香りが飛ばないみたい。あっ、背景のキッチンはスルーよろしく。

『階層化日本と教育危機』を読んでみよう、という表明

今朝は妙にびびっと来ました、このエントリ(→ 内田樹の研究室 )が。 とにかく、苅谷氏『階層化日本と教育危機』を読んでみようと思った。学ぶことの意欲が、社会構築的に説明のつく背景に影響を受けているのではないか、とは教育の現場に身を置くものなら誰もが体験的にうすうすと感づいていることなのではないかと思う。それは少なくとも日本社会においては、タブー視されている社会階層に関わることなので、表立った形で論じられることは少ない。そのあたりへの知的関心がひとつ。 もうひとつはここ。 「十分な学習資本を持たない若者が大量に社会に放り出される」とどうなるか。非正規化圧にさらされている若年労働者が「学校時代に身に付けるべきことを身に付けないまま、職業に就いてからも十分な職業訓練の機会を与えられない」(本書、24頁)ままであれば、いずれ彼らを支援するための社会的コストは破滅的な規模のものになるだろう。 日本社会の雇用形態が変化して、企業いまや即戦力ばかりを求めるとはよく聞く話。一方で大学は職業訓練施設ではないので、得体のしれない「キャリア教育」にその役目をすべて突っ込んで教育ポリシーとコンテンツの再編には関心を持ちにくい状況がある。まあ文科省の思惑に乗っかって軽挙妄動も慎むべきだが、でも馬鹿正直に考えれば大学は教育ポリシーとコンテンツで「即戦力を求める企業風土」にきちんと立ち向かうのが筋と思う。 ほんで所属の進路系の委員をやっていらっしゃる方から最近お聞きしたのが、トレーナビリティの育成という概念。翻訳すれば、自分を鍛錬する能力、ということだそうだ。どのような職業に就いてもその場にあった形で自己を鍛錬できる力、とは魔法の能力に思える。いま、うちの職場ではこれをカリキュラムの中で育成できないか、と検討しているわけだが、教える側の労力は相当に求められるだろう。内田氏の文脈に従えば、この力は「学習資本の階層差」によって配当される。大学内部だけで社会階層を超えた力を与えるには、どのようなしかけが必要だろうか、と少しめまいがする思いだ。 まとまりがないまま書いているが、実は内田氏の記述で一番タイムリーに響いたのはここ。 同学齢集団内部での相対的な優劣を競わせれば、子どもたちの集団全体としての学力は必ず下がる。 ですよねー。なんか身近に聞いたことがある気がする。学生同士