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6月, 2010の投稿を表示しています

台湾人生

酒井充子監督『台湾人生』(→ amazon )を見た。すごかったなこれ。思わず、アマゾンに人生初のレビューつけたよ。ちょっとショックを受けるくらい深いところまで切り込んでいるのに、統治時代ノスタルジアみたいなレビューしかないからちょっと出しゃばってみた。 レビューでも書いたけど、この映画のすごいところは、きちんと統治時代を懐かしむ正の気持ちと、統治下に差別もされ、解放後に日本政府に見捨てられもしたことに対する負の気持ちと、両面から光を当てているところだと思う。「懐かしい、悔しい、どちらともつかない気持ち」と映画の最後にインタビューイの一人が語っているところは、これぞポストコロニアルだとしか言えない。国民党政府の戒厳令と弾圧によって、日本の統治時代を人生の中で十分に消化できなかったその声と、日本人という枠組みからしか自己の「台湾人」を語り得ない様子が、フィルムのあちこちから読み取れる。7年の取材だって。おそらく、酒井さんとインタビューイのあいだにきちんと構築された関係性が、この語りを産んだのだろう。労作&名作。 酒井さんへのインタビュー(→ 『台湾人生』酒井充子監督インタビュー )も合わせて読むといいかな。 この映画の出演者でも、茶摘みをしている楊さん以外の4人の方は、愛情はあるけど、端々に恨めしい気持や悔しい気持も出てきますよね。台湾には親日的な感情と、そうじゃないものが混じり合っていると思っていただけるといいと思います。台湾の日本語世代の人たちは、日本に捨てられたという思いが強く、日本がもっと台湾に向き合って欲しいと望んでいます。 そして、親日的な声だけを拾い上げて自己肯定につなげる、日本の一部の無邪気さとも、僕らは向かい合わなければならない。

口外禁止の話

先日、熊撃ちをやる方々から聞いた、山言葉や山での習俗・しきたりは、山で行われるものだから下界では使えないとのことだった。で、なんとなくここには書けないわけだが、昨日民俗学ご専門のかたから、その手のリテラシーの話を聞くことがあった。外への持ち出しや口外が禁じられている習俗・神事などはもちろんたくさんあって、でも研究成果はあったりして、民俗学のなかでもどうやってそれを聞き出したかは問えないケースもあるのだという。観光客ではもちろんダメ、学術目的でもダメ、内部の者でもない、じゃあどうやって?みたいな。その方がおっしゃるには、コミュニティ内部にはいろんな事情があって積極的に情報を提供してくれる人がいるんだって。えー、じゃあコミュニティ内部の人間関係がおかしくなっちゃったりするじゃないですかー、と聞きたくなるわけだが、立ち話程度だったので聞けなかったな。 方言調査でも、手練の研究者は調査項目だけ問うのではなく、世間話を持ちかけてプライベートな話も引き出しつつ、そこに現れる言語情報もいただく手法を取るわけだが、言語内容は時にプライバシーの限界線を超えるものもあって、結局ここは使えないなんてこともある、と聞いたこともある。でも民俗学の場合はその内容がターゲットであるから、言語調査以上にリテラシーが問われたり、抜け道ギリギリなんて話もあるんだろう。 件のかたに聞いて印象に残っているのは、八重山のある習俗について、「絶対に外部には見せないことになっている。でもみんな知っているし、なぜか写真もある」との話。とはいえ、案外、学術調査を欺くための方法がしっかりインフォーマント側に備わっていたりしてね。

謎の作文

帰宅したら子どもの作文が僕の机の上に置いてあった。後半の不思議な展開に思わず笑う。 だから高いのは当然であって、でも欲しい、という気持ちの表れ(母親に買ってもらえなかった背景あり)。次末文の乱れのうしろに何度か消して書き直した後があり、その後に最終文が現れる展開を考えると日本の夜明けに胸が熱くなるな。龍馬どころじゃねえなこれは(龍馬は一度も見ていません)。

ハングルの誕生 音から文字を創る

野間秀樹『ハングルの誕生 音から文字を創る』(→ amazon )読了。平凡社新書すげえなあ。今時の新書のボリュームが米国的ファストフードだとしたら、こっちは満漢全席じゃねーのと思ってしまうくらいの食べごたえがあった。言語学者(→ 野間秀樹研究室archive )としてハングルの歴史を追ったものだが、芸術家(→ Hideki Noma's Art Works )?としての側面がただの表記の歴史に骨格を与えているように思えてならない。読み応えがありすぎ。 全7章構成のうち、第1章~第3章までが言語学を背景とした、ハングル誕生の歴史的経緯、ハングルに仕組まれた工夫。ハングルが音素音韻論・音節構造論・形態音韻論の三重のレイヤーからなると説明するあたりは、特に面白かった。第4章から最終章までがエクリチュールとしてのハングルについて述べたもの。文字の線そのものから、詩や散文にまで話が及ぶ。言語系研究者と文学系研究者が手を結ぶとしたら、こういう形になるのがひとつの完成形なのだろうなと思ったところで、亀井孝『日本語の歴史』(→ amazon )へのオマージュとしても読めるかな?と思った。 それにしてもこの本に書かれている、やや大仰とも読まれ兼ねないロマンティシズムは、誤解を恐れるが、漢字中華圏体験を持つ文化でなければ十全に味わえないのではないかと思った。漢字中華圏の周縁に位置する、たとえば我々日本であるからこそ、その磁場から離れようとして自前で新しい文字を創るロマンを共有できるのではないか。「師匠がなくとも誰でも自分で理解できる文字」がめざされたということ。自分たちの声が(表語文字ではなく表音文字として)きちんと表記できるということ。ハングル誕生を記した『訓民正音』刊行の翌年に刊行されたという、王朝叙事詩『龍飛御天歌』がハングルで書かれたことを紹介した上で、筆者は「これは歴史の中で、未だかつて誰も目にしたことのない、朝鮮語の〈書かれたことば〉であった。どうだ、漢字漢文で、これが書けるか。」(p.218)としている。本居宣長?国粋主義的である?まあそう言わないで。誰のための文字か、という問いは、主義を越えるものが。 付録の文献一覧と索引(用語解説付き)が圧巻すぎ。こういうのも新書の概念に含まれるんですかね。

あるひかり

具合がわるいのを押して山奥の研修へ。きのこの菌打ちをやる学生を、きのこ以外のものを打ち込んだりしないか見張りながら写真をとったりいっしょに菌を打ち込んだりする。予定よりノルマが早く終わったので、現場監督(笑)より熊撃ちの話をいただく。これがすごく面白いのだけど、書いていいか迷う。学生に山言葉を研究しようとしているのがいて、ここぞとばかりに情報収集しようと思ったら、山言葉は山の言葉だから…と言葉を濁されて、ああこれってフィールドワークリテラシーだと思った。それに、こういう都市伝説(言ってはならないことを言ってしまったがために…)ってたくさんあるでしょう…。 言語的に面白かったのは、順接助詞の「~サゲ」(関東共通語の~だから、に相当)が聞けたこと。教科書的に知られるのは、この助詞は庄内地方に特徴的ということだが、ちょうど村山地方と庄内地方を隔てる月山麓の集落でこれが聞けた。他にも目を表す「マナグ」とか(これ間違い。『山形県方言辞典』によればマナグは全県的に使用)。音韻的な特徴は内陸、語彙的な特徴に庄内的なものがわずか、といったところだろうか。クレオール的な状況を呈しているのかも知れない。アクセントも、耳にした感じでは無アクセントかと思うが、最上地方的な曖昧アクセントだったりするのだろうか。 具合がどんどん悪くなり、翌日午前中で下山、病院に直行。薬を飲んで少し良くなる。山で撮影した写真を一枚だけ。 小沢氏の「ある光」をイメージして。