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12月, 2013の投稿を表示しています

2013年のマンガと音楽を振り返って

マンガ編 今年読んだマンガで印象に残っているものはなんといってもあずまきよひこ『よつばと!』(→ amazon )です。今更です。あらいけいいち『日常』(→ amazon )の系統でしょ、と思っていたら全然違った。ほのぼの日常系の時間表現と子どものリアルな描写に引き込まれて、無時間的な喜びに身を浸しました。12巻のキャンプのくだりとか神と思う。過去3年くらいにさかのぼってのベストマンガかもしれない。生活変えようかと思ったもん(変えられなかったけど)。 朔ユキ蔵『お慕い申し上げます』(→ amazon )も良かった。もともと朔ユキ蔵は清濁併呑修行僧的な作風で、エロの陰にジョージ秋山『アシュラ』が隠れていた。そういう意味では仏教マンガを描くのは時間の問題だったと思う。4巻に及んでサブ主人公の内面が吐露され、これまで以上に目が離せない展開に。『黒髪のヘルガ』(→ amazon )以降、特に好きな作家です。 東村アキコ『かくかくしかじか』(→ amazon )は、東村の高校から大学時代を描こうとするもの。漫画家自伝ものを描くと東村でさえもマジメな語り口になるんですね。既発表作品を彩る過剰にドライブするギャグのなかにいつも対照的に描かれていたナイーブな主人公がどれも東村本人であったことが改めて分かります。だから気に入った。だからいい。(c)岸辺露伴 新井英樹『宮本から君へ』(→ amazon )は学生時代では絶対読めなかった。実際嫌いだったし。それだけ誰かにはっきりと嫌悪されるのは、それだけ表現したいことが伝わっていたからなんだと思う。ライバル会社との営業勝負を描いた前半部、レイプ事件犯タクマとの戦いを描いた後半部と両方読ませた。それにしても90年代にこの作品はないなと改めて思う(笑)。 『愛しのアイリーン』(→ amazon )は農村部の外国人配偶者をめぐるドタバタと、日本社会にやがて訪れることになった少子高齢化の問題を予見的に描いています。ラストの凄まじさは気軽に再読しようという気持ちを強烈に抑えこんでます。 森薫『乙嫁語り』(→ amazon )は描き込む凄さを実現した点でここに掲げます。中央アジアの民俗文様を刺繍に編みこむ話が超絶すごい。絵だけをずっと見ていたいと思うマンガってあまりない。あれを味わうためだけでも漫画読みには一読に値する

微積分のノートから

実家の大掃除によって、高校時代の微積分のノートが出土(平成2,1992)。「一般解と特殊解」「減衰曲線」というメモとともに長い数式が淡々と記されており、末尾に「QED」とかドヤ顔で書いてある。間違いなく自分の字ではあるものの、内容に全く覚えがない。丁寧な書きぶり、時折「分からない」「ここはあとまわし」などと書いてあるところを見ると、真剣に取り組んだようではある。なのに覚えてない。俺の高校数学の意味は何だったんだろうと思った。 しかし長い数式を見ながら思い出したこともある。数学の不思議なところはその原理原則を深く理解しなくても、正しい手続きに我慢強くついていけば、最後は万人が同じ答えに至るという確信だ。これ、歴史修正主義的に書いているのではない。長い数式を書いている時、いつも不安だったことを覚えている。答えを見て「良かった正しかった」と思う時、手続きは間違っていなかったと安堵する。だから数学が「やれている」と実感するのは、手続きが身体化され信頼した時だった。 振り返って自分が数学をやったことの意味を問うなら、手続きを固めれば解答を信じて良い時があるということだと思う。考えてみれば、今の自分の研究スタイルもそうだし、物の考え方もそうだ。推論のプロセスを重んじる時がある。設定した手続き、作業仮説に付いて行っているときは、今も不安だ。出た答えが直観的におかしい時などは特にそうだ。しかし一方でプロセスを固めたんだからそうなるしかないと信じた結果、そのほうがうまく処理できるということも多い。で、今でも感じるそうした不安は高校の時に感じていた不安と同じものだ。 学んだことのうち、可視化されているのは数式だった。数式はすっかり忘れてしまったが、だからといって学んだことの意味がなくなったわけではなかった。学校教育というのはそっちのほうが本当なのだろうと思う。

関東に向かう

空の高さは、戻るたび山形にないものだなあと思う。冬の日差しで世界のコントラストがはっきりと出る。それだけでテンション上がる、のは、敢えて言えばふるさと感?

あめつち・たゐに・いろは

日本語史のビッグイシューたる「ア行のエとヤ行のエが合流する」をめぐるお話、「あめつち」「たゐに」「いろは」を材料とする話をざっくりと押さえる。手に取りやすいところでは、築島裕1969『平安時代語新論』東京大学出版会、馬渕和夫1971『国語音韻論』笠間書院、小松英雄1979『いろはうた』中公新書(2009年復刊)、小倉肇2011『日本語音韻史論考』和泉書院あたりか。その他、書籍では入手しにくいものは上掲書に含まれる参考文献で。音韻史の話題を超えて、ミステリー仕立てのお話に突入しつつある側面もあるので、実証主義を旨とする領域では受け入れられにくい議論かもしれない。が、そういうことが理論的予測を招来し、あとからパズルのピースとなる物的証拠が追いかけてくることはいくらもあることだし、何より知的好奇心をくすぐられる。 2004年前後に小倉氏が再論してくださったので(そして近年書籍化されたので)、議論の概略マップが見渡せるようになった。音韻史の話題が表現の話題も巻き込みながら豊かな議論につながったのは、亀井&小松両氏が蒔いた種の成果であることは間違いないだろう。ここまでもうこの話題はほとんど小倉氏によって語り尽くされている感もなきにしもあらずだが。「あめつち」のアクセントと字音声調学習のところはまだちょっと議論の余地があるかもしれない。ちょっと深入りしてしまったが、授業ネタ。 幼学の会1997『口遊注解』勉誠出版も読んだ。百科事典的なものは語学的関心とは別に面白いものですね。

サンタトラッキング

April Foolばりに大人が本気出しています。科学技術の世界ではサンタまでもが双方向コミュニケーションの餌食なのですね。位置情報サービス、こえーなー。営業中のサンタがコンビニの駐車場で一服しようものなら世界中から批判を受けるわけです。サンタやばい。しかしほとんど光速で世界中を飛び回るサンタには地を揺るがすような賞賛の嵐!素晴らしいと思います。そういうの、最初は我らがGoogle先生だけかと思っていました。 Google サンタを追いかけよう 25日12:00現在、約57億個のプレゼントを配布し終え、いまだ世界を飛び回る様子が追跡できます。ここまでで23万キロの距離を消化しています。 しかし別に本格的なサイトがあったのですね。いつからやってんだか知らないけれど、北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)に国家予算が投入されています。アプリも出しているNORAD!今年はモバイルアプリが充実している模様。 Official NORAD Santa Tracker そしてNHKがそれを報道! 米軍など HPでサンタ追跡情報公開 NHKニュース スラドも! NORADのサンタ追跡オペレーションセンター NORADの裏側では大人が超絶頑張っているそうです。情報ソースがNAVERだなんて情弱とか言わないでいただきたい。 サンタもシステムチェックに協力!北米防衛組織の本気度がスゴイ!NORAD”サンタ追跡”の裏側 - NAVER まとめ

三択肉絲の秘密

そろそろ11才です。あれなお年頃なのです。三択(サンタク)肉絲(ロウスー)の実在性について疑義を呈するお年頃なわけです。 先日、タブレット端末で三択の存在についてとうとう彼は調べました。調べ学習の第一歩!このデジタルネイティブ!もちろん検索語は「三択」「肉絲」であります。すると検索結果のトップには「あなたは肉絲がいないことを子どもに知られたとき、どうしましたか?」が出てくるではありませんか!疑義呈しまくりの豚児は「やっぱり!」とまるで岳父が三択のイデアであらんかのごとき責めっぷり。岳父は「バカな妄言で世界に混沌をもたらす輩もいたものであるなあ」と限界すれすれの虚言詭弁で逃げ切ったのでございます。 Twitter炎上のこの時代に、諸賢におかれましては世界の秘密を軽々にWEBに記してしまう愚挙を是非とも控えていただきたい!三択の御姿は常に親・子・肉絲の三位一体にこそあり、真実の秘匿隠蔽にこそ抑制された日本的な美が潜んでいるものであります。わかりやすい言葉でネットに書くなど愚の骨頂、言語道断であります。とくに黄河九年のshow楽sayを抱える全国の家庭は炎上寸前ですから!let children show 夢!そしてsay偽装! グーグル先生もクリスマス特集とかやってるくせに、こういうあれの検索順位を上位に持ってきている場合じゃないですよ。皆に愛される偽装こそ! ***** そういう話とは全く関係のない話ですが、最近の配送というのはすごいですね。ロジスティクス、神。20日にアマゾンで注文したあれが24日に届く。24日にギリギリ届くというので、普段はあまり見ない「配送状況」をチェックすると、20日発注、21日上海から発送、23日岸和田、24日山形天童(佐川急便配送センター)ですからね。すごいもんだなあと思いましたよ。 ***** いつか大人になって父がコソコソ書いているブログを見つけてしまった子どもへ。世の中には知らないほうが楽しいことがある。真実ではないことが人を救うことがあるのですよ。それに真実は自分で見つけるものです。父と母はしたり顔で「11才の今年も、しておおせた」と祝杯をかわしています。 しかし父母がお前を騙していて、本当のことを教えてくれなかったからといって責めてはいけません。もちろん三択を責めてもいけない。願ったものが一度もやってこなかったのは

マイケル・D・コウ『マヤ文字解読』読了

まもなく6歳になる娘が一生懸命カタカナを書こうとしている。「かくれたもじをさがせ!」なんて、あまりにタイムリーな冊子。父はついいましがた、そういう本を読み終えたところです。 ***** ヒッタイト、ヒエログリフ、線文字Bといった古代文字解読のエピソードに軒を連ねるマヤ文字解読。ひとつ前のエントリに紹介したような文字の一般的性質を手がかりにしながら、言語学者が考古学者と手を結んで文字を解読した物語を紹介したのが、マイケル・D・コウ『マヤ文字解読』(→ amazon )だ。こちらは本物の「かくれたもじ(の読み)をさがせ!」である。この訳書は2003年に出版されている。 マヤ文字が表語文字と音節文字の混在したもの、とは言語学の概説書にもある。しかしたとえば僕が小さな頃の古代文明本には未解読の文字とされていたような記憶が、うっすらとある。手元にある『世界言語文化図鑑 世界の言語の起源と伝播』(→ amazon )にははっきりとマヤ文字の音節表が示されているが、これは1999年の訳書で、英語版の原書"The Atlas of Languages"(→ amazon )は1997年の発行だ。大人になってからこの本を読んで、未解読ではなかったのかと思ったことを覚えている。が、『マヤ文字解読』を読めば解るように、音節文字として体系的に解読されるようになったのは1952年の論文以降のことだそうだし、研究のモードが本格的にそちらに移行したのは1970年代以降のことらしい。後に触れるように、マヤ文字を表音文字と見るか否かについては熾烈な論争があり、表音文字否定派の重鎮が1975年になくなるまで概説書に表音性が記されることは難しかっただろうと思われる。なお、學藝書林から出ている邦訳『マヤ文字』は1996年出版。マヤ文字の解読が世間に認知されるようになったのは、日本社会ではごく最近のことと見て間違いないようだ。 マヤ文字の音節表はネット上にもすでにあふれていて、僕のような好事家(とオカルトマニアも多いみたい)の多さを物語る。例えば、 Mayan hieroglyphic script and languages などには『マヤ文字解読』巻末よりも多くの文字が収められている(この10年の進展か)。音の同定の際に参考にされた、ユカテカ系マヤ語の音素目録

未知の文字の推定法

マイケル・D.コウ『マヤ文字解読』(→ amazon )を読んでいるのだが、途中で文字論の面白い記述を見つけたのでメモ。未知の文字に出会った時、その文字の種類が(文字システムの全貌がある程度見えた前提で)どれくらいあるかによって、表語文字なのか音節文字なのか音素文字なのかが、概ね推定できるという(p.60)。以下はGelb,Ignace J.1952 "A Study of Writing", University of Chicago Press.(→ A study of writing (Open Library) )によるとのこと。 〈表語文字〉 ・シュメール文字600以上 ・エジプト文字800 ・ヒッタイト象形文字497 ・中国文字5000以上 〈音節文字〉 ・ペルシア文字40 ・線文字B 87 ・キプロス文字56 ・チェロキー文字85 〈アルファベットもしくは子音文字〉 ・英語26 ・アングロ・サクソン系文字31 ・サンスクリット文字35 ・エトルリア文字20 ・ロシア文字36 ・ヘブライ文字22 ・アラビア文字28 人間が区別できる表記体系の範囲がなんとなく見えて興味深い。 (追記) ゲルブの原著の該当箇所を読んでみて気づいた。中国文字が5000なわけなかった。50000だわ。これはマイケルの原著でミスったのか、翻訳の段階でミスったのか分からないけど、つーか僕にしてから誤植だってことに気づかずいることがダメダメですね。批判する資格なしですが。ゲルブは50000って書いてます、ゲルブのプライドのために(笑)。

いつまで続くか分からんけども

出張エピソード最終話。秋田出身の年上の方と車の中で。 「ご実家ってどういう食卓だったんすか」 「うちは肉とかあんまり食べなかったなあ。ものすごいしょっぱい塩鮭とかならよく食べた」 「あー」 「それでご飯をたくさん食べるのが基本」 「秋田の内陸だと魚はあんましってことすかね」 「でもハタハタは飽きるほど食った。内陸なのになんでハタハタだけトロ箱にドーンって」 「あー」 「それを味噌汁に入れて塩鮭とかね」 「しょっぱい物好きって健康にどうなんすか」 「いいわけないんだけど、でも塩気が薄いと食った気がしないんで、何でもしょっぱかったなあ」 「野菜はどうなんですか」 「ぬか漬けに醤油かけたりしてたかも」 僕は祖母から聞いた食べ物の話で覚えているのが2つあって、1つが塩辛の烏賊。冬になると多めに作って壷に入れて屋外で保存したとか。高校生くらいの時に作り方を教わって、今もちょくちょく作る。もう1つがぬか漬けの話。戦災後に都内のボロ屋だかに住んでいた折、近所でものすごくおいしいぬか漬けに出会って、あんまりおいしいのでぬか床を少し分けてくれないかとお願いしてみたら即座に断られたんだと。昔は家々でぬか床の配合は秘蔵されていたものだとか、そういうエピソードだったと思う。しかしついぞぬか漬けは祖母から教わらなかった。 という話を思い出したりして、思い立ってぬか漬けを作ってみた。いまはぬか床も配合済みのセットがあって水を混ぜるだけ。昨晩から漬けてみたきゅうりを今朝取り出してみたものの、少し塩がゆるい。冬なのでまだ早かった。春夏がメインのぬか漬けだものなあ。

「稲(いね)」を「しね」と読むこと

一関ネタでもうひとつ。一関市から前沢に向かう途中で右手に「束稲山(たばしねやま)」というのが見える(→ 束稲山 - Wikipedia )。「稲」を「しね」とはこれいかに、というわけだが、日本国語大辞典第2版を見ると次のようにある。 稲(いね)のこと。「荒稲(あらしね)」「和稲(にきしね)」など、多くは他の語の下に付いて熟語を作るときに用いる。(以下略) として、以下、日本書紀など上代の用例が並ぶ。 ところで、日本語の歴史で上代語を概説するときに、「和語は母音の連続を嫌う」というネタを扱う。一般的に文化的な成熟に向かうにつれて語彙が増加するときに、音節数が短い単純語を複合させ多様化する方法を取る。日本語も例外ではないわけだが、複合に際して、後続する単純語頭が母音である場合、母音の連続が生じてしまう。和語は母音の連続を嫌う。これを回避するパターンは(1)片方の母音を脱落させる「わが+いも>わぎも」、(2)母音を融合させる「なが+いき>なげき」、(3)子音を挿入する「はる+あめ>はるさめ」の3通りである、と説明するのがほとんどの概説書の定石である。冒頭の「束稲」が(3)に列される一例であることは、「しね」という形がつねに複合語の後部成素をなすことからも解るだろう。上代語の研究者にはおなじみの例かもしれないが。 ただ、(3)子音を挿入する例はどの概説書も用例が少ない。「こさめ」「ながさめ」「むらさめ」などはあるが、「あめ」以外の例はほとんど紹介されない。「ま+あお>まっさお」もあるにはあるが、中世以降の例とされる。またそもそも何故にsが挿入されるのか、kでは駄目なのかといったことは説明されないのが普通である。ということはこの回避方法は何らかの理由で生産的ではないか、あるいはそもそも回避の分類に入れてよいのだろうか、と考えたくなる。 このあたりの問題は、僕が知るうちでは、亀井孝「『ツル』と『イト』―日本語の系統を考へる上の参考として―」国語学16,1954(→ PDF ,雑誌「国語学」全文データベースより)に一説がある。直接PDFを参照できるなんて便利な時代! わたくしは、イネ⇔シネ(稲) アメ⇔サメ(雨) ウウ⇔スウ ウツ⇔スツ エ⇔セ(兄)の如き例におけるサ行立自のあるなしについてサ行音の現らわれない形の方を、サ行音の脱落したものと考へる。これに対し

「毛越寺」モウツウジという読み

一関に出張した折のポスター。「毛越寺」で、「モウツウジ」と読むらしい。 お寺のホームページ( 毛越寺|毛越寺の由来と歴史 )によれば、この不思議な読みの由来は次のように言われる。 毛越寺はモウツウジと読みます。通常、越という字をツウとは読みませんが、越は慣用音でオツと読みます。 従ってモウオツジがモウツジになり、更にモウツウジに変化したものです。 『日本国語大辞典第2版』では「もうつじ」「もうえつじ」「もうおつじ」も一応立項する。ただその読みの根拠は示されていない。円仁が落ちていた鹿の毛に導かれてこの場所に開山したことにちなみ、「毛越(けごし)」を音読みにしたものという。吾妻鏡にも記載があるというので調べてみると、確かに出てはいる(→ 吾妻鏡データベース )がその読みまでは分からない。特殊な読みなのですでに故実読みとして広く知られていれば、写本の類であれば読みの年代も推定できるだろう。 モウオツジ>モウツジ>モウツウジという変化は、東北が全般的にシラビーム的特徴(伸ばす音とか撥音とかを他の音節と同じ長さで発音しない傾向)を経て、その上で漢字表記に引かれて再解釈されたものか。モーーツジ>モーツジ>でモーーの超重音節がモーに、その後モー/ツ/ジからモー/ツー/ジ、みたいな。あるいは元の語の長さを保とうとする、代償延長なのかもしれない。

床屋談義

いつも髪の毛切りに行ってるところで、仕事バレした。別に隠しているつもりもなかったが、特に聞かれないままの5年間だったがようやく。というシチュエーションはフツーにあることだよね。 以前はこちらの情報は特にないので、時どきに応じた話題を宙ぶらりんに語れた気持ちよさがあった。なんだかそういう無責任でいられる空間がなくなっちゃったなーと思う。匿名つうんは楽ちんで気持ちいいものな。サッカー選手の話や駄菓子の話、近所の小学校で誰がどうのという話、たまに原発の話なんかもした。天下国家とか全然関係ないスモールトークで、しかも人称のない世界だった。髪の毛切りに行くところの匿名性というか、誰が誰に話しているんだかよく分からない、誰の何に役立つでもないどうでもいい加減な感じは、失ってみれば貴重な何かではあった。 地方に暮らすヨソモノ(8年も山形に住んでまだ言うかとも思うが)としては、匿名性が少しずつ失われて地に足が着き出すグリップ感も、それはそれとして楽しい。都市部の匿名性をすでに知ってしまったからなのか、「でも」というのはあるが。匿名のずるさは分かるし、人称のある自分で仕事しているし、というのはあるけれど、このブログだって「匿名」でやっていることになっている。いや、実名でやってもいいんですよ。でもぼんやりといまさらね、というのもある。 学生の話を聞くと、匿名性なんてことがほとんどない世界のすごさもたまに垣間見る。「誰々くんのお母さんと誰々くんのお父さんは中学校の時付き合っていて、そのあとうちの親と付き合っていた時期もあってどうの、みたいなことを地元のみんな知ってるんですよ!スポ小のときとかに親たちが語り合っていたりするんですよ!気が狂いそうですよ!」と言って、自分は絶対に仙台とか東京に行くんだと息巻いていた女子学生は、地元に戻って結婚し子どもをもうけた。彼女が行く美容院とかには最初から匿名性なんてないだろう。

桐島、部活やめるってよ

『桐島、部活やめるってよ』を観た。自分とこの学生を見ているようでもあり、自分の高校を思い出すようでもあり。映画オンチなんであれですが、こういう作りの映画が見たかったというのもあるし、こういう演技が見たかったというのもある。映像はNHKの朝ドラをたまに観るくらいなので。世間で言われているようなスクールカースト云々のところも、まあそうだろうと思った。面白かった。面白かったと言っていいんでしょうか。いいんであれば面白かったです! ぐっと来たのは、部活に打ち込んでる連中が、別に選手になろうとも監督になろうともしていないと宣言するところ。そうなんだよなあ。別に特別な何かになろうとするために何かに一生懸命打ち込むわけではないんだよなあ。でも生きていくためにはそういうのが必要で。 「特色ある」とかのフレーズが大学業界ではほぼ嘘だということがバレてしまって、とかそういうことを思い出しながら、映画部の子が8ミリカメラを構えているところを見ていましたよと。