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11月, 2013の投稿を表示しています

ビー玉の語源

ビー玉の語源はビードロ(ガラス)の玉である旨を授業で紹介したら、学生のリアクションペーパーに異説が記されていた。曰く、A玉とB玉というのがあって、規格品外のB玉がラムネの瓶に入れられたことが語源であるという。 初めて聞いたわと思ってネットで見てみると、そういう説は確かにある。結論から言えば、典型的な民俗語源というやつで、言語学的な根拠はない。シアサッテの次を4の理解でゴアサッテと言うにひとしい現象だが、B玉というのもなかなか面白いケースだと思う。少し前にちょっとワル風のファッション・外見をした人のことを指してB系ということがあった。ほどなくしてオタク風のファッションをした人のことを、秋葉原のAを取ってA系ということもあった。範列のパターンで言葉が作られる例といえる。 ラムネ瓶の製造、ビー玉遊びの歴史などの経緯は、 ビー玉の語源を追い求めて - 最終防衛ライン2 に詳しい(文化史的に大変面白い記事でした)。なお、文献の初出例は日本国大辞典第2版によれば、夏目漱石『明暗』(1916)に見られるとのこと。

岩城けい『さようなら、オレンジ』

率直に言って、仕事をやりすぎて言葉がぼけた。もう数年そんな状態の気がする(年なのかも知れないが)。ブログを一生懸命書いていた頃は、もっと言葉をうまく探り当てて並べることができたんじゃないか。こういうふうにはなりたくない、という不可逆的な力をうすうすと感じながら、日々少しでも抗う気持ちでいます。 岩城けい『さようなら、オレンジ』を読んだ(→ amazon )。得体のしれない小説を読んだ。いや、物語の装置は僕には馴染みの深いものばかりで、これを書いた人は第2言語習得についての研究をどこかでかじったことがある人に違いない。あるいは識字の持つポジティブ/ネガティブな力について、一度ならず圧倒された人であると思う。サピアもウォーフも出てくる。言葉を習得するということはその暴力的な、どうしようもない力に蹂躙され、破壊され、そのあとで別の新しい自分に新生することだ。少なくとも言語学習の持つ見逃せない一側面として、そういうふうに人間を変えてしまう力がある。言葉が、異文化が「生産」するのは、そういうものだ。ごく簡単にいえば、この小説は言葉のそういう側面を題材にしている。 アフリカから難民としてオーストラリアにやってきた女性が重要な登場人物で、彼女の眼から語られるように物語は進行するが、小説的なトリックも仕掛けてあって、それも素晴らしい。ここで書かれていることはその題材を元にした、熱量の高い、得体のしれないことで、個人的な言い方をすれば、言葉の復調を促す感じがするのだけれど(もう一度読んでみないとそのあたりがうまくつかめない)。 読後、ちょっと頭がぼんやりするくらいインパクトを受けた小説だった。

陳腐な

セレンディピティといったら、さぞ陳腐に思われるだろう。人の苦しみや悲しみに触れることで、何かが回復されてしまうこと。全く残酷なこと!