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村上春樹『女のいない男たち』

村上春樹にそれなりにはまっていた20代から20年を過ぎ、気の効きすぎた比喩や「~というものなのだ」という物言いに「うっせーな」と思う30代を過ぎ、購入した『1Q84』を開いてみることもせず40代を迎えて『女のいない男たち』(→ ゾンアマ )を買ったった。そして読んだった。いっそ晴れた連休の最終日にベランダにキャンプ用の椅子を出してコーヒー淹れて、雰囲気出した状態で読んだった。 相変わらずだった。たぶんせっかくのコーヒーがマックスバリュのお値打ち価格ものだったのがいけない。いや、コーヒーは美味しかったんですよ。専門店のスペシャルティコーヒーじゃあなくっても、香り爆発じゃなくっても日常飲めるコーヒーというのは案外そういうもののほうが美味しいわけで。じゃあ椅子か。椅子がキャプテンスタッグなのがいけなかったか。次からはモンベルとかなんとかピークとかのにします。 テーマは例によって喪失だと思います。喪失のもつ交換不可能な感じを温度低めから高めまで織り交ぜて打ち出してきています。描いているのは喪失の普遍性なのだけど、ひとつひとつのあらゆる喪失は個別的でしかありえないと言いたげです。でも村上春樹はずっとおんなじものを書き続けてない? 良かったのは北海道のとある市町村からクレームが入ったといういわくつきの「ドライブ・マイ・カー」、早稲田文学部ものの系譜である「イエスタデイ」。預言者との出会いによって喪失に気づく「木野」です。『神の子どもたちはみな踊る』以降、短編は安定して読めています(中編も〉。良かったです。なんだか村上春樹については世上の評判に押されて素直に良かったとはいえない40代がおります。でも頑張っていま言った。

久正人『エリア51』

『ジャバウォッキー』『グレイトフル・デッド』の久正人が連載をお持ちだなんて知らなかった、ということで『エリア51(1)-(7)』(→ amazon )と『ノブナガン(1)-(4)』(→ amazon )。 エリア51が青年誌、ノブナガンが少年誌向け。絵柄の描き分けなど興味深い。ノブナガンは今のところファンゆえ手を出しているレベルでありますが、エリア51はかなり読ませます。世間ではレイモンド・チャンドラーが受けているようですが、何なの?ハードボイルドがいま来ているんですかね?もっとも久正人は最初からハードボイルドなネームが得意な人だと思われるので、思い切りハードボイルドにしたところでバッチリはまったのがエリア51なんだと思います。飾らずに言いますと、とにかくひたすらかっこいい。絵はちょっぴり理解しやすい構図に変わりました。以前はかっこよすぎてどうなっているのかよくわからない構図でしたが、今回はわかりやすくかっこいい。売ろうとしてるなあと感じます。 もちろん作者なので下敷きは怪異世界、このたびは各国の神話から御柱たちをアメリカのエリア51に呼び出して楽しいことになっています。 kindleにはたまたま揃っていたので買いました。紙の本よりずいぶん値引きされていますし、何よりあとで裁断しなくていいわけだから、こんなに良いことはない。読みやすさも最初からこれならこれはこれで慣れていけるので。ただ、刊行が紙より遅れるんですね。書店に並んでいるエリア51新刊(7)を買いたい衝動に駆られます。紙の本から約半年後でリリースしているようです。紙媒体の売れ行きをある程度確保してから、ということなんですかね。

山田参助『あれよ星屑(1)』

久しぶりにグッと来るマンガを読んだ。山田参助『あれよ星屑(1)』((→ amazon )。こんな画風のいまどきのマンガ家がいるもんかねと思う。線とスクリーントーンに、谷口ジローと岡崎京子が漂っている。書店で手に取った1巻の帯に「死にぞこないふたり。焼け跡トーキョーアンダーワールド」とある。昭和の泥臭い感じと、それでいて、しかしながら、どこかポップで救いのある印象を売ろうとするのは、そんなもんかなと思った。うん、でも政治の話ではないから誤解して文句つけんなよ的ではある。東京ガールズブラボーであり、エンド・オブ・ザ・ワールドであり、と。表紙の色使いなんて既視感ありありでしょう。 戦時中にほとんどの部下を死なせてしまった元班長の川島と、元部下の門松が偶然東京で出会う。生きていた上司との再会を喜び、上司を慕う門松と、それを億劫に思いながらも門松を身近に置く川島の与太話が1巻。 川島「無駄死にから逃げて逃げて 結果は皆くたばらせて 俺だけ死にぞこなったんだ 他の死にぞこなった奴らが言うように「死んだ奴の分まで」とはどうしても思えねぇ 死んだ皆の命と俺の命は別々のもんだ 俺はあいつらの代わりにはなりたくってもなれねぇ」 門松「俺ァ学がねえからムズカシイ事はわかりません でも でもネ 俺ァ…班長殿が生きててくだすって こうして東京でまた会えてサ 本当にうれしかったんだ」 ちょっといい雰囲気。 後半は売春で働く女性たちの悲喜こもごもと、とはいえ99%が悲しいほうなわけだが、でもトータルとして悲喜こもごもに読ませる筆致がお見事だと思う。この方サブカルっぽい独特の匂いがあるのは、 山田参助 - Wikipedia によればアングラ系の(というと語弊あるが)雑誌で活躍されていたのですね。戦後の残酷さを、この目線だからどこまでも体温で描けるというのがあるのだろう。

PDF画像を使う(TeX on Win8.1)

たぶんXP時代に構築したTeX環境を、Win8.1導入にあたってゼロから構築しなおしました。これまでは構築が面倒なのでフォルダごとコピペしてPathだけ通すという荒業で乗り切ってきました。それでも動くんだからなんだかどうも。 気分刷新ということで、奥村先生の本( [改訂第6版] LaTeX2ε美文書作成入門: 奥村 晴彦, 黒木 裕介 )では最近のスタンダードであるというLiveTeX2013を。長いこと使っていたWin32TeXとはおさらばなのであります。新しい技術を読み進めていくのは気持ち良い。 で、新しい環境を作ってみて今のところ最も苦労したのが、画像処理関係です。これまでeps形式で処理していたのが最近はPDFがモードであると。そのありがたさに期待してしまったのは、たまたまいままとめている論文が画像の一覧リストを大量に含んでいるからなのですね。\subcaptionを使う云々は別エントリで書いたとおり(→ niji wo mita: subfigure環境で多量の画像を表示する )です。ちょうどTeXLiveに乗り換える前、従来のやり方でepsを読み込んでコンパイルしていました。しかしdvipdfmxでdviファイルをPDFに書き出すときに、Ghostscriptをいちいち読み込むので「こんなの初めて!」レベルで処理に時間がかかります。これにはもう我慢がならん。 epsをPDFに 基本的な情報は奥村先生の本を読むか、ここ(→ TeX入門/図表 - TeX Wiki 参照。ネット上にはフリーのソフトウェアがいろいろあるようです。僕はAcrobat Distillerを使って、複数の画像を一括で変換しました。大事なのはここでの設定です。互換性のある形式をAcrobat5.0(PDF1.4)以下にしておくこと。仕組みはよく分かりませんが、DisillerXIでは標準でAcrobat6.0(PDF1.5)形式での変換設定になっており、それでPDFを吐き出してもあとでextractbbをかけたところでエラーが出ます。 \c:extractbb sample.pdf ** WARNING ** Streams with DecodeParams not supported. ** WARNING ** Cannot parse cross-refere

subfigure環境で多量の画像を表示する(TeX on Win8.1)

古い論文手直し中。修士の最初のころ(90年代後半)はMS-Wordで書いていた。先輩が使う書式を見よう見まねで書いていたころです。形式的な書式を含むアカデミックライティングなんて授業は多分なかった。研究倫理は口伝と経験値ですかね。研究科で持っている研究誌が登竜門だったわけですが、そこで編集委員から受ける指導がアカデミックライティングの指導だったのかもしれない。物心つかない大学院生が剽窃で息の根を止められるのを、少なくとも2回は目にしました。 さて昔語りのWord文書をTeX文書に置き換えているわけですが、もうほとんどリライトです。大昔のアホな語りっぷりもあるので骨子ごと変わりつつある気がします。山のような漢字画像データをどうやって見せようかこの数日苦労していましたが、ひとまずの解決案。\subfigure環境を使うことにしました。 並べ方 A4印刷を想定しています。自分の場合は、一行に7個画像を並べ、最大5列で行きます。以下、columnwidthを版面横幅の0.12倍で設定していますが、一行あたりの画像数の増減に応じてここは変えます。\begin{subfigure}-\end{subfigure}は改行をいれずに並べれば、印刷結果はそのまま横に並びます。改行を入れると行が変わる。 \begin{figure} \begin{subfigure}[b]{0.12\columnwidth} \centering \includegraphics[width=\columnwidth]{hoge1.eps} \caption{hoge1}%ここはsubfigure中のcaption。 \label{fig:hoge1}%ここはsubfigure中のlabel。 \end{subfigure}\hspace{2mm} \begin{subfigure}[b]{0.12\columnwidth} \centering \includegraphics[width=\columnwidth]{hoge2eps} \caption{hoge2}%ここはsubfigure中のcaption。 \label{fig:hoge2}%ここはsubfigure中のlabel。 \end{subfigure}\hspace{2mm} . . . \caption{hoge}

ピンポン(松本大洋)アニメ

遅いからどうせ見ないけど、マンガのかっこよさがアニメで増幅している稀有な例に思えてならない記念youtube貼りまくり。松本大洋の線、色ムラの雰囲気がそのまま動いてる!スマイルの声はもうちょっと乾いた感じが良かったな。 ペコ編CM スマイル編CM チャイナ編こと孔CM 誰か文字起こしを(笑)! ドラゴン編CM アクマ編CM まあでもアニメは見ない。めんどいから。どなたかスラダンにおけるピンポンへのオマージュについて論じていらっしゃらないでしょうか。

サーバとデータベースと雪と

研究費をいただいているデータベース作成がひとまず納品を終えた。うちの職場には研究教育業績などを外部に公開するサーバがなかったので、サーバ構築からの工程は道のりが長かった。低予算ながら多くの協力を得てどうにか、といった体だった。東京の業者さんに依頼・本学がSSH接続を認めないという条件ゆえ、山形までデータを持ってきてもらったわけだが、あいにくのこの雪。新幹線ストップ。申し訳なさ半分、雪国のすさまじさドヤ(ただし盛り盛り)顔半分。 それにしても計画の段階で、サーバ管理を自分がやることを早々に諦めて大正解だった。無理無理。いや、多少強がって無理じゃなくても、時間と労力をそこにかけてたら他に何もできなかった。餅は餅屋ですね。どこかの国立大学みたいに理系の研究者と連携することができればもうちょっと話は変わってきたかもしれませんが。

風邪が長引く向きは漢方薬局へ

漢方薬のおかげで風邪を引いても長引かなくなった。そう断言してよいか躊躇する時期もあったが、昨年の冬に漢方薬を併用するようになって3回くらい同じ体験をしたので、今では断言できる(3回が統計的に信頼できる母数であるということでは全然なく、統計として現れない質的な合理性を重く見て笑)。 よく知られる事実として、風邪の要因はよく分かっておらず、また処方される薬も基本的には対症療法的な解熱だ咳止めだ頭痛薬だといったものにウイルスを殺す抗生物質が大かたで、良心的な医者なら薬は気休めで一番は寝ることくらいは言ってくれる。それだけ基盤から曖昧なことなら、まだ傷寒論のほうが信じられる。 で、信じる者は救われる(笑)。僕の体質にあった漢方薬を併用することで、これまでは2週間から3週間くらい平気で続いていたのが4、5日、長くても1週間で治るようになった。大人になってからはじめての経験かもしれない。風邪が長引くタイプの方は、きちんと相談に乗ってくれる漢方薬局へぜひ!

有線回帰

うちだけな訳はない、と思ってググってみると同じように困っている方がちらほらいらっしゃる(→ 拙宅無線LAN問題(1・電波干渉):まだ買ってますか。:So-netブログ )。集合住宅の2.4GHz帯が混みまくりの干渉しまくりについての案件。 一昨年くらいからうちのマンションも相当ひどい。一度フリーソフトで電波干渉具合を見てみたら平日朝8時台の上り西武新宿直前っつーか、いくつものチャンネルがかぶりまくっていて、こりゃあ無理だ感がアホでも分かる状態だった。wifiルータは空いてるチャンネルを探しに行ってはどこもだめ、を繰り返しているようで、しょっちゅうブツブツ接続が切れる。自治会のない賃貸マンションの家主有志で「チャンネルをみんなで分け合おう」運動を一瞬思いつくも、そもそもパイがねえと来た。 一方、5GHzはどうかというと平日昼間の山形新幹線グリーン車ばりにスッカスカです。またルーター買い直し(これまでルータが壊れていると思ってすでに短期間で2台目を購入)か。というところで、同僚から5GHz対応のルータを実験的にお借りした。グリーン車なので接続は問題がない。ところが今度はルータ設置場所からPCを使う部屋がやや遠く、電波が減衰気味。 こんな状況を半年くらい放置した挙句、近所の電化製品店で専門の店員さんに相談してみたところ、「(高いルータを購入するほか)どうしようもないですね」という身も蓋もない回答をいただく。これ以上ルータを買うとルータ大臣になってしまうのですよ。できれば大臣は回避の方向で、というニュアンスで「こりゃ有線回帰という方向もあったりしてですかね」と振ってみたら意外にも店員さんの目に光が宿って「それはありの方向ですね」と力強い回答をいただいた。 なんだろうこの本末転倒感。 10年位前に無線環境ができたあの日の喜びと無駄な全能感。とか諧謔精神で無駄とか言ってみたことが、マジでwifi無駄ってこと? その足で薄型ケーブル(20m)を購入し、壁にケーブルを這わせてイマココです。すごい快適。まずはPCがブツブツ切れんじゃ仕事になんねえものな(嘘、してたけど)。ただ、iPadとかの問題は今もって残っている。偉い人、どうにかしてください! 持ち家じゃないひとはwifiが食えない状況に甘んじろと。だったらテザリングにすればいいじゃない?ですと?このマ

専門書の翻訳はきっと大変

翻訳という行為はほんと大変だろうなと思う。とりわけ専門書の場合は、専門家でない限り記述の意図するところを十全に理解して翻訳することなど極めて難しいだろう(いや専門家だってそうだ)。なかでも専門書は注釈を縦横無尽に駆使しているわけで、それを一つ一つあたって解釈して翻訳にあたっている訳者なんて存在するのだろうか?…とここまで書いてみてどのレベルの質を求めるかということで考えれば、翻訳の沙汰も金次第なのかもしれない。 niji wo mita: 未知の文字の推定法 で触れたマイケル・D.コウ『マヤ文字解読』の記述に引かれ、原注に載っていたGelb,Ignace J.1952 "A Study of Writing", University of Chicago Press.を取り寄せてみた。 僕が『マヤ文字解読』で興味を持った記述は、ざっと説明すれば、世界の文字は統計的に20-30の種類が使われていれば音素文字、40-90なら音節文字、それ以上あるなら表音文字ではない(表語文字を疑ってもよいという含み)というくだりである。もっとも、本書のあとのほうで一つの文字が複数に読まれたり(山を「サン」とも「やま」とも読むような)、逆に一つの音を複数の文字で書いたり(日本でも近代に至るまで変体仮名と呼ばれる一つの音節に複数の仮名が存在したような)するので厳密には言えないことだが、ざっくりとした推定としては興味深い考え方だなと思った。もしその統計結果が1952年の時点で書かれているなら読んでみたいと思ったわけである。 ところがゲルブの本には残念ながらそれについて概略的に述べている記述はなかった。であれば、上記の記述はゲルブの以下にみる統計データに肉付けをしてマイケルが独自に考えたことなのだろう。ゲルブの論調には、マイケルも述べているが、19世紀的な言語進化論的価値観の残滓が見られるようで、表語文字が表音文字に進化するのだというパースペクティブのもとで文字の種類が縷縷述べられるばかりであるように読めた(前後数ページを読む限りでは)。ただし、『マヤ文字解読』に紹介される対照表の元になる表は"we may refer to a chart (Fig.60) showing statistically the relationship of word

I Kill Giants

ケンニイムラ(イラスト), ジョーケリー(原著), 柳亨英 (翻訳)『I Kill Giants』(→ amazon )。アメリカの作家さんが描いたものの邦訳。 これは良かった。家族をテーマに寓意で描く、というと日本ではあんまりないかもと思う。山岸凉子とかかな。『夜叉御前』『鬼来迎』とか。ちょっと違うか。少女の成長を描いているのに、日本でよく見るジュヴナイル的センチメント(「あたし」の成長)ではない。人生をサバイブできる意味での自己の成長譚(「私」の成長、と仮に名づけてみた)になっている。まあ、これは感動しないほうがおかしいんじゃない? 「外務省主催・第5回国際漫画賞では最優秀賞受賞を獲得」だそうな。描き手が受賞することよりも、賞を出した外務省のほうが試されてるんじゃないか、とも思います。だってね。もうお家芸的な高みから審査できないでしょ、これは。

マキネッタ

説明書に書いてあるとおり、3回くらい淹れてみて、なんとなくコツがつかめてきた。ミルクで割らなくてもいただける。

サクみ・ふわみ

昨年のパン作りで購入していた小麦粉の消費に精を出すべく始めたピザ作りは、パンに比べればすごく簡単だった。パン作りのときに懸念だった「ふくらまなさ」はドライイーストの予備発酵さえ行っておけば全く問題がなかった(ということはパンもうまくいくのかもしれない)。焼き加減のクリスピーな食感と、小麦自体の旨味が感じられて、これは行ける。 購入した全粒粉の袋に書いてあるレシピに愚直にしたがって作っただけのピザ。強力粉と半々にしてある。麦の旨さって全粒粉のほうが感じられるとか言うのだけど、どんなだろと思って検索をかけたトップから読んでいくと、やはり全粒粉のほうがアミノ酸系の旨みや甘みの成分が高いのですね。続けてで、読んでいくと不思議な日本語に遭遇( 米粉や小麦粉のことなら熊本製粉株式会社 )。 ●パン・菓子/口溶け、歯切れがよく、サクミある食感になります。 ●めん/ふわみのある食感になります 「サクミ」「ふわみ」ですって。擬音語・擬態語のたぐいに「み」を付けて名詞化するのって、他にある?たぶんないですよね。「うまみ」「あまみ」「にがみ」と来て、パラディグマティックな造語法で「サクみ」「ふわみ」が出てくるわけですが、「サクさ」「ふわさ」よりも「み」の音感で小憎らしい名詞が爆誕されています。もちろん辞書にもgoogle先生の検索にもひっかからないイマココ感あふれる新しみのある名詞でした。素敵だ。 ピザは4枚ドバっと食卓に並ばず、焼き時間が空くので子どもたちが飽きて困ります。 (追記) 「トロトロ」由来の「トロミ」がありました!

ピザでよかった

台湾の親戚が遊びに来たので、急遽アテンド。せっかく山形に来たからには、と食べ物関係とレジャー若干を頑張ってみたい。ただし条件は次の通り。 そばとか台湾もあるからあんまりし…。あとタレが日本のはなぜ甘い…。 寿司とかあんまり好きじゃない 温泉!?みんなの前で脱ぐのはちょっと… お酒は飲まないんで日本酒はいいです。 はい、終了ー。山形において、そばと温泉と日本酒を封じられるのは、サッカーにおいて脚の使用を禁じられるが如き制限プレイ。 しかしどうだろ。自分が台湾の親戚に歓待を受ける時って、もう「台湾らしい食事」とかいいから、そこいらへんのフツーのお店でいいじゃんってなる。有名なレストランとかそういうのはもう勘弁!みたいな。さあどうする?ということで、困ったときの元同僚にふと尋ねてみたら、そこいらへんのスーパーでいいんじゃない?というナイスアドバイスをいただく。 それで。もうマックスバリュででっかい大根見つけたら「うは!でかい!」「うわマジでかい!」「わはは!でかいマジ」ってなって、大根抱えて店内で写真大会になりました。うん、こういうので良かった。僕も必ず地元のスーパー行って、見たことない野菜買うもん。そして隙あらば台所借りて炒めもの作ったりするもん。 そんなことを思い出しながら、「山形のいいところは(実は)リアルな日本の生活(古き良きというバリエーションもあり)が味わえるところだ」、とか言って作られた伝統食を出したりするのは観光ビジネスとしてはいいけどなんか違うって改めて思いました。農家を改造したお店でそば食べる、ってねえ。思い入れのある日本人以外には一瞬で消費されるよね、飽きるから。 ということで思い切ってホテルから徒歩1分くらいのイタリアンに適当に連れて行ったら「最好!」「クリームパスタうまい」「ピザピザ」みたいな反応で、大正解でした。日本ノスタルジー的な日本世代(おおむね75歳くらい以上)でも、ノスタルジー込みのエスニックで初日はそば、二日目は「健康食」で何とかそば、三日目は「これはおしんも食べた」で無理無理そば、くらいそば食べたらもうしばらくいいという感じであるから、若い者はもう1食で無理。そもそも清貧な方向性は別として、まあうまいかっつったらそば別に世界規模では大したわけでもないし。 大文字の文化って、つい使いたくなるものですね。

ThinkPad x200のキーをお掃除

鞄の中のペットボトルの蓋が緩んでジュースが漏れた。キーボードに固まった水飴みたいなものが内部でくっついているようで、打った後の返りが良くなかったり、そもそも打ち込みに「くっついている感」な抵抗がある。幸いにも被害にあったのはカーソルキーのひとつだけだったので、早速お掃除。 (旧) キベジュンイチロウのサイト - X40のキーボードのボタン(キートップ)の外し方・・・ ThinkPad X200s のキーボード掃除 - やた@はてな日記 ここを見ながら、キーボードからキーを外す。キー裏側の構造がどうなっているか分からないので、どこかプラスチックのつながりが折れてしまうのではないかという怖さも伴うが、えいやっと力を入れるとあっさり取れた。裏を見てみると、キー裏側にはめ込み穴が2箇所あって、それがキーボードのつながる支えのプラスチックにはまる作りになっていることが分かる。だから、上記サイトにあるようにドライバーを使って力を斜めに入れるよりも、2本のドライバーを使って左右から均等に力を入れたほうが原理的には良いのではないかと思う。 もっとも、力の入れ方が難しいので、結局は1本のドライバーを使って、テコの原理で外すことになったが。 今もThinkPad x200を使っている。中身を換装しているのでまだまだ現役。こないだお店で最新のThinkPadのXシリーズを見たら、デザインがかなり変更されていて戸惑った。バッテリーの取り外しができないということにネット上の悪評が集中しているようだが、それだけバッテリーの性能が向上したと見るべきか。

岡村星『誘爆発作』

帰りの新幹線で読む用のあれで岡村星『誘爆発作』(→ amazon )を、つい帯に釣られて買ってしまった。作者は帯でハードル上げるのやめてくれと後書きで書いているが、この帯で僕は買いましたからね!正直この帯じゃマンガのライトユーザー層は却って敬遠するんじゃないかと心配申し上げるくらいです。つーか帯が他の漫画を批評しているってどういう帯なのか。ということで帯でグッと来たところを抜き書きで取り上げます。 「魅力的な登場人物」  記号的な、テンプレどおりのキャラではなく、実在するかのような登場人物が作中に息づいています。安易なキャラ立てに食傷している人にも、すぐれた効果をあらわします。(1巻より) ちなみに帯のこの解説はフォントでいうところの5ptくらいの大きさの文字でざっくりぎっしり書かれています。そこをガッツリ読んで買ったわたくしは、帯(幅10センチ程度)の上方に沙村広明による推薦文が書かれているとは気づかなんだ。読んでみてのセリフ回しのしっくり来るヤサグレ感と、油断するとすぐ「あまつさえ」とか「歯牙にもかけない」とか文系大学生っぽいしょうもない言葉遣いに溺れる感じがまさにそんな感じで、これを要するに、好きです!どうしようもない感じが好きなのであります。 「簡潔かつ迅速な展開」  連載誌が季刊なので単行本の刊行ペースはアレですが、物語は一本道でスリリングかつスピーディに進みます。迷走したあげくグダグダな展開に陥り、ラストシーンを見届ける気にならないタイプのマンガではありません。(2巻)  全国のマンガ家さんに殺意を芽生えさせる秀逸なアオリだと思います。そういうアオリは◯ティー◯・ボー◯・ラ◯連載時の◯木◯◯◯に向けていただきたかった。確かに『誘爆発作』は3巻にもなるのに時間的にはこれ数日?主たる登場人物は「犯人を追い詰める」をずっとやっているだけの一本道展開でありながら、濃密な展開で読ませます。 「劣化しづらいスタンダードな作風」 メディアミックスやランキング本の威力で急激にブレイクした作品は、早々に飽きられ、完結を前にオワコン扱いとなるリスクが高まります。本作は殆ど評価されていないため、外的要因による劣化の心配はありません。(3巻) 漫画界の基礎を日々築き上げている凡百の書き手さんに謝れ、つーかこの失礼な言い草に私もお詫び申し上げなければならない

脊髄から直接蜜柑を食べられないことは認めたうえでのこと

たまたまつけたテレビのニュースでテニスの試合が映ってる。日本人選手がどこかの国の選手を打ち負かす数ゲームの、試合運びについ引き込まれた。試合展開が面白いなあと思った瞬間、でもテニスってなんだかいけすかないことを、選手の出で立ちを見て思い出す。なんか、ほら、「休日にテニスやってる」とか「大学時代にテニサー入ってました」ってことに対するステレオタイプ的なイメージもあるじゃないですか。 いやいや、テニスそのもののゲーム性が持つ面白さに目を向けましょうよ、偏向したイメージで物事を見ると真実を見失いますよ、とか。そうですよね。客観的な事実だけを見据えて、イメージに振り回されないことは時に人生を助けるでしょう。 けど、それでも我々の現実社会というか現実世界はイメージのレイヤーの上に乗っかっているので、その文脈というか「偏向した」イメージも現実の一部なんですよね。それはそれとして、現象的にまず受け入れて、そこに一歩引きがたい問題があるのであれば、その現象を生み出した見えない「客観的な」事実とやらについて話し合いましょうよ、ということにはなるだろうと思います。その「客観的」に見えることだって、現象のひとつという見方だって認めてほしいものですけど。 現象的なことから伺いしれない「客観的な」事実に、実は我々の行動や存在が制限されていることは知ってます。そりゃ僕がどんなに頑張っても新幹線になった上で、古代ギリシャに行って蜜柑を直接脊髄で食べることはできないですけど。しかしその制限のなかで生じていることの「客観性」なんて、案外、帆だと思っていたものが舳先だった、くらいのもんかもしれません。 まあ、抽象的すぎな話ですけど、人文系の学問が見据えようとしている世界はこんなもんなので、理系の方にはどこかでお許しをいただきたいと思ったことでした。

乙嫁語り6巻

森薫『乙嫁語り(6)』(→ amazon )。中央アジアを舞台にした婚姻譚は、アミルの親族による牧草地の利権を巡る争いへ。相変わらず重厚な描き込みが目に嬉しいマンガですが、この最新刊は珍しく緊張感のある戦闘で彩られています。 以前から、気になっていました。「舞台となっている部族は何語で話しているんだろう」ということに、とうとう後書きで触れられています。中央アジアのアルタイ諸語以下の、カスピ海東部あたりをイメージしているんだろうなと思います(1巻あたりに地図があったような)。後書きで示されている略式の樹形図を、『世界言語文化図鑑(p.47)』(→ amazon )の記述に従ってリライトしてみます。☆があるのが、森薫が掲げているもの。 上記の言語はすべて日本語版wikipediaにあります。すごいな。中央アジアの言語はさっぱりですが、黒田龍之助氏がこの辺りの言語に通じていらしたような。この他、方言ネタは鉄板であるとのメモと一緒に、山形弁がさりげなく紹介されていました。

Lexical Distance Among the Languages of Europe

google+のLinguisticsコミュニティで紹介されていた Lexical Distance Among the Languages of Europe « Etymologikon™ 。2008年のポストだが、オリジナルは1999年にK. Tyshchenko によってロシア語で書かれた"Metatheory of Linguistics"によるとのこと(google scholarでは見つけられなかった)。 これは印欧語族に所属する言語を語彙でみたときの近似度を視覚化したもの。英語とフランス語の語彙的関係性などからは、言語史の教科書によく紹介される、英語におけるフランス語の流入などが分かりやすくイメージできる。記事でも、1066年のノルマンズ・コンクエストによってゲルマン語である英語にフランス語が流入したことが示される。これにより近代英語の75%がフランス語およびラテン語になってしまうと。それでも英語がゲルマン語であるとみなされるのは、構文がゲルマン語の系統を引いていることと、頻出語の80%がゲルマン語から来ているからとのこと。以下、原文をコピペ。 So why is English still considered a Germanic language? Two reasons. First, the most frequently used 80% of English words come from Germanic sources, not Latinate sources. Those famous Anglo-Saxon monosyllables live on! Second, the syntax of English, although much simplified from its Old English origins, remains recognizably Germanic. The Norman conquest added French vocabulary to the language, and through pidginization it arguably stripped out some Germanic grammar, but it did not ADD French

年頭のご挨拶

2014年になりました。山形にやってきて9年目を迎えます。ブログ人生でいえば半分以上が山形。毎年、ここ山形の日々で得られる貴重な体験があります。食べ物や観光なんてのはそこそこという感じ(色んな種類のがあるのだけど体験しているうちにフラットになってくる)ですが、一昨年くらいに方言のデータベースを作成してみたらそこから言語学的な現象が色々見て取れて、これが飽きさせません。「民間語源」「特殊音節脱落」などのタグをつけていけば、授業でも使えるし概説書などでも事例に使える。 タグといえば、すでにevernoteを2年位前から使っています。この休み中に言語学系のクリップにタグをつけたりしていると、懐かしさもあり新しいアイディアを喚起されたりしています。読んだ書籍の気になる箇所のクリップやウェブのクリップも。手書きメモ帳もカメラでクリップしています。 ウェブからのクリップでは自分の関心でフォローが形成されているのでツイッターが良かった。FBは途中でなんだか疲れてしまって半年ほど放置でした。疲労を招くといえば、授業や会議の合間に一服入れるつもりで見るウェブ、あれはほんとうに良くないと思います。どうでもいいネタにハマって却って疲れるということが一昨年は結構ありました。まとめサイトや海外面白ニュースとかをつい読んでしまう無駄、みたいな。それで2013年の4月に次のようなことを印刷して、パソコンの壁紙にしていました。 「余計な仕事」なんてない!とか言われそうですが、そこは主観で(笑)。研究室にいればいるだけ仕事が増えていくので図書館で仕事することも多かった一年。最初のセメスターは壁紙の目標をほぼ実現できていて、授業も研究も家庭もそれなりにうまく行っていましたが、秋セメスターになると学生も就職活動やら卒業論文などで個人面談が頻繁に入るようになりほぼ実現できなくなります。かといって個人面談も非常に重要な仕事なので、欠かすわけにはいきません。今年はこのあたり、さらに工夫が必要でしょう。 ブログの投稿件数も2013年はこれまでで最低数でした。秋辺りからぱたっと書けなくなってしまったからですが。仕事がハードになるとアウトプット中心の生活になるので書きたいという内的動機に乏しくなるみたいです。自分の切り売りをして生活をしている感覚が出てくるとヤバい。インプット量を増やすために時