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6月, 2013の投稿を表示しています

日没後の峠で

ご近所の峠で日没を見ながら。

ポストモラトリアム時代の若者たち

村澤和多里・ 山尾貴則・村澤真保呂『ポストモラトリアム時代の若者たち (社会的排除を超えて) 』(→ amazon )読了。ちょっとグッと来たのでレビュー。 大学を「モラトリアム」と揶揄しようとして「サナトリム」と呼んだ人に最近出会って、なんだかこの人の中では大学は何かを猶予されている病棟のように映っているのだなあと思ったことがある。本書をざっくり説明すると、そういう風に見ようとする視座も分からなくはないけれど、でもそう見えているのだとしたらそれって学生の本質的な無気力によって生まれたものではないよね、と教えてくれる本。 本書の話の枠組みは、(1)フォーディズムのもとで農村=自然から都市=社会に組み込まれていく段階、自己変革の猶予段階としてのモラトリアム論から、(2)消費社会まっただ中では自己も消費されてしまうので自分探しとしてのモラトリアムが横行、(3)ポストフォーディズムでは(2)とは逆に、新自由主義のもとで自分を商品化に装っていく(≒意識高い自分を演出)ための猶予期間であり、そこにはまっていけない学生にとっては不安に蝕まれて病的段階を進行させていくような期間、とされる。 こうした若者をめぐる情勢の変化が、グローバリゼーションに向かう社会の変化、そして社会学の研究者が近年あちこちに触れるようになったギデンズの「再帰性」をキーワードとして説明される。資本主義社会の総括的な視点で、若者の心性の変化を僕のようにざっくりと整理したい向きには良い入門書かも。 学生の就活に関わるくだりは、大学業界に関わる人間なら誰しもわずかの痛みをもって本書を読むだろうと思う。あの空虚な自分史作り、就活に向けた目的論的な自己の物語。自分はそういう自分になるために育ってきたという閉じたストーリーと、インターンシップやキャリア教育で励むことになる着脱可能なペルソナ作り。職場で役立つ汎用的能力や高い意識をどう身につけてきたかという、薄っぺらな語り。 もちろん過当競争が生じている現状、即戦力型人材を求める雇用形態下、すなわち雇用側も経済的に安穏としていられない状況では、そのあたりはアシキリにも用いられないくらいに最低限な「前提」とさえ認識されているだろう。現代の学生にとってのモラトリアム期間は、その論理を内面化するための文字通り命を削るような作業期間でもある。その良し悪しは単純

訛りから解放され、意味が派生するとき

訛りというのは、方言と同様になかなか定義が難しい。方言の対になるのは通常の理解では共通語や標準語だろう。山形の方言「ごしゃぐ」に対する、共通語「怒る」のように。では東北方言に典型的な語中有声化を生じた「なぐ」(共通語形「泣く」)は方言か、というと言語学的な定義からであっても厳密な解答が用意されているわけではない。言語学の教科書には「ごしゃぐ」は俚諺形などとされており、方言はその言語体系全体を指すことが学問的には多く、言語研究の専門家に「なぐ(泣ぐ)」は方言ですかと尋ねれば、躊躇しつつ「方言といえば方言」と答えると思う。 俚諺とは、ざっくり説明すれば、共通語とは発音がまったく違う語形を持つその地域特有の語であって、訛りとは共通語と類似しており訛りを取り去ることができれば共通語に変換可能なそのような場合を指していうことが、経験的には多い。研究者界隈よりも、とりわけ言語感覚にやや鋭敏な言語話者自体がそう定義する場面によく出会う。(「ごしゃぐ」は方言だが「なぐ(泣く)」は訛りだ、というような言説としても現れる) しかし訛りが共通語との変換可能な形、つまり「なぐ」とは「泣く」が訛った形といったように、ある種の語源意識がいつも2つの語形を結び付けているとは限らない。 ある地元の方と出生儀礼について話した時のことである。生まれて一週間目にお祝いをするかどうか、すなわち「お七夜」を行うかどうかに話題が差し掛かったとき、その方は「このあたりではそういうのを『すずや』というんだな」と言った。一瞬脳裏に「鈴屋」という漢字が浮かんだが、これは間違いなく「しちや(七夜)」が訛ったものだろう。なお、その方は方言的なしゃべりのコードと、言語的ヨソモノに対する共通語的コードを使い分けていて、ぼくには後者のコードで話してくださっていた。だから「すずや」が共通語として用いられてのではないかと疑わせる。しかも「すずや」というのが「しちや」、7日目のことなのだという説明が一切ないまま、話が進む。それでどうも「すずや」が「しちや」と認識していないのではないかという疑いを濃くしたところで、ついには「このあたりでは生後一ヶ月したら『すずや』をするんだな」とおっしゃった。ここに至って、たぶん「すずや」は「しちや」とは変換不可能な別の語形と認識されているのではないかと確信した。 「すずや」は間違いな