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12月, 2010の投稿を表示しています

日本郵政の年賀状用オンラインサービス

年賀状を書く煩わしさを感じながら、でもご挨拶としてはあったほうが良いか、などと逡巡する僕のような人間にとってありがたいサービスが。日本郵政のウェブサービス、 はがきデザインキット2011|郵便年賀.jp と、 ウェブポ - 年賀状のぜんぶをオンラインで 。 これまでも自分でパソコンでデザインを作って、筆王みたいなソフト(いや筆王そのものですが)で宛名管理して、年賀状買ってきて印刷して、一言ずつ書いて、スタンプ押したりして、という煩瑣なことをやっていた。このうち面倒なのははがきを買ってきて印刷するプロセスだ。上記サービスの素晴らしいところは、はがき購入と印刷と発送をオンラインで行えるところ。一通ずつ、一言を添えることもできる。デザインキットは リッチインターネットアプリケーション | Adobe AIR で作られており、デスクトップアプリでありながらネットとシームレスなので、「こちら」で作る安定感と「あちら」でやってくれる利便性が融合している。 発送のプロセスはウェブポで行う。デザインキットからきちんとウェブポに中身を受渡してくれるので、ここは簡単。最後はカード決済して終了。使い方を覚える時間を除けば、半日で年賀状を作成+発送までできると思う。はがき代と印刷代をあわせて、1通128円を安いと思うか高いと思うか。 気になる印刷品質だけが未知数。自分宛にも出しておけばよいか。

夏目房之介『書って何だろう?』

夏目房之介の最近の仕事に興味があって、『書って何だろう?』(→ amazon )を読んだ。 本書は石川九楊編『書の宇宙』という叢書ものに連載したエッセイらしい。マンガの線に基づいた表現論を得意技とする夏目氏が、どうやって書を分析するのか興味があった。著者自身が書いているように、夏目氏は書に造形が深いわけでもなく、お仕事として「受けちゃった」性質のものであるから、著者としてみれば挑戦的な著作ということになるのだろう。全般的に、手持ちの経験と言葉から(良く言えば)書の歴史性に拘泥せずに、思うまま鑑賞文を書いたもの。もちろん夏目氏のことなので、鋭い観察はある。が、著者自身が触れているように、印象批評の域を出ない。夏目氏にこういう企画をやらせること自体は、とめはねブームを下敷きとした話題を呼ぶだろうし、書や名筆を大衆に分かりやすく紹介する意味合いを持つだろう。でも読後感はやっぱり拍子抜けだった。どこか食い足りない。 話は変わるが、これで「やってみる」ことの限界はあるなあと思った。どこの大学も、講義一辺倒では学生の受けが悪いということで、演習・体験系の授業が増えていると思う。演習・体験系授業のほうが、学生評価も高くなりがちではある。そういうつまみ食いがカリキュラムの導入あたりに固まっていて、他の授業との連携が見えているのであれば話は別だが、客寄せのためにカリキュラムの経絡と離れた授業にそうした「やってみる」系の授業があるのは、学生の好奇心コストを無駄にさせているように思う。やるなら行き詰まりを感じるくらいに「やりぬく(読み抜く)」か、歴史性や同時代性のコンテクストの中で紹介するべきだろう(あるいはその両方)。 夏目氏のマンガ表現論は、彼自身が実際にマンガを書いて「線を書く」行為を身体化した中で生まれた。『書の宇宙』連載開始時には彼はただの観察者だったが、連載途中から臨写を始める。それに呼応するかのように、敢えておちゃらけていた文体も途中から変わり、歴史性や作家性との関わりでエッセイがなされるようになる。そのことはあとがきで明示的に語られている。このあたりのバランスを授業の中で再現できれば、と思うがなかなか難しいところ。

マンガっす

マンガ。読んだのも、読んでないのも(積ん読状態あり)。 ヤマシタトモコ『HER』(→ amazon )。このマンガがすごい!2011オンナ編だって。ブリブリしている偽装天然系女子の内面を書いたやつが良かった。 福島聡『星屑ニーナ(1)』(→ amazon )。福神の時より絵が好きだな。アマゾンの書影が暗すぎる。もっと明るくて無責任な気持よさが絵から漂っているのに残念。さて1巻にて主人公が死にまして、どうやって続けんだろう。 黒田硫黄『新しい朝(2)』(→ amazon )。大好きな黒田硫黄ゆえ、まだ読んでないです。1巻から読み直すつもり。2巻で完結みたいです。 東村アキコ『海月姫(6)』(→ amazon )。まやや様大化け、人形職人の強烈なキャラクターが登場。東村の作品に出てくるオタは、僕の中ではみんな好感度高い。 羽生生純『俺は生ガンダム』(→ amazon )。相変わらずこの人おかしいよ。ただ、僕はそんなにガンダム知らないので、ガンオタの人が読んだらすごく面白いんだと思う。なので、羽生生純として無茶な構図とか展開とかに笑えた。 迫稔雄『嘘喰い(19)』(→ amazon )。そろそろ最終回に向けて話が動き出した感じ。 益田ミリ『どうしても嫌いな人 すーちゃんの決心』(→ amazon )。初めて読んだ。このオフビート感は、るきさんの系譜?この本に限って言えば、読むと申し訳ない気持ちになる。他のはどうかな。

電子絵本の歴史的通過点

iPadのアプリはまだまだ仕事効率化的な局面で使うことが多い。趣味的な局面で使う機会にはなかなか恵まれない。それはこの手のアプリが、現行のPCソフトをiPad版として商品化したもの、新規性を打ち出そうとしながらも商品としては未完成なものや職人的なマニアックさを伴うものなどにほとんどを占められていて、一般的な消費者が様々な角度から楽しめるような豊かな土壌が形成されていないことにもよるのだと思う。ゆえにビジネスチャンスとしての伸び白は広く残されていると言って良い。 日本の電子書籍がまさにそれを反映していて、自己啓発系に新書系、あとは村上龍のようなオルタナティブかつ実験的なものがちらほら、という感じ。そこに頭ひとつ出たかも、と思わせる絵本に出会った。佐々木譲文/佐々木美保絵『サーカスが燃えた』(→ iTunes App Store で見つかる iPad 対応 サーカスが燃えた )がそれだ。 古き良き絵本を志向する絵柄で、タイトルの書体も60年代の福音館書店を彷彿とさせる雰囲気。お話そのものは、火事になったサーカステントから女の子が逃げる、というシンプルなストーリーを骨子としつつ、サーカスの奇妙でフリークスな雰囲気が漂うところは子供心にいかにも引っかかりそうな感じがある。話のオチは実は大人向けとも取られる喪失と成長の物語でもあるところが今風か。といって、大海嚇(→ 大海赫 - Wikipedia )のようなトラウマ系というわけではない。残香程度のジュブナイルが隠し味。ことばのリズムもところどころ引っ掛かりはあるものの、考えて作ってあり、子どもに読み聞かせるのも楽しいだろうと思う。 電子書籍としての仕掛けは、バンドネオンが奏でる音楽と、時折奥行きを見せるために「カメラフレーム」が動くことと、逃げるシーンで動物などが動くこと、である。動く要素は最小限に抑えられており、というか動かなくても絵本としては十分完成していると言える。むしろこの絵本について電子書籍としての必然性を感じたのは音楽だった。サーカスのあの雰囲気を作るのに大きく役立っているように感じる。ただ、音楽を別とすれば、動かない印刷媒体の絵本として出版されていてもおかしくはないので、電子書籍としての評価は割れるところと思う。 僕が新しさを感じるのは商品そのものの仕掛けというよりも、こうした質のよい絵本が、電子書籍ネイティブ

旅先で出会ったひと

インドネシア出張の報告はこれにて終りにします。旅先で出会ったひとたち、仕事関係の人は全て除く。 パプアで、観光客向けの民芸品通りで。カメラを向けると「撮って撮って!」とアピール。 年上の、ガキ大将らしき女の子がとてもいい表情をするので。 ジャカルタで。独立記念塔の受付にいたバイトとおぼしき女の子たち。カメラを向けると、決め決めの笑顔。 その脇でTシャツを売る少年。写真撮っていい?と聞くと、いちおう顔を作ってくれた。 記念塔の地下は涼しい。涼みに来ているとしか思えない子供たちの群れ、横になってゲームに興じている子どもも。 独立記念塔と同じくらい、多民族国家の統一装置たる、民俗村で。広いのでレンタルサイクルやバイクタクシーなどがある。家族連れの皆さん。 なんとなくうちの家系の顔にもみえるし、オクサマの顔にもみえる。汎アジア型人類こそ我々である。 日陰のベンチで休むイスラム女性2人。光の感じがすごく良くて、キメキメの顔をお願いしたのに、背景の明るさに露出時間が合ってしまってこのザマ。仕方なくPCで明るさとコントラストを上げた。オリジナルは光の雰囲気はすごく出ているけど、インドネシア美人のお二人が真っ黒になってしまっている。ごめんなさい。 今回、最も良い面構えをしていた子ども。お母さんが撮っていいよ、というので、こちらも笑顔を引き出すために色々やってみたけど、もう絶対笑わないもんね。かといって泣き出すわけでもなく、このツラでガン見ですよ。先輩、勘弁してください。 * * * * * おまけ。パプアニューギニアから買い付けているお土産屋さんで。諸星大二郎『オンゴロの仮面』ファンとしては、仮面は大切でしょー。ベロを出しているのは歓迎の意であるとか。ベロがワニだけども。同行者に、本気で買う?勇気あるよね、とお褒めの言葉とは考えがたいコメントをいただく。 彩色はドロなのかな。汚れをタオルで拭きとったら、少し落ちてしまった。でも、細かく作りこんであるようにみえるものを選んだ。 大きさ比較のために、汎アジア型人類を用いてみました。 分かってはいることですが、我が家には置き場所がありません。職場かなー。

話が飛ぶ人

それにしても今回の東京滞在は有意義だった。久しぶりに会えた人の多さが際立ったなあ。荻窪に住んでいる古い友人、6年ぶりくらいの教え子の人たち(みなさん立派になられて)、大学院の仲間とか先輩たち。宿をとった新宿から新大久保を通って、母校まで歩く道すがら、学生時代よく行ったお店とかを覗くと皆すこしずつ老けていたり。関東地元の人間が関東に就職したのではこの感覚は味わえないだろう。懐かしいといえば渋谷な!若い人がいっぱいいるので僕はなんだか恥ずかしかったです。8年ぶりくらいじゃないかな。 そうそう、メインは母校の所属学会のシンポジウムだったことを忘れてはならない(笑)。そのシンポジウムも実りが多かった。テーマはいまさらながらの、言語にとって正しさとは何か、なのだけどもちろんただの正しさ批判(と近代批判)で終わるわけもなく、じゃあ僕らは「正しさ」の基準をどこにおけばいいのかという話が基音となった。 あるパネリストの話は、「自然な」言語と、教育コストをかけて身につけた「人工的な」言語とが、層となって言語史を担えるというような話だったと思う。また別のパネリストの話は、言語の「正しさ」には弁別に関わる正しさと、価値に関わる正しさがあるといった話なのだけど、挙例がユニークながらシサに富むものばかりでシンポジウムが盛り上がった。 でも一番面白かったのはパネリスト自身だなー。あんまり書くとあれなんだけど、先輩筋の中でもとりわけ天才肌のひとと、ゲストで呼ばれた他大学の天才肌のひととがパネリストになって、天才じゃないと分からない説明をするわけ。だからもう説明が飛びまくってて、本人たちは聞き手が了解しているつもりで進めるからもうおかしくって。それが今回自分に分かったのは、普段からそのネタをなんべんも聞いたことがあるからで、予備知識なかったら僕も絶対分からん。僕の研究についてコメントをもらう時も、その先輩が言うことがその場ではほとんど分からなくて、だいたい帰る道々、ああそういうことが言いたかったのか、と分かればいいほう。他の人からの補助的説明を聞いて分かったり、そのままブラックホールに吸い込まれてしまったものもたぶん山ほどあるな。 よく言われるけど、凡人からすると論理の連続性が途切れるとつい止まってしまうところを、ひょいっと飛び越えるのだよね。絶対本人は飛び越えているつもりないと思うけど。

夏目房之介『マンガ学への挑戦 進化する批評地図』

夏目房之介『マンガ学への挑戦 進化する批評地図』(→ amazon )を読了。2004年初版の本で、2009年で三刷。マンガ研究史を縦糸として、表現論としての側面、社会学としての側面など、マンガの捉え方を研究手法との関係から横断的に論じたもの。夏目氏の本は学生時代にちょっと読んだくらいだった。 本書によれば、2004年までの研究水準は萌芽期と捉えられている。90年代末に夏目氏の本を読んだ時は、マンガへの印象批評や私語りへのカウンターとしての表現論が新しく思えたものだった。友人と講演会行ったな。構図や線が読みとの関わりで表現論として語られるのは、ちょうど日本語学で小松英雄氏が古典文学を連綿のスクリプトレベルから解釈しようとすることと重なって、知的興奮を感じた覚えがある。夏目氏のほうは実証主義的な手法と(少なくとも当時は)捉えられたのに対して、小松氏のほうは印象批評の謗りを免れなかったのは、読もうとする深さの違いとその帰結が共有されにくかったからなのかなと思う。 2010年現在では、きっとこの本はすでに歴史的通過点のひとつなのだろう。面白かったのは、2004年時点でマンガの日本固有文化論が明確に批判されていることだった。そこでは、ある種の異文化交流からの生産物としてマンガが捉えられている。 近代漫画の成立には近代化過程の社会的諸条件の整備(印刷技術、新聞の流通、教育による標準的読解力の成立、市民層の成立など)が不可欠だし、とくに大衆社会的な説話媒体である複数コマによる物語化は、米国コミックや映画文化の影響、日本社会の欧米化が不可欠だった。(p.204) 最後の一文は言うまでもなく手塚のこと。で、そこから夏目氏はマンガ論をいくらか逸脱して、文化本質主義批判をしている。日本人じゃなければマンガは分からない、アメコミは別、みたいなよくあるステレオタイプへの懐疑から、アジアに対しては文化的優越者として・欧米に対してはフォークロア的なジャポニズムとしてマンガを位置づける戦略を取ることへの批判まで述べられている。日本のマンガを異文化交渉の相互行為のなかで論じる下敷きには、もちろんカルスタが参照されていて、時代の産物だなと思う。で、その時代の産物はどうもきちんと日本に受け止められないまま、マンガは世界資本主義のなかでパワーゲームのためのステレオタイプでコーティングされて、「クール・ジ

インドネシア美味しかったもの3

パプアで食べたおいしかったもの、その3。ここいらでもう止めときます。 おいしいドリアンを初めて食べたことが、鮮明な記憶として残っている。日本で食べるドリアンは確かに臭い。いや、ドリアンそのものが臭いのだが、その臭さに隠れている、果実が熟した甘い香りがパプアでは感じ取れた。おみやげとして購入してきたドリアンキャンディーは、おみやげとして期待されているネタ性を存分に発揮するもので、部屋中に例の臭が。ある学生が「玉ねぎの腐った臭い」と。 果物売りの若者に甘い?と尋ねると、憮然として、甘い、という。本当に?とじゃれてみると、怒った口調で甘い、という。それならば、ということで食べてみたのだった。正直に言えば、甘さはこんなもんかという感じだったが、香りの良さに驚いた。総じておいしいと感じたので、おいしい!と言うと、満面の笑みを返された。最後は肩を組んで写真をとって別れた。 このボツボツのついた果物は、中国語圏では釈迦頭(シャカトウ)と呼ばれているもの。インドネシアではsilsak(シルサック)と呼ばれる。これをジュースにしたものがうまい。桃とシトロン系の香りを控えめにした香り。ジュースには砂糖を入れているようで、果実自体はさほどおいしいものではなかった。品定めが悪かったのかもしれない。触感はドリアンに似て、よく熟れたアボカドに近いものがある。 それと、お約束のランブータン。ranbutとは髪の毛を意味するインドネシア語。それに指小辞のような接辞-anがくっついている。 ジャヤプラ現地での伝統的な主食はサゴヤシの粉から作ったパペダ。固めの葛湯に似た食感で、スープに浸すなどして食べる。動物性蛋白は見たところ魚が多いように見受けられる。港のそばでもあり、近くに大きな湖もある。肉類も食堂ではガンガン出てくるが、伝統的にはどうなのだろう。食堂ではあまり野菜が豊富ではないように感じた。日本でも外食で野菜類が乏しいのと同じなのかもしれない。一度だけ家庭のパーティーに呼ばれたが、もてなしの料理だったためか魚や肉がメインだった。 そんな中で、野菜をガッツリ食べたのは、パパイヤの花と葉っぱを炒めた物。写真では空芯菜(地元ではカンクン)が混ざっている。味付けは中華風味にチリを効かせる。 あとはインドネシア料理といえば、のお約束、ミーゴレン。直訳すれば焼きそば。世界中の麺文化は中国を端緒とするというが

買わせるために全部やる

ジャカルタのスラバヤ通り(骨董市)で値段交渉をして買った安物ワヤンの実売価格とでも呼べる金額が判明。10倍はふっかけられた。こちらは半分に値切ったつもりでいたが、向こうはウッシッシというのはよくある旅のお勉強だ。ご愛嬌だな。有象無象のガラクタに溢れかえったお店が立ち並ぶ前に、観光客を捕まえてやるぜと虎視眈々な店員が待ち構える。 明らかにパチもんのブローチなどをいくつか、3歳の娘用に。生活が困窮していることを涙を流さんばかりにアピールしつつ、ホテルだったら10倍はするぜとの説明。対して、こんなものは日本では10分の1以下だと応酬する。インドネシアが日本の物価より100倍するなんてあり得ないだろ、と返すと、OK、じゃあいくらなら買うんだ?と小声で持ちかけてくるのがこのあたりのプロトコル(そこからが本当の値段交渉)。 結局騙し勝負では完敗なわけだが、それもまた楽し。彼らの使う「ヘイ、ボス」「トモダチ」って、もうその言葉自体が言語道具観にたった、言葉の使い方。買わせるためにやれることは全部やるという在り方はぜひ参考にさせていただきたい(笑)。 帰りのジャカルタ空港でスタバに立ち寄る。ルピーを使い切ったのでカードを使おうとすると、ドーナツも買えという。スタバでも?いや思い違い。250kルビー以下ではカードが使えないというらしい。スラバヤでの敗戦体験が響いている。

メシその2

今回の旅で一番美味しかったのは、横丁みたいなところで食べたミ・バクソ(mi bakso)という水牛の肉団子を乗せた麺だった。かなりポピュラーな大衆食で、ミ・アヤム(mi ayam)という鳥の麺もある。どちらもあっさりしたスープに香菜をのせて、好みに応じて香辛料サンバルや醤油をかけて食べる。運転手のひとをそそのかして、おごるからあそこ行こうぜ的な感じで。接待料理ばっかりだったので、こっそり抜け出す感覚も楽しかった。 写真は隣りに座った男の子。10歳くらいかな。写真撮っていいかと聞いたら、はにかむような表情を向けてくれた。 二番目に美味しかったのは(ごめんなさい)、ご家庭に招かれての食事。ジャワ料理だという。 パプアの料理と違って、かなり中華料理っぽい。 お皿に盛ってみた。 そしてこれがバンドゥン(bandeng)といって、台湾で言うところのサバヒー(虱目魚)。脂が乗っていて美味しいお魚で、島嶼国で広く食べられているらしい( サバヒーを味わってみませんか!? )。 トランジットで降りたビアクの空港で見つけたコーヒー・コーラ。コーヒーで香りづけした消しゴムをもし食べたらこんな味だろう、という味。 最後に、ジャカルタで食べた鳥の素揚げ。これも滅法うまかった。鳥自体が違うのだろう。シャモ系か。肉は閉まっていて歯ごたえがある感じ。 毎日食べまくって飲みまくったので、腹回りが相当危険なことになっている。しばらく減量生活をしなければ。

恐怖を克服するために

12月7日のエントリ( niji wo mita: 内的にはオカルト、外的には科学的に解釈できる )で書いたとおり、僕は飛行機の恐怖を劇的に克服した。そこでは心が内的に感じ取ったことを、かなり主観的な角度から書き記したが、もう少し客観的に書き残しておきたい。恐怖との距離の取り方が分かったものの、完全に怖くなくなったわけではないし、次に飛行機に乗ったときにまたダメになっているかも知れないからだ。だから乗り越えるためのノウハウを書いておく。そして願わくば同じように飛行機を恐れる人にわずかでも役に立つことがあればと思う。 1. 言語化を試みる 心理言語学などでもケーススタディとして紹介されることがよくあるが、いま起こっていることに言語で形を与えられると恐怖が解消されることがある。僕の場合はなぜ揺れるのか仕組みがわからない、いつ揺れが来るのかわからない、揺れの持続時間がわからない、などが恐怖の主要因であることは分かっている。 2. 心の中にトーテムを作る 恐怖を自分に留めずにとおりぬけさせる方法は、要は恐怖に執着しないということだ。と言って、心を無にすることは修行僧ではないので難しい。ここは意識の選好性を利用して別の何かに集中するのが良い(三宅乱丈『ペット』で言うところの「蝶を見る」行為)。トーテム、すなわちそれさえ見ていれば他を見ずにいられるような、強い対象を作る。例えば単純で繰り返しを伴うものが良い。昔の人が念仏を唱えるのも本質的にはこれと同じだろう。ちなみにトーテムという用語は映画インセプションからのパクリもの。この場合、学術的な正確さではなくて自分の中に理路を作ることが大切。 3. 恐怖には時間がある こうすることで、気持ちの方が恐怖に適応して来るわけだが、それでも大きな揺れはやって来る。そういう時は、これはすぐに終わるはずと思うようにする。長くは続かない、一定時間耐え忍べば必ず終わると強く思うようにする。終わりが見えないと不安で恐怖は増大する。だから例えば航路の天候、安定高度に達するまでの時間、飛行機の大きさなど事前に分かることは調べておいたほうが良い。そのほうが、恐怖に終わりがあることを自分に言い聞かせやすくなる。 4. 課題:スイッチの入れ方 以上を踏まえれば飛行機は怖くないのかといえば、そうでもない。恐怖は恐怖としてそこにある。恐怖に対して距離をおく、自分を

恒例のメシ紹介

ってことで、もちろん食べ物です。基本的に東南アジア的なものから、南アジア的なものまで、幅狭く大好きなnjmなわけです。アジアメシはうまいんだよ。パプアにはアボリジニに近い人や、メラネシア系、あとインドネシア移民時代の現代では華人系もたくさん入っていて、もうメシはどこの何かよくわからん。けど道端で売ってる屋台とかそういうのはだいたい華人系なのかな、とは思う。 まずは基本のサルサ的な激辛ソース。何につけてもこれが出てくる。もちろん僕はたっぷりつける。 このあたりのフンボルト湾では魚が取れ取れなので、焼き魚をよく食べる。それに地元ハーブのクマギンという葉っぱと、ライムを絞って。 パダン料理といって、数々のお皿が出てきて、食べた分だけ支払う。基本的にターメリック、あとはチリ系のスパイスがふんだんに使われている。それをご飯の周りに並べて、右手で食べる。 たとえば、これは牛皮。本当の牛の皮。豚の皮は台湾でも食べるが、牛肉のは初めて。とろとろじゃないタイプの豚足煮込み、といったら通じるだろうか。 で、そういうことになるよね。よくビールのほうが水より安いというが、ここではそんなことがなくて、やっぱり水が安い。ゆえに言い訳不能。 鶏肉を煮込んだ物をご飯の周りに並べてみた。もうどうやったってうまいから、こういうのは。選ぶことの意味が無いよね。 某公的機関でご招待うけたときのカップ。お茶は普通の紅茶。高級なものとなると、やはり西洋のものになるみたいだ。非欧米圏にあるある的な。 ドリアンとランブータン、マトワ。もちろんおいしいのだけど、ドリアンの匂いがとてもいいのに驚く。東京で食べるとどうして臭いのかな。 ひとまず食い物紹介はこのへんで。

内的にはオカルト、外的には科学的に解釈できる

飛行機の中で、ちょっと不思議な体験をした。できるだけオカルトにならないように、説明したいと思う。 僕が飛行機の揺れがとても苦手だということは、このブログでも何度も書いている。墜落への恐怖とかではなくて、ただ揺れることが恐怖を呼び起こして、心拍数が上がり汗をかいて、体が硬直して喉が乾き、居ても立ってもいられない解放されたくてたまらない気持ちになる。自分の捉え方としては、本能に近い(抗えないように感じる)部類の心理的状況に陥る、といったものだ。 今回のインドネシアへの旅程でもっとも憂鬱になるのは、インドネシア近辺の大気の状況が季節的に不安定であることと、赤道近辺に恒常的に気流の悪いところがあることだった。何度もこの仕事に参加することをキャンセルしようと思いながら、でも仕事としては貴重な体験でもあることを表の理由にして、直前まで飛行機の恐怖についてできるだけ考えないようにしてきた。と言いながら、時折突発的にネットで恐怖克服法のサイトを探してみたり、心療内科に本気で通おうと電話で相談してみたり、それなりに手を打とうともしてきた。 調べていく中で、これは「本能的恐怖」ではない、克服可能な心理的現象だと分かったし、実際自分の体験として怖さをある程度薄れさせる方法なども分かっていたので、どうにかなるものだとも思っていた。しかしいざ大きな恐怖の中に置かれると、理性の力でどうにかできるものでもなくて、ただパニックに耐えるばかりだった。 それで、結論から言うと、今回成田からジャカルタに向かう飛行機の中で、僕はこの恐怖を克服してしまったようなのだ。なぜか?というと、そこが難しい。難しいが、説明と解釈のためのポイントはいくつかある。 ひとつは、着陸まで残り3時間くらいある状況で、最後まで終わることのない不安定な気流に突入したことだ。どうにも逃げられない状況。もうひとつは、たまたま機内で見ていた映画、インセプションの影響。この映画は人口に膾炙するようなフォークロア的心理学が下敷きになっていて、簡単にいえば主人公が心の奥底に持っていたトラウマをSF的にクリアするというもの(娯楽映画として楽しめた)。三宅乱丈のPETに似たサイキックアクションでもある。逃げられない状況で、すがった藁がこの映画だったのかもしれない。トラウマはクリアできる、ということがほとんど抵抗がないまま素直に受け止められた気がし

パプア再び

3年ぶりのインドネシアパプア州でのお仕事。今回は複数スタッフでiPadをバリバリに使うので、機材の設定なども担当しながらの準備となった。wifi環境はおそらくなし。 無線LAN|GW-USMicro300|PLANEX を持って行って、ノートPCから有線でインターネット共有させて、wifi環境を作る。有線回線もさほどの速さは見込めないだろうが、つながることがありがたい。 外務省: 最近のインドネシア情勢と日・インドネシア関係 などを見れば分かるように、この地域は植民地後の国境線の引き直しで民族問題が吹き上がっている。多民族・多言語のパプアネイティヴの人たち、インドネシアからの入植者、利権を狙う華僑などがモザイクのピースとなりながら、若い世代では「民族」のアイデンティティが混淆・解体しつつもある。僕などは台湾の外省人と本省人、客家、原住民の混淆などと類比的に見てしまうのだが。 パプア州に弾圧を加え続けるインドネシアの、インドネシア語を使うことで成立するパプア共同体、私的領域にだけ押し込められた母語、というのは言葉を奪われたポスト植民地で日常的に見られる光景だ。もちろん我々も、日本語を除けば、英語かインドネシア語でコミュニケーションせざるを得ない。機材周りの設定も、現地ではインドネシア語依存。正書法もままならないパプア諸語には、文化的語彙の取り込みも十分ではないだろう。そんなわけで、パプアの人たちから我々はどう見えるだろう。 穿った見方をすれば、我々も文化的支配の片棒を担いでいるように見えるのだろうか。それともそうでない何かを伝えようとしている、と見えるのだろうか。