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ドラゴンボールに見る人種進化論笑

実家に戻って、子供とアニメのドラゴンボールを見ている。親子で同じアニメ体験を持つっってことは、この半世紀で初めての世代なのではないかと思う。とかいう話ではなくて、悟空がスーパーサイヤ人になったときに、ほとんどステレオタイプ化された欧米人になっていることを、誰か指摘しているだろうか。 スーパーサイヤ人の特徴といえば、髪が金色になって逆立つことのほかに、瞳が青色になる、肌の色が赤みを帯びた白になることなどが気づかれる。心なしか鼻の形もシャープになって先が尖っているようにも見える(この画像ではそうでもない?)。といってもこれは彩色されているアニメ版での話で、漫画原作のカラー原稿などのことは知らないし、アニメ版は回ごとの作画担当によって絵も微妙に違うだろうから、厳密にはそう言えない部分もあるだろう。しかしおおむねにおいて、金髪で碧眼で鼻が高いという特徴は、結果的にステレオタイプ化された欧米人=アングロサクソン系を表象してしまっていることは、まず疑いがないように思える。 スーパーサイヤ人が登場する、ドラゴンボール(Z)のナメック星編はwikipediaによれば、1989~1990の放映だそうで、ちょうどこの時期は「ナメック星編が佳境に入る頃には、『ドラゴンボール』の人気および経済効果は、国内のみならず世界的な規模に拡大していた」とのこと。となれば、世界に打って出る戦略として、ヒーロー性を担保するキャラクター作りを考えることは、あったのではないかと深読みの1つもしたくなる。 一般的に言って、アニメのような創作物のキャラクター作りには、現実世界の文化的序列などがステレオタイプ化された上で、刻印されるものだ。言語面におけるこのステレオタイプ化を指摘したのが、金水氏の「役割語」だった。そう考えてみると、スーパーサイヤ人に変身した悟空が突然「オラ」口調から「オレ」口調に変わるのも、戦略としてはよく分かる。本当に強くて格好良くて正義の裁定者たる主人公は、「お調子者で守銭奴」「力持ち」な関西人であってはならないし、「男気だけが妙に強い」九州人でも、「田舎者で素朴」な東北人であってもならず、首都圏の「洒脱さと権威」を表象する関東標準語話者でなければならない(このくだり、マジかよと自分でもツッコミを入れつつ)。ちなみに普段の悟空は素朴な田舎者設定であり、一人称「オラ」に分かるとおり東北弁に似た

オービタルとともに暁に死す…

そして気づくと狂ったようにorbitalをDLしまくっている。泣くよこれは!泣くから。ライブ行ってたら死んでたな。2004wireやばすぎ。これ車の中でかけさせてくれるかなあ。これなら体が死んでも魂だけで踊り続けられる…。というわけで来年も涅槃の向こうからみんなを見守ってるから…忘れないから…輪廻の輪が閉じる場所であなたを待ってる… 久しぶりに頭がおかしくなっています。わーい。 誰か代わりに仕事やってください。2008年、オービタルとともに暁に死す…

コンプーター&戸川純&ストロングマシン2号

山形から実家に帰る道々、子どもに聞かせるCDを作っているうちに、いつの間にか自分たちの懐かしソング集へと変貌を遂げつつある夜中の作業。今年は下道で行くので、分量を多めに作っていたことが転じてのていたらく。やっぱりNHKみんなのうたは外せないよねー、とメトロポリタンミュージアムとか恋するニワトリとかコンピューターおばあちゃんとか、YouTubeからガンガンDLする。iTunes経由でCDに焼こうという算段なのだった。久しぶりに出会う名曲のさなかに、polysicsがコンピューターおばあちゃんをカバーしている!これはいいなあ。 敬意を表してi my me mine. そして知らなかったことも。 ラジャ・マハラジャーが戸川純だということを知って驚愕。聞いてみれば確かにこれ戸川純の声だ。 そして興奮冷めやらぬまま、ストロングマシーン2号。ロボットダンス、ロボット時代の幕開けです。 めちゃめちゃかっこいい。そして僕は全然仕事が終わってませんよ…(現実逃避)。

入管法は他の法律のとの間に優劣関係はない

「 「不法滞在外国人」ってどんな人? 」( 法学館憲法研究所 )。 極私的脳戸/日々の与太 経由。いつも本当に勉強になるリンクが掲げられている。勉強させてもらってますほんと。 以下の記述は自分のためにメモ。入管法は他の法律のとの間に優劣関係はないということ、在留資格と人権をリンクさせてはならない根拠の一つとして。もちろんこんな根拠がなくとも、通じて欲しいことではある。 いまの社会には、外国人にとって在留資格は日本における全ての権利の淵源であり、在留資格を持たない不法滞在外国人には一切の人権が認められないかのような空気があります。しかし不法滞在とは法的には単に「在留資格がない」ということにすぎず、それ以上の意味はありません。在留資格を規定している入管法は、もちろん憲法の下位にありますから、外国人に対する人権保障は在留資格の有無によっては差別されないのが原則です。また、入管法は運転免許について規定する道路交通法や、生活保護法、国民健康保険法、その他多くの法律との間に一切の優劣の関係はありません。ですから、在留資格が法律上の要件となっている場合を除いて、「在留資格がないから権利が認められない。」という言い方は明らかに誤っているのです。 それに、リンク先の写真、笑顔がホントに良くて。

言葉を使う話者のありかた

山形の農村に500年以上続いた伝統芸能である黒川能を見に来ているわけだが、2年前に見たときと比べて、若い世代に言葉の変化があり、「伝承」の構築性を考えさせられる。黒川能の特徴は農村コミュニティーの生活の中で伝承されてきたことにあり、言語的には京都から伝えられたとされるにも関わらず、子音の有声化やいわゆる濁音直前のわたりの鼻音、母音iの中舌化などバリバリに山形庄内地域方言で演じられる。僕は流派に関わる演目や演式の違いや素人故の巧拙よりも、言語的な特徴こそが黒川能の「異色」さを特徴づけていると思うのだが、その言語的な特徴はそもそも「いつのもの」で「いつまでのもの」かということを考えると、「伝承」の構築性と無関係ではいられないと思うのだ。 というのも、今回の上演で舞台に立った若い演じ手には、黒川の高年層が持っている方言的特徴を失っている者が混ざっていたからだ。鶴岡市黒川は言語的には庄内地方に属しており、鶴岡市といえば国語研究所や井上史雄氏による中長期の調査がある。それらによればこの土地でも、他の地方と同様に従来の方言的特徴が失われつつあるという結果が示されている。我々は見えている変化にだけ目がいきがちだが、高年層の言語的特徴も何らかの言語的変遷を経たものであると考えるのが自然だろう。だとすれば、黒川能の持つ「異色」さも変化の結果と考えなければならない。 話は少し変わるが、山形は自称「民話の宝庫」で、それを観光資源としているところもいくつかある。そのような場で語られる民話はいかにもな方言であることが望ましく、標準語であることは望ましくない。したがっていかにもな方言的言い回しで書かれているテキストを暗記して、それが上手に語られるかといったことが目指されることもあるようだ。あるフィールドワーカーが採取した民話の文字化資料を音声資料と対照させたところ、音声資料では標準語的な言い回しになっているところを文字化資料ではいかにもな方言的言い回しに変更している、といったこともあった。民衆に受け継がれた「伝承」には、構築性がともなうというよくある話。 黒川能の「異色さ」は重要無形民俗文化財として伝承がすでにある意味で義務づけられているわけで、とすると言語的な特徴も義務の対象範囲に入ってくるのではないか。その場合の言語的特徴は、現在の高年層が継承しているものになるはずだ。そしてそれが500年

怒りのハードルが下がっているのであって。

不法入国:在留許可求め嘆願書 比人中学生と両親が法相に - 毎日jp(毎日新聞) という事件なのであって、まあ時々目にする話ではある。さあ俺はもう怒り心頭である。  日本で生まれ育ち、日本語しか話せないフィリピン人の中学1年生、カルデロン・ノリコさん(13)=埼玉県蕨市=と両親への退去強制命令を取り消してもらおうと、ノリコさん一家が20日、在留特別許可を求める嘆願書を森英介法相あてに提出した。  ノリコさんの父アランさん(36)と母サラさん(38)は92~93年、他人名義の旅券で入国。95年にノリコさんが生まれた。06年にサラさんが入管法違反で逮捕され有罪となり、一家に退去強制命令が出た。取り消し訴訟も敗訴し、今月27日に退去の期限が迫っている。  ノリコさんは「友達とダンススクールを開くのが将来の夢。生まれ育った日本が大好き。フィリピンでの暮らしは想像できない」と訴えた。  入国してくる(して来ざるを得ない)事情は色々あるわけで、その辺の事情を言い出したらきりがないのは分かるけれど、mixiとか見ると「法律を犯したお前の両親が悪い。帰れ」みたいな意見にホントマジ死ぬほどうんざりする。何で法律に自己同一化して上から目線で語るかな。法律を守っているお前は全く偉くない。お前はたまたま法律を守っている結果で生き延びているだけだ。「自分勝手な欲望を持つ無軌道な人間に対する処罰」として当然だと思うんなら、んなもんメディアと世間の欲望にふくらまされている自我を、疑いもなく現状を生きている恥ずかしさを、他者への想像力を欠いて生き延びていることを、もう少し考えろ。そいからあれだ、法律があって人があるんじゃなくて、人があって法律があるんだろうが。構築してんだよアホが。神の視点みたいに語ってんじゃねーよボケ。

マコちゃんのリップクリーム

尾玉なみえ『マコちゃんのリップクリーム(1)(2)』(→ amazon )が、水村早苗『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(→ amazon )とともに届いた。水村氏のはさっさと読みたかったのに、色んな仕事のピークにさしかかって読みにくくなったじゃんかよー。アマゾンおせーよー、と軽くグチをかましつつ、尾玉なみえのこれ傑作だと思った。絵柄の下手キュート度合いとネームのマニアック度合いが絶妙のブレンド具合ですなわち具合よしのお手つき御免なわけです。尾玉氏得意の不謹慎笑いは相変わらず健在で、ゆえに子どもに見せず大人だけでこっそり楽しむマンガ殿堂入り確定なのに、別に書かれていることは小学生社会で日常的に起こっている子供同士のしょうもないやりとりに過ぎないわけで、僕に脳内規制される筋合いはこの際一切ないと言っておきたい。断じて。まれにおませなあれもあるけれど。 打ち切られ続けた負け犬マンガ家がようやくつかみ取った、ダメ世界のダメ女王的殿堂ポジションを失わせないよう、講談社にはぜひがんばっていただきたいなあと切に思う次第であります。つか集英社と切れていたんですかね。知りませんでした。 ところで僕はここに使われているような、関西弁の使われ方が非常に好きです。僕が苦手なのは本気で関西弁で人情かましているときです。あの本質主義的な、本当の人情はこの関西弁でしか語れないみたいな筋の通ったところが苦手なのです。と書きつつ、山形弁でもそれをやられたら嫌だ。つまりあれだ、方言で語る特権的な語り方に嫉妬しているだけなのです。だからネタとして語る方言は大好きだよ。アザゼルさんに使われてる関西弁も好きだよ、ネタだから。 というわけで、よーし、水村本を読む気持ちの土台は整ったぞー。

純粋な反復行動

山形も明日には雪が降るとの天気予報で、タイヤを冬用に変えてないやとか、家族に冬用の靴を買ってないやとか、子どもを雪山遊びに連れて行きたいなとか、諸々考えているうちに、気づけば0才の娘が掴まらずに立っていた!ワオ!気づけば5才の息子が僕に手紙をくれた!マジ! 家庭内で起こっているこの大躍進に今更気づけば、土日も仕事で家族サービスがない現状を妻に揶揄されて母子家庭であると。全然気づかなかった~。スマヌ。片仮名で書くあたり、気持ち半分という感じでもあるが。立って、座るというその行為がただ楽しくて繰り返す娘。書けるようになった文字が楽しくて画用紙に自分で考えたお話を書きまくる息子。ある種の衝動に駆られた反復行動、いいなあ。原初の営為。ロマンチシズムですかそうですか。いいじゃないですか。

うぉー!

今年の夏頃に買って、ほらやっぱり時間も気力もなくてすっかり鞄の中にしまいっぱなしの、DS-10。強力な同僚が笑っちゃうぐらいにはまっていて、定期的に聞かせてくれる90年代臭のただよう良曲に研究室をダンスフロアにしちゃろうかと思うくらい。ほんでなんかもう KORG DS-10公式イベント「KORG DS-10 EXPO 2008 in TOKYO」開催決定! | KORG DS-10 | AQ INTERACTIVE 、こんなところに呼ばれてプレイしてんだから尊敬した。あなた仕事と研究の合間に何やってるんですか…。コジャレのかけらもない同僚がガチでフロアを湧かせています。心からかっけーと思うよマジで。つくづく思うんだけど、うちの同僚たちってホントおもろいよ。同僚ネタで日記を書いたらそれだけで読み物として成立しそうです。 当日のプレイリストを見ると、プロアマ入り乱れての( KORG DS-10 Blog » [DS-10 EXPO] Performers List / ご出演者情報 )催しだったみたい。で、同僚からもらった当日のライブCDをぐわんぐわん聞いているわけですが、DSだからできる新しい音というのがあるのかはさておき、これでここまでできるのかと感動する。エフェクターかけてるのもあるみたいだけど。ヘビロテになってんのは、三人目の出演者の曲。うぉー。言葉にならない魂の叫びです。踊らせれ。うぉー! youtubeで動画見つけた。でも音が割れまくっていてひどいー。

韓国のブーちゃんノート その2

niji wo mita: 韓国のブーちゃんノート で触れたブーちゃんいのは「노ー트(ノート)」の表記について、韓国語に詳しい同僚に色々調べていただいたところ、いわゆる日帝時代のちょっとした遺産であることが分かった。 朝鮮語学小辞典 - 諺文綴字法 によれば、1930年に定められた朝鮮総督府のハングル正書法(諺文綴字法,リンク先では「テイジホウ」とあるが「テツジホウ」では?)に、日本語経由の欧米外来語の表記について記述がある。 3.6. 日本語表記規定 「ス,ツ」を「스,쓰」と表記する点は韓国の現行の日本語表記法と軌を一にしている。その一方で,濁音の表記に「ᅁ(ガ行),ᅅ(ザ行),ᅂ(ダ行),ᅄ(バ行)」といった特殊な表記法を用いたり,長母音の表記に日本語の表記と同様に音引き「ー」を用いたりした。 (上記「諺文綴字法」による) 朝鮮半島に残存する日帝時代の日本語にどのようなものがあるのか全く知らないが、少なくとも「ノート」のような、朝鮮語のリズム体系でうまく受け止められない単語は、どのように表記するか困ったにちがいない(ただし韓国語素人の僕には、ソウル方言老年層に残存するという母音の長短の区別が、引音の「ー」をどうして受け止めなかったのかについては疑問に感じられる)。もしかすると、ハングル正書法が繰り返し改訂される中で、朝鮮語の音韻体系からするとかなり例外的なこの音を、ハングルの記号体系で受け止める工夫を考えるよりも借り物の記号で臨時的に処理した方が楽だと考えることもあったのかもしれない。 と、勝手な妄想を楽しげに開陳してしまうのも言語研究者のサガであるとお許しいただくとして(誰にだよ)、1945年以降の解放後もこの表記が残るのが興味深い。これまた同僚に教えていただいた 공책역사 추억속으로..... (エキサイト翻訳:ノート歴史思い出の中に)によれば、中程にある、赤いノート(エキサイト翻訳によればアリランノート)でも「노ー트(ノート)」という表記が見られる。1950-60年代のものとある。さらに下の方まで見ていくと、日本のロボットアニメ、キャシャーンなどがあしらわれた1970年代のノートが出てくるが、ここにも「노ー트(ノート)」が見られる。以降のものからは、少なくともここに挙がっているノート、及び僕の眼力では件の表記は見あたらない。 同僚および韓国からの留学生にた

不思議な円環

いまさらだが新居の無線LANの接続状態が非常に悪い。つながったり切れたりの繰り返しで、ネットを使った作業が自宅では全然できなくてほとほと困っていた。…ところに本日、ルータから無線親機のWANに有線一本、さらになぜか無線親機のLANポートからルータに有線が文字通り再帰的にささっているのを発見。円環してんじゃん! いやあ驚いた。何が驚いたってこんなめちゃくちゃにつないでたのにネットにつながる瞬間があったということである。こういうのって、機械はひとつひとつの繋がりは1か0かで融通が効かないデジタルな印象があるのに、複合すると素人には分からない経路でアナログ化してしまって、狐につままれた感じ。 なんか機械が心を持つ、使い古されたテーマのSFを思い出してしまった。

韓国のブーちゃんノート

韓国で手に入れたちょっと変わったもの。仁寺洞(インサドン)の屋台で売られている、というか売り物かどうかも判別しがたいボロ雑誌の山から掘り出したノート。知り合いの韓国の方何人かに聞いてみたところ、60年代後半ごろの小学校のノートではないかとのことだったが、定かではない。 「산수(算数)」のノートで、中を開くとわら半紙に似た材質に一面6区画の罫線が引いてある。左上には「꿀꿀이(ブーちゃん)노ー트(ノート)」とあり(ブーちゃんは意訳)、おそらく製品名なのだろう。右下のロゴにも「ブーちゃんノート」と書いてある。 面白いのは「노ー트(ノート)」という表記。韓国語(あるいは現代ソウル方言とすべきか)は母音の長短を区別しない音節言語である。したがって英語などの外来語を取り込む際に、ouなどの二重母音は短母音で引き受けるのがふつうである。日本語では2拍分に伸ばして「ノー」と長音で引き受ける。現代ソウル方言の一般的な表記・発音では「노트(ノト)」となり、これが日本語教育の壁となったりするわけである。ところがこの表記は、まるで日本語式である。そもそも引音の「ー」は韓国語の表記にはないはずである。日本語の表記を何らかの経緯で用いたとしか考えられない。どなたかこのあたりの事情に詳しい方に教えてもらいたいところ。 裏表紙はマンガのキャラクターを使った、紙の模型?があしらわれている。上部左の野球ピッチャーは星飛雄馬?真ん中は70年代の子供向け少女漫画に見える。仮にこのノートが60年代後半のものだとすれば、1998年からの文化開放政策以前の、日本からの文化流入と考えることができるだろうか。 韓国からの留学生に見てもらったところ、裏表紙の解説のなかには、古めかしい韓国語が使われているらしい。

ラブ盛岡

岩手への学会出張。韓国でのおいしくて辛いもの体験を引きずって、カプサイシン的なものを求めていたら、陳麻婆のお店を発見。と思ったら、ここは陳建一麻婆豆腐店(→ 横浜ランドマークタワー|店舗詳細 )でもなく、陳麻婆豆腐(→ 陳麻婆豆腐 )でもなかった…。陳麻家(→ 旨辛至福研究飯店 陳麻家 )という、大衆向けの麻婆豆腐をチェーン系学生飲み屋レベルでさらに大衆化せんとする麻婆世界のワタミとでも。花椒さえ入っていれば本格麻婆なのかよと一人盛岡の夜を噛みしめたのだった。ぶっちゃけおいしくないです。盛岡よ、目覚めよ! ただし翌日の盛岡冷麺はおいしかった。盛岡目覚めた。行ったお店のぴょんぴょん舎(→ ぴょんぴょん舎 だけがそうなのか、北朝鮮系のやけに歯ごたえの強いやつ。盛岡冷麺は初めて食べたんだけど、半島文化をイーハトーブに乗せて、地域型エスニックビジネスとしても面白い融合を果たしていた。盛岡出身のヤツに「おいしかった~」とメールを送ったら「その店は下の中。全然おいしさを分かってない」とお叱りの返事が。これでブロンズ級か!庶民の麻婆の大衆化を嘆いている場合ではなかった。いつかハーデスに会わせていただけることを約束し、快く盛岡を後にしたのだった。ラブ盛岡。

韓国2日目

仕事で韓国に来ていて2日目。初めての韓国に興奮しまくるかと思ったけど、宿泊しているところが日本からの観光客に特化しているだとか、通訳の方付きだとか、街に出れば日本語サポートがしっかりしているだとかで、妙に日常感覚を引きずりながらの体験となって。 夕方、仕事がはけてご飯を食べてから観光客向けじゃない大衆サウナみたいなところ(チンジルバン)で、風呂→サウナ→オンドルの床でごろごろ→ゆで卵を食べる→風呂を繰り返す。一応やっとかなのアカスリは、うん、気持ちいい。 けどこの乗らなさは、やっぱり、韓国語勉強してないからだなー。基礎語彙くらい覚えておくんだった。その土地の言語でコミュニケーション取れないと面白くないなー。ダメだなー。異国がこれだけ乗らない初めての体験に、自業自得の大反省。 そして明日は、歴史問題を振られたらどう受け答えるか、考えておかないとだなー。

甲骨文字よりも早い時期の文字が発見?

「甲骨文字よりも早い時期の文字が発見」ということで各紙が報じているが、それらしき写真を掲載している情報元( 甲骨文字よりも早い時期の文字が発見_China.org.cn )をクリップ。あわせて画像確保のためのウェブ魚拓。 http://japanese.china.org.cn/culture/2008-10/24/content_16660985.htmの魚拓 。 中国の考古学専門家による最近の研究で、山東省昌楽県で出土した獣の甲骨に刻まれた600余りの符号には、その構成や分布に一定の法則があり、4500年前の早期の文字だということが分かった。 この写真がその「文字」であれば、「構成や分布に一定の法則」の解明が楽しみなところ。文字解読の話は、暗号を解読するかのごときスリルがあるよねえ。文字解読というと、どうしてもオカルトや古代超科学的な胡散臭さが想起されがちだけど、純粋に科学的な方法論による試行錯誤の積み重ねだから。というわけで、何度か紹介したこともある Amazon.co.jp: 線文字Bの解読 (みすずライブラリー): J. チャドウィック, John Chadwick, 大城 功: 本 、 Amazon.co.jp: 西夏文字―その解読のプロセス (精選復刻紀伊国屋新書): 西田 竜雄: 本 、興味がおありの方に。

chori-ssu!!

色々自業自得的にへこむことが多い日々であるが、今日なんかは日曜日に河原でブヨにさされたのがこじれて、足がエレファント化した上に歩くと超痛い。刺されたところは水疱を経由して、穴から黄色い液体がドロドロ出てるし、そのグロさ一見の価値なしのメジャー級。一ゾンビファンとして ゾンビピンナップカレンダー (グロ注意)の購入を一瞬検討した僕が、自分の足を正視するのにそれなりの勢いが必要なくらいである。おえー。 35歳にもなると自業自得でなくとも、ある種の世界のわびさびの切なさに、さしたる理由もなくへこむことも多いわけだが、今日ようやくとどいた渋谷語制作委員会編『渋谷語事☆典2008』(→ amazon )を読んで、海とか見たくなった。帯に「チョリ~ッス!!この本マジやばいっす!!」とある。海に沈む夕日が見たい。僕は学生が興味を持ってくれそうな言語資料として使えないかと思って、購入したのだった。それがこんなに切ない気持ちをもたらすとは思わなかった。挿絵が桃吐マキル画伯である。それだけが救いである。 もう帰って良いですか。

水村美苗「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」

水村美苗「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」(新潮2008年9月号)を読んだ。今秋刊行される7章にわたる第3章のみということだが、これで280枚あるというシロモノで十分読み応えがあった。 2008-10-18 - 東京永久観光 で掲載を知って、図書館ですぐに借りた。 * * * * * この小編は3つのパートに分かれる。第1パートがアイオワで世界中の小説家が集められ様々な言語で小説を書くという現場の体験談。多言語による小説生成の現場体験(多言語体験とは違う)がテーマ。第2パートがフランスで行われたシンポジウムでの講演を主軸した語り。二言語使用が強い言語/弱い言語といった非対称の営みであって、例えば弱い言語の使い手であるたとえば日本語話者である「われわれ」は、強い:フランス語/弱い:日本語のような構図にほとんど強制的に気づかされるという。でもグローバル社会たる今では強い:英語/弱い:フランス語という構図になりつつあるわけで、ようこそフランスわたしたち日本語は先輩ですよてなユーモアを交える。このパートではイディシュ語の使い手である聴衆から「日本文学のような主要な文学」と指摘されある種の保守回帰に傾きつつ次パートへ。第3パートは特に話が多岐にわたってまとめようもないのだけど、私に理解すれば、 「そのような非対称な世界は近代以前から山ほど存在していた。かつてのヨーロッパ社会では強い言語はラテン語でありあるいはフランス語であり、そうした言語は往々にして特に一部の知識層の手によって、とりわけ芸術・学問の領域において書き言葉として地域を超えて流通した(外から来て社会上部に流通する言語=〈普遍語〉)。一方現地で用いられる近代以前の母語=〈現地語〉はそのような意味での書き言葉にはなり得なかったけれども、国民国家形成と相互依存しながら強い言語の立ち位置を獲得していった。」 ということで、いわゆる「近代国語の成立」解説自体については僕が改めて記すまでもないことである。国語で内面も描けるし、芸術や学問で切ったはったができるし、国語に出世した〈現地語〉(の人工的な寄せ集め)はかつて〈普遍語〉から一方的に翻訳されるしかなかったところを〈普遍語〉たる英語に翻訳されて川端なんかはノーベル賞取れて良かったねという時代に突入するわけだ。が、筆者が言おうとしているのは、英語が出現したことによって、そ

マンガ3題

上京二日目は図書館で調べたいだけ調べものをして、コピーするだけして、これで満足してはいかんと思いながら、買いたいだけマンガを買い込んで新幹線に。 評判の中村光『聖☆おにいさん』1、2(→ amazon )一気読み。うん、確かに笑えるんだけど、なんだろうこのモヤモヤした薄暗い感じは…。仏陀とイエスのさりげないエピソードの盛り込み方にいやらしさを感じるのだろうかと思ったけど、そうでもないな。テレビっぽい「ほらあなた目線のお笑い感覚ですよ」というおもねりと感じられてしまうところがいけ好かないのだと思った。『荒川アンダー・ザ・ブリッジ』も最初笑えたのに2巻読んだ時点で食べ飽きてしまったので、たぶん僕にとってはそういうことなんだろうと思う。と中村光について講釈垂れる偉そうなオマエはいったい誰なんだと。 吉田秋生『海街diary2 真昼の月』(→ amazon )はすごく良かった。鎌倉に住まう3姉妹と、父の妾腹で山形からやって来た末っ子中学生の共同生活を軸にした家族模様の、ぎくしゃくとしながらも温かい心のふれあいを描く連作。最新刊では家を出て再婚した母を長女が「母」ではなくて「娘」としても理解する話が、表題作となっている。なんというか、僕は結構ガチガチの長男属性でしかも当然オトコなので、今ひとつ「気が回らない」レベルで理解できていないのだけど、でもたぶんだからすごく良いなと思うのだと思う。よしながふみの作品みたいな、「分かりやすいジェンダー話」じゃないところが、よしながふみはそれはそれで大好きだけど、吉田秋生っていいなあと思うのだ。マンガに限らず、「あるある」「分かる分かる」という喜びとは別に、自分に「ないない」「分からない分からない」が分かる喜びってある。 マンガ話で調子に乗ってもう一つ行くと、ここんとこ実家帰るたびパタリロ読んじゃうんだよね。大学生の時、ジョジョと平行してがんばってパタリロ集めていたことがあって。いま80何巻くらい?分かんないけど、10巻前後を読み返してみるとネタがすごい切れ味。今は今で熟練の噺家みたいな妙味があって好きだけど、ギャグがちゃんと笑えるのには驚いた。80年代の前半くらい。笑う僕がおかしいんだろうか。妹と仕事の愚痴り合戦やらないで、パタリロの話をすべきであったと気づく僕であった。

そんなの日本全国あるでしょうよ

というわけで堕天使の力により、偶然のタイミングで後輩と新宿飲み。なんかこう普段まず入らないだろうなというコジャレ系ダイニングバーに入ったら、メニュー見ながら山形ではこういうのないでしょう、だからこれにしませんかなどと上州の分際で上から目線でさんざん気にかけてくださるので、ありがとう、そうそうそのメニューはプロシュート地方に住むイタリア人のパルマ婦人が丹誠込めて育てたブタを生きながらにしてハムにした恐ろしい食べ物なのだよ、だから山形にはそんな残虐な食べ物はねえ!と返す刀で袈裟切りにしてやりましたれば賊うち転びて息絶えにけり。ははは仕留めたぞついに。しかるにキミはバカだ。大バカだ。楽しかったからまた飲みに行こう。また袈裟切りにするから。

ブラウザ経由で書類を送る

東京で師匠と共同研究の打ち合わせ。ブラウザ経由で書類を送信、って昨年もこんなだったっけ(昨年は功夫が足りなくて落ちた涙)。お役所指定の訳のワカランword文書がブラウザ経由でPDF変換されて作業完了~って、昨年もこうだった??一昨年だかにlatexの書式もできて訳もなくうれしい限りなのだけど、共同研究となるとやっぱりwordですよね…。研究もtexベースでやっている身としては、jis外漢字を中心として困ることが多いです。とはいえ、この手の企画書の予算に組み込まれることの多いパソコンを、たぶん師匠がらみの仕事としては初めて申請しなかったことは、別にハイパワーで新しいOS乗っけたPCがなくたって、仕事できるもんねという宣言のようで、それもまた気持ちがいいのでした。 それにしても、今年は書類を書いていて、この年でようやく少しだけ書き方のツボが見えたかも…と直観する瞬間が(通ってから言えよって話も。そしておせえよという話も)。

ガキ帝国

井筒の『ガキ帝国』見たよ。映画ってマンガと違って長い。『闇の子ども達』を読むよりも長く感じた…。慣れないこととは言え、己の根性のなさを笑いつつも、作品としても民俗学的にも面白かった。 ダイグロシアを説明するための映像例ということで、同僚に紹介していただいたわけだが、ダイグロシアでこの作品というのは、なんというかエロマンガを紹介するために丸尾末広を取り上げるがごとき不適切さというか、逆に意にも介せず是非これで説明したくなる不謹慎さというか(笑)。ただ、在日朝鮮人の言語にフォーカスをあてる以前に、ここに出てくる関西方言の8割くらいも理解できたかどうか。現代の非関西圏の人間がこれを見て、いったいどれくらい分かるのだろうか疑問に思う。 そういえば、山形の女子高生を漫画ゴラク読者に特化した形の「リアル山形弁話者」として描いた珍作『め~どイン山形』(→ amazon )も、最初読んだ時はものすごく時間がかかったし、内容も消化不足なところがたくさんあった。描かれた時代は、『ガキ帝国』で描かれた大阪よりもずいぶん新しいのだけど…。山形に約3年住んでみて、先日久しぶりに紐解いてみたらほとんど分かるようになっていて驚いた。留学生がある日突然言葉が分かるようになっていた、という感覚がものすごい希釈度で理解できたというか。 東京にいると、方言はもう日本にないだとか、メディアでの描かれ方もあってじいさんばあさんしか話さないようなイメージあるけど、若い人でもバリバリ関東の人には分からないような言葉をしゃべるよね。「日本語」ってそういうことじゃないじゃん。それは山形に来て良かったと思うこと。

物理学賞受賞は2人か3人か

新聞各社が「ノーベル物理学賞日本人3人」とするけれど、南部陽一郎氏は現在米国籍を取得されているので(→ 南部陽一郎 - Wikipedia )、アメリカ人扱いになるのがフツウの感覚?だろうと思っていたら、 J-CASTニュース : 「ノーベル物理学賞日本人3人が独占」 欧米では「米国人1人、日本人2人」 とのこと。 確かに、日本人という定義はあいまいだ。日本の国籍ありなしは関係ないというのが日本の新聞社の考え。外国に帰化しても日本人。つまり「民族」に重きを置いているのだろう。ただ、国際社会では国籍で判断するようだ。帰化した時点で、南部氏も日系の米国人と呼ぶのが正しいことになる。 日本社会におけるこの手の齟齬は、ちょうど、母国語と母語の関係に似ている。単一民族発言しかり、母国語と母語の区別は相当あいまいだと思う。概念上の違いをきっちりと用語で区別するなら、国籍を基準とすれば「~国人」、「民族」を基準とすれば「~人」とすれば少なくともこの文脈(日本の通俗的な理解の文脈)で誤解が生じることはないだろう。もちろん、「民族」を固定的に「~人」の基準にするわけにはいかないので(母語が民族のことばと定義しにくいことがあるように)、厳密には日本国出身者とでも、と思うが日本は出生地主義じゃないので(→ 血統主義と生地主義 )、スッとは理解されにくいかもしれない。 日本国籍を有さない、いわゆる特別永住者が偉業をなせば日本在住なんだから日本人でしょ、みたいなこれまた通俗的暴論もまかりとおるのがフツウのことだろうから、この場合もフツウに空気読んで「やったー日本人が3人、独占だー」と喜ぶのが奥ゆかしき日本人の作法なのでしょうね。

頭痛ラマダン終了

約1ヶ月ぶりに偏頭痛あり。昨晩ほとんど寝ていないので、危ないなあと思って予防薬のミグシス飲んだのにも関わらずだ。しかも前兆が起こった段階で、イミグラン1錠投入したにも関わらず、結構ひどいところまで行った。8月に最後に起こった偏頭痛も同じで、初のイミグラン2錠投入が全然効かなかった。なんだか状況が変わっているような予感。 そういえば9月は一度も偏頭痛が来なかった。これは昨年に頻発するようになって以来初めての快挙であって、その喜びの望外ぶりたるや、つっても偏頭痛のないひとには分からないよね、この喜びは…。研究会発表だの引越だの仕事の準備だのをミグシス飲みながらにしても、「よくやった俺」と俺をほめたおす俺会議が行われたわけです。 それはともかく、ちょうど昨晩、mixiで [mixi] 偏頭痛持ちの人 | ただいま偏頭痛中 という泣けるトピックをひた読んでいたところだった。それ読む閑あったら寝ろよというツッコミ上等。例によってmixiは脊髄反射に記事をとどめるのが流儀なのであって、コメントも「痛い痛い」「キツイ」「寝れない」といったものばかりなのだが、なんというかこの制度以前の魂の声がですね、泣けるわけである。だって偏頭痛勃発中に脊髄反射以外の言葉なんて出てこないし。声の文化復権ですよ。mixiと偏頭痛のマリアージュ。で、泣けた翌日にブレイク・頭痛お休み期間という皮肉。

地球温暖化を過不足なく理解する

地球温暖化を過不足なく理解する (via 極私的脳戸/日々の与太 )、だって。この「過不足なく」っていいなあと思った。 地球温暖化に関わるテキストを共同の仕事に用いたことがあったので、興味深く読んだわけである。面白いのは、温暖化懐疑論が、温暖化言説がある種の政策の根拠とされていることに対するカウンターとして立ち上がっている云々というところだった(→ 温暖化をめぐるさまざまな議論へのコメント(その1) )。確かに温暖化言説を、この記事が示すように、原子力発電推進の根拠にするものを読んだことはある。これに対抗して「石油・石炭資本がスポンサーになって」温暖化懐疑論を喧伝するのはよく分かる話。このような、ゴールが科学的議論と別なところにあるケースはただただ不毛だなあと思う。飲み屋レベルで聞かれる温暖化懐疑論も、「みんなが知らない真実を知ってる俺すげー」的ゴールがあらかじめ用意されているので不毛と言えば不毛、いやそれを分かって話につきあうのが粋ってことでしょうか。飲み屋話は過不足あるのが面白いんじゃんね。 このテキストは、科学的な根拠というものが、どのような「議論と手続きの歴史」に成り立っているか簡略に知ることができるという点で何かに使えるかなー。仮説と評価の繰り返しが相対的であろうとする立場を担保しているわけで、「必ずしも科学が正しいわけではない」という昨今のよくある言説がいかに的を外しているかがこのテキストからもよく分かる、というわけでクリップ。

「ヤッベ」論争

職場の企画として応募していた文部科学省GPが通った。関連してか、朝日新聞の特集にも取り上げられていて、小さな社会では枯れ木も山のかも、とは思いつつ、でもやれることが広がるのはうれしい。 さて、そのプロジェクトには、「みんなでやろう」という意味の言葉が含まれている。山形の地域と連携しようという意味合いなので、山形の言葉を用いるのがいかにもそれっぽかろうと考えたわけだが、はて何と言うのだろうという疑問が持ち上がった。「やろう」だから「やんべ」「やっぺ」「やっべ」あたりが候補として考えられた。企画メンバーに(というかうちの学科に)山形ネイティブがいないのでどうにも判定ができない。職員のネイティブの方にどれが自然?と尋ねても、どれも使いうる?といった曖昧な答えで、迷走するうちに日本語学専門としてはどうなのよ、とお鉢が回ってきた。 概説レベルの日本語学が教えるところでは、促音の後に濁音は来ないのがいわゆる語音配列則。したがって「やっべ」はないだろうと考えた。東北方言については手元にあるいくつかの文献を見てみても、この手の記述が見つからない。東北地方で促音の後に濁音あり、という地域固有の語音配列則でもあるのかなあと思いつつも、古典的名著である小林好日『東北の方言』(1944,三省堂)にもやはり促音の後に濁音なしとの記述が随所にある。 加行変格左行変格にもべとぺとの二種があり、分布は一段活用の場合とほゞ一致して居り、福島県では北会津・耶麻・河沼・若松市がクンベ、スンベと云ふのを除いて、クッペ、スッペ、宮城県では左変にはスンベと云ふこともあるが一般にはスッペで、加変はクッペ、その他は山形でクンベ、スンベ、岩手でに(ママ)クベ、クルベ、クンベ、スルベ、スンベ、シベ、シンベ、青森県ではクルベァ、クルベシ、シベァ、シベシ、(下略) 同書,p.168 えー。小林先生、ってことは「ヤンベ」ですかぁ?でも、地元的には「ヤンベ」は一番少ない回答だったような…。結論から言うと、企画書ではこのあたりのことに決定打がないまま、まあ大事なのはそこじゃないし、ということで「ヤッペ」に決着している。「ヤッベ」は語音配列則的にないだろうし、「ヤンベ」はあまり耳にしないし。何より「ヤッベ」は伝統的には語音配列則の違反例でありつつも、首都圏での若者言葉としてヤバイの意味で使われている。その連想はまずかろうという判

テレビとサポーターと痛々しさと

世間は地デジがどうのということで、2年後までにテレビ買い換えがどうのと言うことですが…。当方、テレビがない生活なので今のところ全然関係ありません。そもそも我々夫婦は独身一人暮らし時代、テレビ持たずカップルとして杉並区で広く「あいつらは食い物以外世の中のことには興味がない」と知られておりました。というと決してそういうことでもなく、食い物以外についても、夫となる予定の男は、日がなマンガを読んでは合間に仕事をする、妻となる予定の女は「スローライフって、深呼吸したり毛穴掃除したりする生活のことかな」と遙か俗人を遠く置き去りにした生活を送っていたわけです。そうそう、今で言うロハスを100年前はスローライフって言ってたよ。 結婚して、911テロが起こった時、映像すげえすげえよ映像とかみんな言うもんだから実家から押し入れに眠ってたテレビを一台もらって、見てみたらやっぱり映像ってパワフルだよねえ、けど映像は映像だよねってことで。別にやっぱりテレビなくてもいいじゃん、という夫婦の美しい結論だったのに子供いると仮面ライダーとかなんとかレンジャーとか、子供にも社会あるしね。 などと数年間過ごして、このたびの引越でまたテレビ別にいらないでしょ、というので前の家に置き去りにしてきた。なきゃないで、ネットあるし新聞あるし、子供はお絵かきしてるし近所の子と遊んでるし。全然平気だけど、どうなんだろう、やっぱりドリフとかひょうきん族とか見てないと子供野生のシビアな掟により生存不能なわけだろうか。 ただ、最近、オクサマと子供のサッカーサポーターごっこが見てて痛ましいのはどうにかすべきかもしれない。浦和っ子の妻が「ウラーワレッズ、ウラーワレッズ」と別にサッカーのことなんてどうでもいいくせに浦和ナショナリズムに基づいた1人斉唱をかますと、呼応するかのように子供が「モンテーディーオー、モンテディーオー」(サッカーと山形に興味のない1億人マイナス山形の人口の人たちに豆知識!モンテディオとは山形が抱える超カッコイイ全方位型ミサイルのことだよ!)などと踊り出す。あれだ、同僚が子供にくれたモンテの旗が良くない。すごく良くない。あれを振り回して「モンテディーオー」とかやって、旗の柄が下の子の目に入ったらどうすんだよ!モンスターペアレントばりに苦情ですよ、モンテ事務所に。俺だけそのサポーターごっこに参加できないのはなお

虫酸ちゃん

え!福耳ノアルの短編が!ということで、『ビーム短編傑作選 奥村編集長セレクション いちぢく編』(→ amazon )を購入。コミックビームに掲載された、オルタナティブな短編群をまとめたもので、ビーム自体の毒オーラが濃縮したまま還元されない感じである、とこの短編集を錯覚してしまうほど福耳ノアルが単独で放つ固有毒がすごい。ポップで不謹慎という点で、尾玉なみえを遙かにしのぐ先人であると言えよう。稀覯書『森繁ダイナミック』の2巻が出ることを祈りつつ、コージョリョーゾクを乱す本作品が日の目を見てしまったことを言祝ぎたく存じます。 福耳氏の短編「虫酸」は、正体不明の昆虫少女ムシズちゃんの中学校生活を描いたキュートな学園グロナイルです。掲載時にはほかのビーム作家から「こんなん載せて大丈夫なの?」的心配をされたそうで、さもありなん臭がそこここから漂って来ます…

ハンター最新刊

関東方面から、ハンターハンターの最新刊がコンビニに出てるとの情報をいただき、えー山形のコンビニにはそんな気配皆無だなあと思っていたら、同僚から「買いました」との報告が。すぐに近所のコンビニに向かうと26巻が並んでいる!2冊買って別の同僚にあげました。職場ではささやかなブームが起こっています。 連載時に比べて、加筆や修正は思ったほどなされていない印象。来週から10週連続掲載が始まるが、掲載直前までの話を単行本にまとめている。休載、単行本、連載、休載というジャンプにしては新しいビジネスサイクルを作り出した富樫、読者殺しです。

黒田硫黄『大金星』

黒田硫黄の最新短編集『大金星』(→ amazon )。7つの中編・短編が並ぶ。読んだことがないのとあるのとがちらほら。奇妙な生物である隣人との生活を描いた「ミシ」は黒田節効きまくりの不条理疾走異世界青春ものとでも呼ぼうか。『茄子』「アンダルシアの夏」のスピンオフ「アンヘル」は、これまた黒田節効きまくりのお話かつマンガ表現的には結構実験的なのでは?というカットがそれとなく潜むなかに、レースの躍動感とスピード感がすさまじい。動いていないのにこれは絶対動いている。熱い。 というわけで、こないだの niji wo mita: 黒田硫黄・福島聡・ハンター 同様、マンガ読みは絶対買いだと思う。

今日のツッコミ

中山成彬衆院議員の失言は、この筋の人として「あるある」という以上でも以下でもないのだが、この言い訳(→ asahi.com:中山前国交相「言葉狩りしては政治が活性化しない」 - 政治 )もまた脱力感に彩られている。見事に語るに落ちてるな。  国土交通相を辞任した自民党の中山成彬衆院議員(宮崎1区)が29日、TBSのテレビ番組に出演し、辞任の一因となった「単一民族」発言について、「言葉には気をつけなければいけないが、言葉狩りばかりしていると政治が活性化しない」と述べた。  番組終了後、中山氏は「言葉狩り」の意味について、記者団に「単一民族という言葉は使っちゃいけないんだなと思った。『同質民族』と言えばいいのか、なんて言えばいいのかと思って、瞬時に言葉が出なかった」と説明した。 言い換えの問題じゃないでしょう。「同質民族」であると仮定すると、どのように「政治が活性化」するのか語っていただかないと。

言うほどオルタナではない

しかしどうも、何なんだ。勉強してこなかった人間に限って、大学に入ってからコンサバティブなことを学びたがる。ちょっとでもオルタナティブなことになると、みんなそっぽを向くなあ。「文化のルーツ」で100ヘーくらい叩き出している裏番組で、「文化の相対化」と「戦略的装い」とか言おうものなら、受講者の差は歴然というグチをここでこぼさせてもらおうか。 それにしても、コンサバティブな領域って、どうして「実学」とか「役に立つ」とか言うことと相性がいいんだろうか。実際そういうのは、教養とある種の階級上昇が結びつきにくくなっている昨今、もう飲み屋のウンチク話くらいにしか役立たない、というか飲み屋でもたいがいウザがられるからもうどこでも役に立たないのに、と遠吠えしてみる。

おいしいお店と音楽イベントの悲しい関係

そういえば、引っ越しのさなか山形にやってきたed君は、この山形で1年に一度開催されるイベント、"Do It!"(→ do it 2008 )を見に来たのだった。僕もライブは見たかったし、ed君ともゆっくり話したかったのだが、なかなか時間が取れず残念だった(引っ越し手伝ってくれてありがとう)。ほとんど知らない出演者の中、少年ナイフとかモーサムトーンベンダーとかあれとかこれとか知ってるのをかき分け圧倒的な存在感をもって鳥肌実大先生(→ 公式サイト )!…行けなかったことがつくづく残念に感じられた。 それはさておき、若きミュージシャンかつイベンターのed君から聞いた話でさもありなん、と思ったのはある種のホスピタリティというか、エンターテインメント性がイベントに足りなかったという話だった。音楽以外の、特にフード!カレーと芋煮くらいしかなかった、というのは寂しい。小さな山形だが、こういうイベントに出店して来客を楽しませるお店はそれなりにあるのになあ。カレーと芋煮しかないと思われてしまうではないか。あそことかそことかあれとかこれとかさあ…。音楽が好きで食べ物もおいしいってお店が、この手のイベントと連携しないのはなぜだ。もうー。

下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち

先週末に引っ越しをした。以前住んでいた、在郷の町から山形県内の県庁所在地、山形市である。以前よりずいぶん便利で、といったあたりをグダグダ書きたい気もするが、段ボールにひたすら本を突っ込みながら感じたことは、「読んでない本がたくさんあるー!」だった。この業界にはいわゆる「積ん読」なしで月間100冊読破を超える猛者もいることはいるが、こちとら読書スピードも読書時間の作り方も、思い切り凡人なのでとにかく読んでいない本がたまりまくっていくのが恥ずかしい限り。今度は自分用に一部屋もらえたので、その僥倖を今週は味わい尽くしている次第。 で、そのうちの一冊。内田樹『下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち』(→ amazon )を今更ながら読んだ。勉強を嫌悪する子どもの考え方が、市場的に価値あるもの=等価交換できるものでなければ、意味がないとするあたりは(これは内田氏独自の指摘ではないが)仕事上興味深かった。この他、本書の大きなポイントである、誰かと連帯することによるリスクヘッジの必要性、市場原理の前提をなす即時性をどう破り時間性を回復するかという話は、身に浸みまくった。たぶん、僕自身がこの数年かけて内部に感じている変化は、これらのポイントと関係があるのだと思う。 それにしてもこの人の書いていることは、基本的に「昔は良かった」に過ぎない。そのようなオッサン的な蚕主義じゃなくて繭を作らない方の懐古主義は、脊髄反射的にウエッとなりがちだが、こうして筋道立てて説明されると、うん、腑に落ちなくもない。やだなー、こういうオッサンの手から逃れようとあがいても所詮は悟空、私の掌みたいなのって、などと今更言い仰せる35歳であった。

闇の子供たち

映画の宣伝をネットで見かけ、梁石日『闇の子供たち (幻冬舎文庫) 』(→ amazon )の原作をうっかり購入したら、ついファミレスで4時間もの時間を過ごす羽目に。ノンストップで読了してしまった。前半はタイ北部の幼児売買と、都市部で生じている幼児売春の凄惨なさま、後半は幼児を殺害しての臓器移植を阻止せんとするNGOと新聞記者の活躍(と失敗)が描かれる。梁石日なのでほとんど露悪的な描写にとまどうが、人間の欲望をどう低く見積もっても、現実がこの小説以下ってことはないだろう。 この小説では、遠い外国で起こっている凄惨な出来事が日本の社会や生活と無関係ではないんだということが、いろいろな方法で繰り返し訴えられている。また、同時に「無関係ではない」というありかたにもいくつかが示されている。それがその都度後ろからどつかれている感じで、いやな汗をかいた。物語の結末近くでは、主人公の強力な味方であるはずの正義感あふれる新聞記者が、結局は他者の眼差しから事件を新聞記事にするということにとどまって、現場と共に生きようとするボランティアの主人公と袂を分かつ。こういうの、マイノリティ研究とボランティアの確執みたいな文脈で聞き覚えがあって、さらにいやな汗を。

メタルとクラシック

クラシックとヘビメタ、ファンは似た性格:「音楽の趣味と性格」を調査 | WIRED VISION (via. 極私的脳戸/日々の与太 ) とのこと。同記事によれば、 調査を指揮したAdrian North教授は、英国放送協会(BBC)に次のように語っている。「最も驚くべきことの1つは、クラシックのファンとヘビーメタルのファンがよく似ているということだ。どちらも創造的で、落ち着いているが、外向的ではない」 というが、これは実感に合う。というよりも、様式美と呼ばれるレインボウとかイングヴェイとかはクラシック音楽のフレーズやフレームを借りているわけで、音楽そのものが似ているのだからリスナーの傾向が合うのはさもありなんという感じもする。そのような意味では特段驚くには値しないと思う。また、メタルはオタク文化とも親和性が高い。レゲエやラップミュージックのリスナーが外向的で、メタルが外向的ではない、というのも相当なステレオタイプではあるけれども、その表れと思われる。そして経験的には、クラシック音楽の熱心なリスナーは、オタク文化の担い手であることは少ないように思うが、モノへのこだわりという点で相当にオタク的だったような…。 調査法とも関係するが「ヘビーメタル」という音楽をどのように定義しているかは気になる(もちろんクラシックの定義もねえ?)。NWOBHM(→ wikipedia )あたりを念頭に置いているのだとすれば、リスナーの心性に、耽美的で自己愛的というのも加えてもいいかもしれない。

萌える日本語←どうかと

留学生を対象としたエクストラの授業で、近年ちょっとブームになっているシャドーイングを利用した音声教育をやってみようと、『シャドーイング 日本語を話そう 初~中級編』(→ amazon )を借りてみた。シャドーイングとは、以下。 シャドーイングとは同時通訳のための練習法の一つですが…(中略)、流れてくる音声を聞きながら「影」のようにすぐ後ろをできるだけ忠実に声に出して言う、それがシャドーイングです。(上掲書 p.6) 自分が中国語を勉強した時も、テープを聴きながらその通りの発音を何度も繰り返したことがある。効果は結構劇的で、一夏練習したら発音がかなり良くなったことがあった。先月戸田貴子編『日本語教育と音声』(→ amazon )を読んだこともあり、音声教育面白そうじゃん、で、ちょうど機会を得たところに船というわけである。 で、『シャドーイング 日本語を話そう』は、テキストとしては悪くないと思う。学習者の多くが苦手とする特殊音節を盛り込みながら、イントネーションのバリエーションにも目配りがある。明日が楽しみ。 ただこのテキストには一つだけ致命的な欠陥があるよ!附属のCDの音声が、声優さんを使っているのだけども、男も女もアニメ声すぎるよ!声優ってそういうことじゃないだろうが。これでシャドーイングやったら、学習者はみんなアニメ的な発声法になるよ。アニメの声って明らかに一定のキャラクターが付されていて、このCDの場合は、幼なじみで強気ででも二人の時はみたいなツンデレで、男はあれだ、セカイ系で言うところの一人称僕野郎だよ。以上、完全な主観で書いてますが、たぶん間違いねえ(なお、声優の声質とキャラクターを結ぶステレオタイプについてはすでに研究がある。金水敏編『役割語研究の地平』(→ amazon )。 シャドーイングによる勉強法を体験した人なら知っていると思うが、音声をそのまままねるので、言語情報以外の個性や雰囲気など、余剰情報もコピーされてしまうことがある。僕も以前、女性の韓国語母語話者の声でシャドーイングをしたら、結果的に韓国人女性のしゃべりになって留学生に笑われたことがある。なので、こういう音声教育ものの声は、経験的には、日本語社会的に権威があるとされるアナウンサーの声が用いられることが多い。 というわけで、アニメ声はやめろって。マジで。学習者がみんなツンデレと僕になったら

ヤンサン移籍雑感

そういえば、スピリッツが新装だということで。開けてみたら何のことはない、休刊したヤングサンデーの連載陣のうち、救済された作家が加わっただけのこと。度胸星、殺し屋イチ、ザ・ワールドイズマインなどの黄金期が終わってから、というか度胸星を打ちきりにしたということにどうしても納得が行かなくてヤンサンを読まなくなってから10年くらい経つのかな。 食わず嫌いだったヤンサンだが、スピリッツ移籍を果たしたおそらくエース組の作品は、個人的には薄いというか食い足りないというか。しかも、ゆうきまさみや、河合克敏は面白いけど、他の作品には(ゆうきまさみや河合克敏とは全然違って)で、痛い子っぽさがある。青年誌なんだから少年誌みたいなハッタリの効かせ方はちょっと苦しい。少年誌で鍛えたゆうきまさみと河合克敏の方が題材は子供っぽいのに、読んでて大人って感じがする。マンガ読みの皆さんは、どう見ているんでしょうね。niji wo mita一番の大手青年週刊誌は、圧倒的にヤンマガです。『喧嘩商売』面白すぎる。

認知的存在としての音楽

以前目にしたり耳にしたりした時には、全然ピンと来なかったのに、ある日突然これまで価値を見出さなかったことを後悔したりすることがある。例えば、90年代初頭に活躍していたエクストリームのヌーノ・ベッテンコート(→ wikipedia )が大好きで、彼の後のバンドであるモーニング・ウィドウズを初めて聞いた時に、魅力のかけらも感じられなかったのに、という感じだ。で、ファーニッシュド・ソウルズ・フォー・レント(→ amazon )。2000年のアルバム。 ファンク・メタルの下地に、彼独特のタイム感というか、変なフックがかかりまくっていてすごく気持ちいい。横断歩道の白いところを踏んで歩いているだけの、単調な歩幅なのに、なぜか起伏が感じられてしまう。昔のまんまのギターやコーラスのフレーズが耳に付いたりする。すごくヌーノっぽい。なぜ、僕はこれを「ヌーノではない」とスルーしていたのだろうと思う。受取手としての自分の、8年の変化ということだろうか。このあたり、実体としてではない音楽のありよう、つまり認知的存在としての音楽ということなのだろう。 以下、youtubeに上がっていた、ライブ映像。

福島奥地に住んでたあいつ

週末は突貫工事の発表資料がどうにか間に合って、いやある意味間に合ってないのだが、東京での発表を終え、山形に戻ってきて出張。 初めて福島の深奥を訪ねた。大学時代の畏友、横田君の故郷で(完全にウチワネタでスマン)和菓子屋のおばちゃんと仲良くなったっつうのに、横田に電話しても出やしねえ、ではなくて番号が変わっててつながらない。しかし何というか、かような山奥に住む人の生活は何ぞ、と以前の僕なら思っただろう。現代日本社会に対する脆弱なイメージが山形生活を通じて貧弱くらいにはなったかと。それにしても、もっとハードな仕事ぶりを極めている御仁の前では露ほども申せませんが、だいぶ疲れた。この疲れに飲み込まれず、今月中締め切りの原稿と、引っ越しの両輪を絶対ブチこなす、といま断言。 今よりももう少し便利で広い、山形市内のマンションに引っ越します。一部屋多いので、宿泊のお客様の収容も可能です。

黒田硫黄・福島聡・ハンター

いやー、今日はこのクソ忙しい状況をさらに深刻にすべく、黒田硫黄『あたらしい朝(1)』(→ amazon )と、福島聡『機動旅団八福神(8)』(→ amazon )と、ハンター再開のお知らせに血湧き肉躍った。 久しぶりの黒田硫黄の作品は、やっぱり最高。第2次大戦のドイツ、の仮装巡洋船が世界の海で連合国(主にイギリス)の商船を沈めまくる、という話なんだが、実際そこはどうでもよくて、「ドイツ万歳!(一同ビールをぐい飲み)」「ビール万歳!(一同ビールをぐい飲み)」とかね、「地面が揺れ動かないのには驚いたなあ」とかね、オチも何もない一コマ一コマ。何だろう、間ですかね?黒田硫黄はこういうのもう神がかった天才としか思えない。黒田硫黄作品ほど読んでて気持ちよくなるマンガはないな。この人はマンガでしかできないことを高いレベルで実現している。マンガの気持ちよさをことばで説明するのって難しいな。敢えて言えば、勢いだけで乱雑に、いい加減に作っているように見えるのに、むしろそうした方がおいしくできてしまったスコーンみたいな、…いやそれは違うな。大変な量の下調べをしているから、勢いと乱雑さがきちんと完成度の高いスコーンになって我々の食卓に並ぶわけです。そんなんでよろしいか。ともかく、このすさまじいまでの隔靴掻痒感が君に伝わればいい。マンガ好きなら絶対読むべき。 『機動旅団八福神』は、例によって圧倒的な読みにくさが新しいマンガです。この人の時間感覚はおかしい。いつも変な進行のしかた、変なコマ配置、変なネームであるところが気持ちいい。最新巻ではポスト京都原爆と、賢者の静脈の秘密が語られています。 そしてハンター再開だって…。ハンターファンは例外なくマゾヒスト的体質であることが広く知られているわけですが、こうやって絶望しかかったタイミングでフッと再び現れる、その戦略にむしろ毎回積極的にはまっていこうという、ジャンプ砂漠を生き抜くための読者のしたたかな知恵がここで露呈したわけです。マゾヒストは決して受け身ではないのです。

恐るべし漢字字書データベース

周祖謨「校正宋本廣韻」を昔ながらの手作業でめくりつつ、作業終了は遙か彼方…などと家内制手工業に励んでいたら、ネットで「宋本廣韻データ」(→ 宋本廣韻データ )なるものを発見。大幅に作業がはかどり、たったいま一段落したところ。使ってみて、これ相当な労作だなと思いつつ、ものすごく便利!! (僕の環境、WinXP + Firefox3.0では表示できない文字が多数。でもユニコードテキストでの検索には問題ない) しかもこれ、ソースを加工して広韻の反切情報と親字・小韻字を抜き出すと、完全版電子広韻(→ オンライン広韻 )のラフスケッチができあがるのでは…。むむむ…。 IPAも記載されていて、中国中古音研究にとっては便利きわまりないツールなのではないか。ただ、漢文研究者が開発に深く関わっているのだろうか、IPAによるトーンの記述が、日本語学畑(あるいは言語学畑?)とずいぶん違う…。たとえば、上声は日本語学畑ではおおむね高平調(おおむねというのは音節頭子音によって実現形が異なった可能性を考慮して)であるのに対し、ここでのIPAは11-55すなわち上昇調、去声は日本語学畑でおおむね上昇調であるのに対し、ここでのIPAは55-11すなわち下降調となっている。このあたり、言語系研究者は利用の際に注意すべきだろう。 いやー、それにしても便利この上ないなあ。

ボランティアと呼んでいい?

週末は、地域の国際交流協会主催の日本語上級教室講師を担当してきた。学校教育の現場とは違う、市民の教室といった趣を楽しみに出かけたのだが、受講者のモチベーションが非常に高く、「生活の日本語」よりも「学べる日本語」に強い興味があるようで、結果的に大学でやるような授業になってしまった。山形は、全国でも特に日本人配偶者として来日している方が多い。この教室にいらしたのも9割が配偶者の方で、世代も僕と±5歳くらいか。中には小さなお子さんを連れていらした方もいて、教室の中をたえず動いているのが微笑ましかった。 文部科学省による留学生増加計画( 「留学生30万人計画」骨子の策定について-文部科学省 )は、外国人労働力を日本社会が必要としていることを見込んでのものであるようだが、すでに日本社会に生活の場がある人たちにも、高等教育の門は開かれているのだろうかと思う。安価な労働力としての役割を担わされている外国人労働者も、いつまでも安価であることに満足するわけではない。より割のいい、社会的地位の高い仕事を求めたとき、高等教育の門をたたくのは当たり前のことだろう。昨年以来、この国策に沿って全国の大学では留学生募集のハードルを下げまくっている。留学ビザを持たない、この国策の対象外となるひとたちは、現状のままではますます厳しい状況に置かれていくのではないだろうか。それともなにがしかの地域教育?のなかで掬い上げることができるのだろうか。 ともあれ、ボランティア初体験、という記事を書こうと思ってたのに、謝金をいただいてしまったので仕事になってしまった…。他の講師にも謝金が出ているようで、まるっきりボランティアというわけではないのね、というのが意外だった。他の自治体はどうしてんでしょうね。

いつかは自分もここでお世話になるかもしれない

sociologbook | 2008/08「貧困特区」 同僚のブログで紹介された記事から。貧困対策として、貧困特区を作ることはできないか、という問題提起。僕は問題提起そのものよりも、以下の、特に「いつかは自分もここでお世話になるかもしれない」という問題提起のしかたに共感する。 そしてなおかつ、これがもっとも重要だが、まわりの一般市民がこの貧困特区を差別しないこと。いつかは自分もここでお世話になるかもしれない、ということや、そもそも社会や行政が負担しなければならないはずのコストを押し付けているのだ、ということを、市民が十分に理解できるかどうか。 それゆえに、貧困特区が必然的に持つことになるであろう負の表象から、そのような問題提起のしかたの意味が殺されないために、特区という地域しばりはどうなのだろうと思う。階層間格差を認めることについて言えば、認めかたの深度を別とすれば、この社会はもう認めているじゃないか。だから、この記事が述べるような「わざとスラムを作る」ということを真逆の方向から述べている記事も出現したし( お受験のまとめ 。もう削除されてしまったけれど、低所得者が住む公団は特定の区に作れ、みたいなママさんの意見)、そしてそれははてなでやたらにぶったたかれていたけど、そして確かに胸クソ悪かったけど、決して目新しい内容ではなかったはずだ。特定の集団を特定の地域で救うことが、同時にいつでもそのようになり得る自分という可能性に対する想像力を奪い取ってしまっては、本末転倒となってしまうだろうと。 というようなことはこの記事の書き手には十分配慮されていると思うし、何より貧困特区という仕組みが現実的に誰かをすくい上げることを思えば、何を見当違いのコメントをしているんだと思いもするのだが、でもやっぱりその仕組みが作り出し強化する表象を思うと切ないものがある。何しろ、僕のある面ではいまだ外山恒一が全然全く笑えないくらいで。

ウイスキーの小瓶か、鍼灸か

夢のような子供との一週間を過ごした後は、まあ予想通り溜め込んだ分だけ多忙な日々が始まったわけだけど、よほど体が仕事をしたくないのか久しぶりの偏頭痛ラッシュとなってしまって辟易としているわけである。めまいだの吐き気だのが時に交代交代で、時に手をつないで訪れるわけである。階段何度か落ちそうになった。つーか!そんなさなか思い出したのは、あー俺小さいとき母親も似たような感じでぶっ倒れてたかも!ってことで、思い立って電話して聞いてみたら台湾の祖母も同じだっつーわけで、はい遺伝決定。この家系は人生の一時期、原因不明のこの手の現象に悩まされると。母親に当時の対処法を聞いてみたら、そうだねーウイスキーの小瓶を持ち歩いていたなーとのこと。血の巡りが原因だというあまりにいい加減で首肯しがたい説に一票を投じるわけにはいかない。とりあえずサマオクに鍼打ってもらって沈静化。 それはそうと、大学院時代の後輩がかっこいいダンサーになっていた( Cherry Typhoon Web )。前は劇団の座長やってたはずなんだが。バーレスクダンス(→ wikipedia )についてwikipediaに記述があるけれど、ダンサー本人の定義とはまた少し違うようだ。同業の人と大学院生時代のことを話すと、どうも僕が所属していた研究室は不思議な雰囲気を醸し出していたようで…。

トマトカレー

畑で取れたバケツいっぱいのミニトマトと、若干のピーマンとなすを使って、さあ何をやろうか。トマトソースというには分量がありすぎる。というわけで、ミニトマトを刻んで水を使わないカレーを作ってみた。酸味が強めなので食欲がない時でもいける!子供と完食。

秋田出身の漫画家が好きなんだ

よーし原稿一本終わったー。家族が旅行から戻ってきたー。EDENの13~15巻読んだー。次の原稿の締め切り近いぞー。来月の研究発表もあるぞー。でもその前にまた川行くぞー海行くぞー、何よりキャンプ行くぞーあとEDEN全部読んで感想書くぞー遠藤浩輝は秋田出身なんだ秋田いいぞーおおひなたごうも秋田出身だ。山形は冨樫と安彦まさえがいるから十分だ。それにシャアズゴのプラモいい加減作りてーんだよ。遊んでマンガ読んで原稿書いて遊んでマンガ読んでプラモ作るぞーと気炎を上げていたら、急遽仕事の電話が。行かないぞー。ねえ行かない。行かないぞー?行くけど。行かないってば。いや、行くよ。行けばいいんでしょー。どうせ俺はあれだよ仕事好きだよ。家にいたって野球もオリンピックも興味ないし、仕方ないから仕事行くよベイベ。ベイベカモンアイラービュベイベー。

ルービックキューブ

この3ヶ月ほど、仕事の合間にルービックキューブをすることが増えた。うわっ、我ながらネクラー。同僚が先にはまっていて、やたらと熱く語るのでついに僕にも伝染してしまったのだった。小学生の頃から一面たりとも揃えたことがなかったルービックキューブだが、付属の説明書を元にパターンを押さえれば、誰でも6面すべてを揃えることができる。攻略書を読んでゲームをクリアするずるい方法でやり方を覚えると、頭を使わずとも簡単にクリアできる。 ゲームと違うのは、一度クリアするともうおなかいっぱいになる=ストーリーが分かると満足するのではなくて、何度も楽しめてしまう点にある。探求心の強い同僚は、どのような仕組みでキューブが揃っていくのか、その合理的な過程に興味をそそられるようだが、僕の場合は整理整頓の欲求が満たされていくのがその都度気持ちいい。 さて、その攻略法には、目的によっていくつかのバリエーションが存在している。僕が覚えたのは、ツクダ式(→ ツクダ式 - Wikipedia )という方法で、(1)完全2面から(2)中段を揃え、(3)最後はルービック・マヌーバーという手法で完成させるものだ。この(1)から(3)の流れは、(1)と(2)が準備段階で(3)は総仕上げと位置づけられると僕は思っていて、整理整頓の欲望はちょうど(3)で最大を迎える。ドミノでいえば倒す瞬間、料理で言えば盛りつけの瞬間、洗濯物をしまうプロセスで言えばたたんだものをタンスにしまう瞬間とでも言うか。ある種のオーガズムが、いや、それはねーな。 ところで、キューブの世界にはスピードキュービングと呼ばれる速度を競う競技がある。次のyoutubeの動画に見るように、たまにテレビで紹介されるじゃないですかこういう人、みたいなまるで駅名全部言えますよ的なあれである。いや、それは全然違うな。 僕が覚えているツクダ式では、このように短時間で6面を完成させることはできないようだ。僕の最短完成時間は5分程度、同僚でも2分程度。実はスピードキューブで用いられる攻略方法は別にあって、それはLBL式(→ Layer By Layer - Wikipedia )と呼ばれる。この攻略法による世界記録は、wikipediaによれば、2007年4月の段階で11秒台だとのこと。敬意を込めて言うが、全くもってアホだ。現在の世界記録は Welcome to Wor

気温に合わないバンバンジー

盆地山形は日中暑いけれども、朝晩はきちんと冷える。昨晩は日中30度越えしたのに、朝は20度ちょっとで、長袖の上着を着ていないと少し寒い感じ。8月8日の立秋も過ぎたことだし、アカトンボが里に下りてきたりと、スーパーでは秋の風物詩「芋煮」のコーナーを用意する気の早い動きも分からないではないなー。 というわけで今朝は鶏の胸肉でバンバンジーを作った。僕以外の家族が旅行に出ているので(原稿書きのために僕は居残り…)、青唐辛子を刻んだものをトッピングしてちょいピリ辛の味付けにはしたものの、もうちょっとガツンと暑くないと雰囲気出ないかも。 (作り方) ・鶏の胸肉を浅めのお皿に置いて、日本酒を少量振りかけラップ。 ・電子レンジで5分くらい。 ・取り出して冷水であら熱を取り、手で細く裂く。 ・キュウリは細めに切っておき、軽く塩をしてもんでおく。 ・キュウリと鶏肉をボールでよく混ぜる。刻んだネギとごま油。 ・で、あとはタッパに入れておく。調味は取り出して食べるときにその都度がいいと思います。しょうゆでも塩でもごまだれでもマヨネーズでも。

グーグルマップ、ストリートビュー機能

学生の引率で新宿に来ているんだけど、山形の学生ってホントに歩くのだめだね~。車社会だから全然歩くことに慣れていない。駅からホテルまで10分程度なのに、ものすごく疲れてしまうとのこと。人酔いと、湿度の高さが問題なんですよ!と言うのは、分からなくもないかな。それに、都市の人間は無意識に人とぶつからずに歩くことができるから。こういう世界も日本だよ、山形からイメージできる日本だけが日本じゃないよ、こういう歩くのも大事だからー、とか言ってたら、本日からグーグルマップにストリートビュー機能が加わったおかげでありがたみも2割減ってとこですか。 これ、すごいなー。世界をバーチャル化する欲望の是非はともかくとして、ここまで見せてくれる地図が現実化するなんて思ってもみなかった。行ったことがない路地にも入れるし、ぐるっと360度を見回すこともできる。quicktimeにこういう機能あったよね。あっ、ゴールデン街も入り口近辺は見える!知ってるお店もある~。なんだか、知ってる風景を地図上で眺めていると、こっちが見てるんだか見られてるんだか主客転倒するような妙な気持ちになるな。 当初カバーするのは、東京や大阪などの12都市圏にある100以上の市区町村。今後、徐々にサービス提供範囲を広げる予定だ。写真の撮影にはカメラを搭載した自動車を利用しており、「一つの都市の撮影に3~4カ月かかる」という。 ( グーグルが「ストリートビュー」日本版を開始、特定地点の360度パノラマ写真を公開:ITpro ) ということなので、自動車が入れない細い路地は今のところバーチャル化されずに、初めて分け入っていく楽しみが保存されるということらしい。都市部の細い路地って意外に風景の改廃が少ないから、大通りよりもデータの更新が少なくて済みそうだけど、商業的な情報としての価値はあんまり高くなさそうだから、今後もバーチャル化はされないかも。

城生佰太郎『一般音声学講義』

この半期で読んだ数少ない言語系の本で一番おもしろかったのは、城生佰太郎『一般音声学講義』(→ amazon )だった。タイトルはおそらくソシュールの『一般言語学講義』を模しているのだろう。そのためか受講者の講義ノートのような雰囲気と教員の手控えを合わせた印象を受ける。時に実際の講義の口調で進められていて、教室の空気が感じられるところは、何というか同業者としてくすぐったいほほえましさがある。 で、内容はというと、言語学や音韻論から独立した領域としての「一般音声学」を掲げながら、調音音声学、音響音声学、聴覚音声学、そして比較的新しい談話音声への展望まで俯瞰できる作りになっている。個人的には音響音声学の学史がしっかり押さえられているのがありがたかった。概説を押さえるのは比較的簡単だが、学史を押さえるのは骨だから。著者は、脳神経科学と聴覚実験音声学で有名な方だが、そのあたりの記述は控えめ。あくまでも「一般音声学」を意識した作りになっている。 というわけで、この本は位置づけとしては明らかに概説書なのだが、それにもかかわらず読ませる本になっているのが不思議。概説書で読ませる本なんて僕はほかに知らない。ひとつには、これは講義の文字化であるから、言ってみれば声の残響?みたいなものが各所に感じられるということ(音声学だしね)、もうひとつはそれと著者のキャラクターがむき出しになっているということにあると思う。学生に愛された方なんだろうなと思う。しかも、どちらかというとマニアックな学生に。

川遊びと虫取り

ようやく仕事がすっかり終わって、こっから先は飽きるまで遊びと読書と研究だけをします宣言をここに声高にいたします。仕事なんかやるかバーカといいつつも、明後日から引率とか引率とかで新宿宿泊だけどね。君とか君とか君とかに会いたい。しかしまた別の機会に! 原稿の締め切りに恐々としながら、いつも全然遊べなくてごめんとばかりに子供を連れ出して川へ。昨年はできなかった、堰堤からの飛び込みができるようになっていて驚く。しかも浮き輪なし。これはもう僕も父として浮き輪を持たない生き方をせねばならぬと柔らかく決意。だってねえ?足つったらどうすんだよ。 子供の唇が紫になる→甲羅干し→ピンクになる→紫になるという無限ループをやってるうちに、そうだカブト虫取りに行かねえ?と子供より張り切る僕であった。もういいよ川はよー。また今度にしようよー。誰が誰を連れているのか分からない流れである。 折しも子供は堰堤から流れ落ちる水を相手を宇宙海獣に見立ててのパンチ&チョップに一心不乱。どう見てもやばいお子さんである。せめて桜を雪に、であれば風流さが伴うものの…ごめん、僕の子供にそれはなさそうだな。そういうのは和歌の人に任せた。最後はなんだか分からないけれどアイスラッガーで敵を倒したとのこと。教育のたまものである。 何となくいやがる子供を連れて虫取りに。山や森には事欠かない、人生至る所深山幽谷の山形であるから、道をちょっと外れればクヌギやコナラにはすぐお目にかかることができる。夕暮れの中、近所の山に登る。時間が早いのか、全然甲虫がいない。そろそろやばい感じの薄暗さになってきたところで、カミキリムシを一匹ゲット。ノコギリクワガタが良かったのにー。お父ちゃんもそう思うー。ムシキングもほしかったのにー。いやお父ちゃんそれは現実にはいないと思うなー。 大丈夫、夏休みはまだ長い。

海獣の子供(3)

五十嵐大介『海獣の子供(3)』(→ amazon )、満を持しての登場。夏休みの始まりにこんな表紙を見せるなんてひどすぎる。また伊豆に行きたい~。東北の海はどこだ~。入り江の凪いだ美しい海は、日本海側はだめそうだし、太平洋側も三陸海岸ってどうなの。 3巻は、空と海の秘密に一歩近づき、主人公が人間離れした潜水を見せるのが見所か。そもそもがUMAである空と海なわけだけど、ヒトガタ(→ 南極/北極のニンゲン・ヒトガタ/クネクネそしてカバゴン )とかはなし!そういうUMA使うと三文安になるよ。そしてにらみつけるブラックマンタ(→ YouTube - パラオにてブラックマンタと遭遇 ←こわすぎ)も。 それにしても、実は巨大水生生物に存在を揺るがされるような恐怖を感じる僕ですが、このマンガは巨大水生生物てんこ盛りな作品であるが故に、恐怖のツボを押されまくりです。それにもかかわらず読み続けられるのは、UMAの薄暗い生々しさではなく、神話に彩られた抽象度と限りなく透明に近いブルーな感じだな。ダチュラ(コインロッカーのほうの)しかり、万祝(望月峯太郎のほうの)しかり、ドボンと潜れば海洋ロマンの音がする~(文明開化でないほうの)。

Decade of Decadence

1981年に結成されたmotley crueというバンドがその10年目に"Decade Of Decadence"(→ amazon )という、そのまんまなタイトルのベストを出したとき、10年ってやっぱり振り返りたくなる節目なのかなあと高校生である僕は考えたのでした。10年分の退廃を集めれば、それなりのセンチメンタルとは別に、記録としての価値はファン以上に本人たちにとって意味をなすのだろうなーと思っていました。 niji wo mita(→ 旧サイト )を始めてから8月2日で10年が経過して、いよいよご長寿ブログの仲間入りだー、などと軽薄にうすら喜ぶけれど、テキストサイトブームも終盤にさしかかった1998年に始めたこの場所は、盟友 expop をのぞけば、仲間入りも何も極々私的な僕だけの場所でした。大学院修士課程の2年目、学生時代からつきあっていた彼女にこっぴどく振られ、あっちへ行きこっちへ行きしながら、いまになって思えばどの角度から眺め直してみてもモラトリアムそのものの生活をする中で、グダグダ日記を書き出したのを思い出します。いや、志はもうちょっと高いふりをしていたかもしれないな。最初のころは、音楽的母語の存在を探る、とかやってたし。 ともあれ、僕にとってのブログはどんだけ頭悪いと言われても、公共性などクソくらえで、あくまでも私的領域としての自由が保証されていなければならないと考えます。というわけで、motley crueよろしく退廃の10年間に書いてきたテキストのうち、自分にとって意味のある5本を刻み、記念とします。 ジョジョに引用されるモダン・ホラー群 (98/08/12) ガンダムを描けッ (02/03/11) 安心のしどころ~言霊復権 (03/04/30) 味方か、敵か~マルチアイデンティティの提唱 (03/12/14) アーネスト・サトウとピジン日本語 (06/02/01) 次にこういうことをするのは、さらに10年後なのかな。目下、最大の興味は、これを僕の子ども達は読むことになるのだろうか、ということです。親の日記が衆目にさらされているわけで、ここを足場に特殊なコミュニケーションが交わされることになったりして。

EDEN最終話

遠藤浩輝『EDEN』(→ amazon )の最終巻(18)を読んだ。 10巻くらいはついて行って、描写の残酷さと低体温な感じに閉口して読むのをやめてはいたものの、アフタヌーンで最終話が掲載されたという情報を耳にしたあたりから結末を読みたいなという気持ちが高まって、久しぶりに単行本を購入した。近未来的なSFを基調とした主人公の成長譚といった形式を取りつつ、これまた近未来的な多民族社会の到来と、権力の再構成、新たな覇権主義などが細かに作り込まれた世界観が展開される様相は、初期の連載中から今っぽいなあと思っていた。というのも11年前の話。このniji wo mitaが立ち上がる1年前の話だ。 たぶんそこここで言われていることだろうが(検索はしていない)、エヴァンゲリオンを物語としてきちんと作るとこうなるのかなという印象がある。遺伝子工学だの、人類の無意識の融合体コロイドだの、神秘主義を主体としたカルト集団だの、そして父と子。もしかしたらこうしたガジェットはSFとしてはかなり古いのかな。まあ約10年前の今っぽさだものな。個人的には、(ネタバレ注意!)人類が新しい宇宙の誕生を目にするあたりは、理系に憧憬を抱く文系として、相当興奮した。偏頭痛の前兆で視野がゆがんでも、重力レンズ効果?と笑い飛ばせるくらいの気炎の上げ具合。 もっかい購入し直そうかなー。小さな子どもの教育上は、非常に良くないマンガなのですが。

がっつけ2008

後味の悪い仕事をして、ケッタクソわりぃなと思いながら、頼まれた買い物をガッツリすませて、帰宅してすぐ一袋100円のシシトウと卵で炒め物を作る。へたを丁寧に取る。卵は近くの農家が作ったこぶりで黄身がぷりぷりの。卵はよく熱した油でさっと炒めて、いったんボールに取り置きあとでシシトウと合わせる。シシトウは油でしなしなになるまで炒める。カキ油と砂糖醤油で味付け、最初に日本酒を小さじ1で香り付け。アルコールは飛ばす。お皿にがばっと盛る。続いて鶏の胸肉を5ミリくらい幅に切る。中華鍋は十分に熱して、ごま油で炒める。まだ芯に火が通っていないくらいで引き上げる。皮ごと千切りにしておいたニンジンと新ショウガを炒める。何となく火が通ったら鶏肉を混ぜて塩をさっとふる。最後に酢をたっぷりとかけてお皿にこんもりと盛る。妻が作ってくれていたナス焼きとキュウリの即席漬けも並べて、ご飯をかっ込む。で、15分。空腹の子どもも妻も気づけば気持ちも凪模様の僕も、なんとなくセーフの気持ち。 山形に来て2年間、あれほど杉並で振っていた中華鍋をほとんど使わなくなっていた。山形の食材の雰囲気に合わないだとか、和食を求める水なんだとか、思いつきでいい加減なことをたくさん考えたが、要は食べてくれる人がいるかいないか、ただそれだけの問題なのだと思った。中華料理は基本的にそういう設計思想のもとに作られ続け、食べられ続けてきた食事なのだ。

ものすごい東部オリエンタリズム カンフー・パンダ

久しぶりに時間を取って、上の子どもと2人で映画を見に行った。見たのは、カンフー・パンダ(→ オフィシャルサイト )。 このところ、我が家はカンフー・ハッスルだのカンフー・サッカーだの、カンフー・麻雀だの、例のB級カンフーブームが来ている。オクサマが酔拳時代からのジャッキー・チェンファンということもあるので、遺伝的な影響もあって子どももカンフーが好きなのだ。そして他人事のような顔をしている父親はというと、往年のサンデーマンガ、松田隆智/藤原芳秀コンビの『拳児』(→ amazon )の気合いの入ったファンである。じゃあもう家族そろってカンフーじゃん、というとつまりそういうことだ。 カンフー・パンダのストーリーはとてもわかりやすい。町のラーメン屋の息子たるパンダが、1000年に1度現れる伝説の龍のカンフーマスターに選ばれた。デブで根性なしのパンダが?と本人も兄弟弟子たちもびっくりする中で、強大な力の暗黒面に引きずり込まれた兄弟子と対決するために、ご都合展開を迎える。以後ネタバレになるのであれですが、やっぱり東洋の神秘ネタだと、アメリカはスターウォーズになってしまうのかね。オイディプスのシークエンス、そして内なるフォース。 後ろに座っていた子どもたちはケラケラずっと笑ってたし、ドリームワークスの面目躍如たるアクションシーンには確かにかっこいい。パンダがとつぜん「自分を信じて」カンフーに目覚めて伝説のカンフーマスターになっちゃうくだりも、90分のお話だからいいんだ。うちの子どもも喜んでたし。 ここにツッコミを入れるのは野暮以外の何者でもないのだが、そろそろ東部オリエンタリズムは本気でアメリカになめんなコラと突っ込みたい。「自分を信じろ」とは、カンフーの教えとはむしろ相反した教えではないか。エゴを捨てて宇宙と一体になるのが、梵我一如たる究極の到達点であると、拳児のじいちゃんも言ってるぞー。ドリームワークスは拳児全巻、オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術』嫁。ほんでカモメのジョナサン読んでもっかいフラワームーブメント池。じゃなーくーてー。70年代どころか20世紀前半まで戻って間主観性からやりなおせやコラ。 (追記) 老子の大阪方言訳を久しぶりに再発見。ちょうど7年くらいまえに、このサイトを一生懸命に読みあさっていた。こういうとき大阪方言ってずるいよねー(いい意味で)。 「 老子 第7章

夕顔のスープ

夕顔って、丸のままでは関東ではほとんど見なかった気がする。干瓢の材料としては見かけることはあったけれど、同じ瓜でいえば冬瓜のほうが有名。秋田や山形で食べる夕顔は、長夕顔とも(→ 長夕顔の種 長かんぴょうの種 長ゆうがおの種 参照)呼ばれ、冬瓜をずっと細長くしたような形をしている。 この近辺では煮物にするのがポピュラー、というか、おそらく山形の地物は何でも煮物にすることが可能でもあるのだが、我が家では冬瓜と同じように台湾風スープにしてみた。味はあまり変わらない気がする。 〈あまり親切とはいえないレシピ〉 (1)ニンニクとネギを刻んだものを少量の油で炒める (2)豚バラ少量を2センチ程度の幅に切って炒める (3)夕顔は皮をむいて、一口大に切っておく (4)あれば干しエビ(蝦米: 蝦米 )、なければ干し椎茸を戻しておく (5)沸騰したお湯に(1)-(4)を入れて1時間ほど煮込む (6)お酒と塩、胡椒だけで味付け (7)片栗粉でとろみをつける お皿の上に見えるのは、なすとキュウリとソーセージのサラダ、トマトを湯むきして冷やしたもの。まあただの冷やしトマトなわけだけど、皮がないとつるんとデザートみたいにして食べられる。五十嵐大介『リトル・フォレスト』(→ amazon )に書いてあったレシピ。

KORG DS-10が届いた!

KORG DS-10( 製品紹介 | KORG DS-10 | AQ INTERACTIVE )が届いてしまった…。これはやばすぎる…。説明書をざっと一読するも、こういう機材を扱ったことがないので、書いてあることが分からなすぎる。とりあえずフランジャーのデプスを上げて、ウェットにする…やばい、ロケットが海に向かって打ち下げられている気がしてきた。 ともあれ、電子音楽は下手の横好きでつまみの類をいじってみる。はっきり言えることは、全然わかんないけどこーれーはー楽しい!名前が分からなくても、音とつまみの対応さえ分かれば、それなりに分かってくる(そして分からないことはやっぱり分からないことが分かる)。カオシレーターみたいな機能もついていて、うねる、うねるよ! 発売前からアマゾンにはコメントが立ち並ぶ状況で、シンセファンのおじさんたちが色めき立ち夜な夜な夢に見ていることが推測されるわけだが、そんな折り、 日本初 KORG DS-10 セミナーの動画 - webdog というブログを発見。すごい勉強になります。 説明書によれば、シングルプレイモードのほかに、何台もの合奏が可能なマルチプレイモードがあるじゃないですか。これをたくさんのひとでやったらもうすごい鼻血が出ると思うます。思うます。

偏頭痛の経過:半年を過ぎて

偏頭痛が頻発化して半年が経過した。かかりつけの病院で大量にもらった、虎の子の予防薬テラナスも、頭痛を抑えるイミグランも使い果たした。一区切りの時期を迎えたところで、この半年の経過をメモしておきたい。 まず、偏頭痛の頻度はこの3ヶ月については1月あたり2回程度におさまっている。半年前は1週間に1度(多いときで2度)だったので、日常生活には問題がない程度になったと言える。理由は、偏頭痛の起こるタイミングが予測できてきたので、効率的にテラナスを服用できるようになったことと、環境の変化によるストレスの軽減にあるのではないかと考えられる。 タイミング、つまり誘発要因には個人差があるので、ここにそれを記すことは頭痛に悩む他の人にはあまり役に立たないかもしれない。僕の場合は「お酒を飲んで夜更かしをする」+「翌朝睡眠不足で仕事に出る」の組み合わせはかなり発生の頻度を高める。これに、翌日に「スポーツなどで体を激しく動かす」が加わるとまず確実に頭痛が起こることが分かった。だから、遅くまでお酒を飲んだ翌朝にはできるだけテラナスを飲むようにすることで頻度を抑えることができた(たまに忘れちゃうとひどいのね)。 また、短期的な引き金がタイミングだとすると、長期的な引き金=バックグラウンドも大きい。たとえばよく言われることだが、僕の場合も、仕事上のストレスが確実に関係していることが帰納的に分かっている。家族と一緒に住むようになってから、ストレスがいくぶんか軽減された。これによってある期間に集中して頭痛が起こることはなくなった。 全体的に頭痛の頻度は減ったが、頭痛が起こるバリエーションが一つ増えた。それは、睡眠中の頭痛である。睡眠中なので閃輝や暗点などの前兆を認識することはないが、強烈な頭痛で目が覚めることはあった。偏頭痛の強度が弱いときは、翌朝ぼんやりとした頭痛と吐き気だけが残っているということもあった。 さて、昨日、山形の大学病院で新たに薬を処方してもらったわけだが、いくつか変化があった。 まずテラナスが取り扱われていない。同じカルシウム拮抗剤であるミグシスを代わりに処方してもらった。それから、薬の服用についてこれまでとは異なる示唆を受けた。これまではテラナスを一日2回服用して経過を見るということだったが、これからはできるだけテラナスに頼らない方がよいということである。というのも、ある種の依存

この年齢で書くことではないな

仕事、抱え込みすぎな状態になっておるな、と本日、他人事のように発見した。本来抱え込みがちな性分なので、そうならないように気をつけてはいるつもりだったけども、こなさなければならない仕事量が増えると、こなすために抱え込みの穴にはまりこむ罠。体のシグナルとまでは行かなくとも、ほら、ブログの更新が異様に低下しているところから見ても、なんか違うぞと思うべきであった。仕事を開く方法を考えねば。抱え込みながら達成した高い結果と、抱え込まずに達成した低い結果は、間違いなく低い結果の方に大きな意味があると思おう。高いが意味がない結果があるんだということを強く思おう。抱え込みの穴にはまりこまないために。 ・他人への不満が増える ・〆切ギリギリの仕事が増える ・理不尽な状況への沸点が下がる ・自分が回さないと回らないかもと思いこむ ・やりたいこととやらなければならないことの違いが判断しにくくなる こういうことって、大丈夫なときは全然どうとも思わない。大丈夫じゃないときは気づけない。だから大丈夫なときと、大丈夫じゃないときの端境期でないと、気づけないことなのかも。これをサインだと思おう。 自分が出しているサインではないものに、「何となく周りの人の目線が優しくなる」というのを挙げておきたいけど、まあオチにはならんな。

鬼のテレプシコーラ読了

山岸涼子『テレプシコーラ』(→ amazon )第1部全10巻、やっと読みあげた。書き上げた、という言い方が本気で艱難辛苦を乗り越えて、という意味合いを含むのなら、ここはもう全力で読み上げたと表現したい。 忙しいのと、中身が辛すぎるので1ヶ月以上かけてちょっとずつ読んでた。マンガ読むのにこれだけ時間をかけるのは、僕としてはそうとう異例なことだ。読み終わってみて、総合的に、やっぱりしんどかった。このしんどさに何となく覚えがあると思って色々思い出して見るに、三原順の『はみだしっ子』(→ amazon )か?なんつーかもう辛すぎる。こんな読後感のきつい作品は久しぶりかもしれない。なのにこれ、絶対また読んでしまうと思う。ううう…。まあここにウソは書いてない。ウソの話だけどウソはないのでよりきついというか。平成のこのご時世にこれだけごつい70年代臭のするきっつい作品を生み出すとは山岸涼子おそるべし。そりゃあ話題にもなるはず。読むきっかけをつくって下さったユーゾッタさんをお恨み申し上げつつ、感謝申し上げる次第。

揺るがず直観させつづけるもの

山形の夜はとても静かであるゆえに、夏の盛りであるにも関わらず、夜の雰囲気は全然矢野顕子が行ける、ということに3年目にして突然気付いた。東京に住んでいたときは全く聞く気にならなかったのに。気温や気候に応じて聴きたい音楽を選んでいるのは、音楽への欲求が身体の色々な感覚との調和を求めているからなのだろう。耳でしか聞けないはずなのに、人間の外界認知はそう単純ではないようだ。 話は変わるが、音楽について特権的に語ろうとする人がいるのはなぜだろうと思うことがある。音楽は誰か特定の人(たち)のものであると叫ばれる可能性を持つものであることは、音楽がどのように使われるかという含みでは理解できるが、誰かだけのものではないし、誰かの語りだけが特権的な立ち位置を保証されるものでもないはずだ。たぶん、音楽はどのようにでも語れる何かを持っている。社会やコードや文化でどれだけ解釈しても、そこから漏れ落ちる何かがある。もちろん、少なくとも僕がここで触れている音楽とは構築されたものであるから、構築主義的に解釈することはできる。でもそれだけではない、と直観させてしまう何かがある。それはおそらく、言語による認知世界の作り方と、音楽によるそれとが根本的に異なるからなのだと思う。 と、ほとんど何も言っていないような、論説文的には落第を喰らうような書き方だが、たとえば構造分析を行ったために「楽しかったものが楽しくなくなってしまった」と投げ出すことでもないし、逆に構造分析を矮小化して「全然音楽のことが分かっていない」と上から目線を決め込むことでもないと思うのだ。何をどうしたって、音楽はやっぱりそこに何かの存在を直観させ続けるはずで、そのことはどのように語ったところで何ら変わることではない。だから、何もおそれずに、誰もが好きなように音楽を、好きなだけ語ればいいと思う。

いいよ、いいんだよ、だめよ、だめなのよ

仕事まみれで身動きが取れない約3週間を過ぎた。一段落したので、久しぶりに余裕を持って子供と会話してみたら、この3週間で無アクセントコードを獲得していてマジ驚いた。うわー。うわー、というのと、ちゃったというのはまさに僕のモダリティ(広義の)を反映していて、まあ無アクセント地域として知られる山形県村山地方に住んでいるのだから十分に予測していたことだけど、やっぱりうわーなのであった。結局、僕はここに3年住んでいて、やっぱり関東共通語的な、有アクセント言語の持つ高い威信(prestige)を、脱構築(笑)できていないことが確認できたのだった。 それはそうとして、方言社会における方言と共通語のダイグロシア的使い分けよろしく、仮に無アクセント的しゃべりを獲得していても、少なくとも3週間前までは僕の前では有アクセント的しゃべりであったから、2つのコードを使い分けているのだろうと思っていた。今でも若干その残り香はただようが、無アクセントのコードが一人勝ちして使用領域を広げている気配。いいよ、別にいいんだよ、と言語研究の人は価値判断と無縁な顔をしようとする一方で、いやぜったい嫌だと価値判断の海にどっぷりと頭の先まで浸かってしまっているのであった。 (レンタルビデオのお店にて) 子供「仮面ライダーのカブトってつえーんだよ、知ってるお父ちゃん?」(カブトが平板らしきアクセント:山形的なピッチパタン) 僕「仮面ライダーカブトなら強いよね」(カブトをムキになって頭高で発音:非山形的なピッチパタン) ムダだと分かっています。いいよ、いいんだよ、だめよ、だめなのよ。引き裂かれる自己。

終戦直後、心の日伯交流

昨年、安井 健一『「正義の国」の日本人 なぜアメリカの日系人は日本が“嫌い”なのか?』(→ amazon )を読んだ。マイク・ホンダ( マイク・ホンダ - Wikipedia )による「慰安婦をめぐる対日謝罪要求決議案」が、日系人から提起されたことに素朴な興味を持ったからだった。移民者が、「本国」と表向き関係が切れても、在住国と「本国」との政治的関係の影響を受けずにはおれないということが丹念にレポートされていたのをぼんやりと記憶している。 で、という前置きでもないが、僕の今年で101才になる日本の祖母は、いわゆる「旧満州」からの引き上げ組の母子家庭で、戦後ずいぶん苦労をしたらしい。その際、祖母が援助を受けたララ物資( ララ物資 - Wikipedia )は南北アメリカ 大陸 在米日系人からのものだったということを、さっき初めて知った。祖母からはララ物資の話をそれこそ耳タコで聞かされていたのだが、僕にとって身近な人の繰り返される話は、身体に刷り込まれるけども意味や由来を問うことがどうも少なくて、このザマ、ということでもある。 その祖母が、 時事ドットコム:ブラジル移住100周年 として、「終戦直後、心の日伯交流」という記事に写真付きで取り上げられている。戦後ブラジル日系移民は、ブラジルが連合国であったことからして、相当苦しい立ち位置にあったことが推測されるが、そのような状況下での援助だとしたらひとかたならぬ苦労があったのだと思う。まあ、あまり知らない領域の話なので、紹介にとどめておこう。

行間を埋め尽くすもの

ベルトコンベアに乗った「仕事」を左から右へ手際よくこなさなければならず、まあ仕事って質という側面とフローという側面と両方あるわけで、考えずにこなして流すという作業もそれはそれとして通奏低音みたいにしてあり続けるわけで。しかし振り返ってフローの側面を見続けてきた仕事の質を問うと怖いことがあったりする。先月末はそんなことの繰り返しで肉体的にも精神的にも疲弊した。とか言う割に、狭い行間を埋め尽くすようにマンガだの本だのを読んだり音楽を聴いたりしているのは、まだまだやれる、いややりなさいということなんでしょうね。何よりこのところさぼっているのは、明らかに子供や家族との時間のやりくり。これは近いうちにどうにかしないとマジいかんなと思う。実は昨日は上の子供と二人で山登りをしたんだけど、これはまた別に書きます。 先月の僕の行間を埋め尽くしたマンガの一部を。 よしながふみ『フラワー・オブ・ライフ』(→ amazon )を全巻。よしながふみ『あのひととここだけのおしゃべり』(→ amazon )。よしながふみ『それを言ったらおしまいよ』(→ amazon )。やー、自分暇なんじゃないかというと、ムキになってそんなことはない!と声を大にして言いたい。むしろよしながふみのおかげでこの5月を乗り切ることができたのだと思いたい。特に、対談集『それを言ったらおしまいよ』の羽海野チカとの対談で、仕事に対する考え方が開陳されるところは、共感と言ったら土足で踏み込む感じがするかも知れないけど、ともあれ力づけられる感じがして、よしながふみ読んでて良かった~って思ったよ。 それとは真逆の方向から僕を力づけた、尾玉なみえ『アイドル地獄変』(→ amazon )。人間にはテッテ的に不謹慎でくだらないものでしか癒せない心の領域があるんだ!ウソ、いままた適当言ったゴメン。僕はねえ、ホントは『役割語』の題材として、この作品に出てくる出毛まいねを使いたかった。こんなに不謹慎なキャラは尾玉マンガ史上いたことがない。しかしこのキャラを使うことは受講者に対してほとんどケンカを売っていることになるんではないかと思って、しっぽ巻いたよ。くるんくるんに巻いた。しかして今はそのことを深く悔いています。だからここに画像を出してこの思いを弔いたいと思います。以上。

冨樫の母校でハンターを語る

講義でどのように語るかということは、自分にとっての旬が大きいなあといつも思う。何を語るかではなくて、それをどう語るかという問題。たとえば近代国語の成立みたいなことの延長に、植民地時代の台湾における日本語教育をテーマにすることがあるんだけど、どうも熱が入らない。どうもある程度自分の中で落ち着きどころを見つけてしまったテーマは、淡々と語ってしまう傾向があるようだ。講義は常にそのときそのときの自分にとってホットなことを扱った方がいい、できれば研究と絡めて、とかつて先輩からアドバイスをもらったことがある。ホントにそうかもと思う。 テーマに対する新しいアプローチを勉強したときや、新しいテーマを扱うときは全然熱の入り方が違う。最近は、ようやく東北方言の音声をきちんと勉強し始めたので、やっぱり楽しく語ることができる。先週はいわゆる「役割語」(創作ものの中で、特定のキャラクターが言葉によって強固なイメージが付されている場合、あるいはその逆の場合、使われている言葉を「役割語」という。 Amazon.co.jp: ヴァーチャル日本語 役割語の謎 (もっと知りたい!日本語): 金水 敏: 本 および Amazon.co.jp: 役割語研究の地平: 金水敏: 本 を参照)をテーマとして、HUNTERxHUNTER(→ amazon )のコムギというキャラクターに現れる東北方言音声を取り扱った。非常勤先の冨樫の母校で冨樫の作品を取り扱う喜び…これってテーマに対する何の新しいアプローチでもないな。

ベルリンの赤い雨

ブロッケンJr.。 5年くらい使っていたメガネが真ん中からパッキョンハでございました。新しいメガネができあがるまでの約10日間、コンタクトで過ごさなければならないのですが、残りのワンデイアキュビューが8セットしかない…。

space truckin'

asahi.com:ディープ・パープル名盤の1曲、収録は大阪でした - 文化・芸能 とのことだが、間違われていたのはスペーストラッキンとのこと。そもそも僕なんかは東京のライブ一本だと思っていたよ…。にしても、この手のことはコアなファンの間では知る人ぞ知るみたいな飲み屋のウンチク話として流通していたのではないかと思われる。だって誰も気づかなかったって、あり得るかなあ。今日あたりG街では「そんなことは俺は20年前からとっくにお見通しよぉ」などと吹いて回りながら、デビカバは整形してからバンド参加を認められたんだぜえ、などと得意満面に語るヤカラも同時多発的に現れることでしょう。日本、平和です。 「ライブ・イン・ジャパン」は、東京・日本武道館と大阪・フェスティバルホールであった72年の初来日公演を収録。89年にCD化された際、7曲目の「スペース・トラッキン」の収録会場を日本武道館と記したが、正しくはフェスティバルホールでの演奏だった。昨年末、大阪のファンから指摘を受けワーナーが調べたところ、誤りが分かった。 73年のニューヨークでのライブを記念に(何のだよ)。 YouTube - Deep Purple - Space Truckin' - New York 1973 。 便乗してジョン・ロードのソロ。ハモンドオルガン大好きです。

原稿用紙の使い方

今回の日本語学会は、なんか不思議な大会だったなー。企業セミナーみたいな話もあったし、内部告発みたいな話もあった。もちろんきちんとした研究の方が多かったんだけど、正直、印象はそちらに持って行かれた感じがする。なんかもう、詳しくはここには書けない感じ。シンポジウム「漢字文化と日本語の未来」は、常用漢字への追加漢字の話題もあって(→ asahi.com:「鶴」「亀」「尻」…常用漢字の追加候補 220字公表 - 文化一般 - 文化・芸能 )、いい意味で波乱含みな企画だったのに、結果的にそんな釣りには乗らないぞ~という会場の空気があらぬ方向に向かって、あんまり良くない展開を見せた。 むしろ学会後のこじんまりとした飲み会で、教育の現場ではどうして漢字や送りがなや同訓異字の書き分けに、あんなにやっきになっているんだろうと話したことの方がずっと楽しかったなー。中でも面白かったのは、漢字の話題ではないんだけど、原稿用紙の使い方に関わる話。原稿用紙は、その名の通り「原稿」のための用紙なのであって、正式なものではないのだと。いずれ写植されて印刷される前段階のものなのであって、印刷物への移し替えが効率的に行われるためのルールがいわゆる原稿用紙の使い方である、というわけ。したがって原稿用紙の使い方が一人歩きして、ルールを守らないと×にするという話は本末転倒で、写植する人にとって見やすくするというのが本義。なるほどなあと思った。原稿用紙の書き方に異様にこだわる現場は、いったい何のためにやっているんだろう?と問うべきと思う。wikipedia(→ 原稿用紙 - Wikipedia )、近代の作家たちの原稿料払いの規格化と関係があるような書き方がされているが、まあ飲み屋の吹き上げ話なんでそもそもが正確さは保留しなきゃなんないでしょうね。 そいで久しぶりにその後ゴールデン街に流れる。友人と軽く飲んで帰宅。ふう。

2台目のサーモス

妹夫婦からサーモスのステンレスボトルをもらった。ふたのところがカップになってるタイプだ!自分のコーヒー持ち運び専用に黒いサーモスを使っているのだけど、直に飲む使用になっていて誰かとシェアできたりはしないので、これはうれしい。と書いても、妹夫婦が住んでいる中国ではgoogleのbloggerは閲覧制限されていて見えないのだよね…(というか見えないからすでに持っているサーモスのをプレゼントしてくれる羽目になっちゃったわけだけど。もちろんこれはこれで重宝する!) プリンに塩を入れすぎた、じゃないけどずっと昔、妹二人が同時にコーヒーミルをプレゼントしてくれたことがあって、うれしかったけどタイミングがこんななのが笑える。僕もそういう間の悪い何かをしたような記憶がある。我が兄妹はこんな感じでいつも間が悪いのだろうな。

KORG DS-10

KAOSSILATOR Dynamic Phrase Synthesizer |KORG INC. もそうだし、こないだ niji wo mita: テノリオンが欲しい で触れたテノリオン、今度はNINTENDO DSで遊べる KORG DS-10 | AQ INTERACTIVE の登場と、このところのおもちゃと電子楽器の接近はワクワクするものがあるなあ。 4800円でここまで遊べるなら、初心者でも手が出せる感じです。

水田地帯に出現した異空間

県道を車で走っていると、歩道のガードレールに自転車をもたれかけさせて、そのすぐわきにおじいさんが倒れていた。いったん通り過ぎたのだが、心配になってUターンし車を止めておじいさんに声をかけようと近づいたところ、よく見ればおじいさんはゴザの上に寝ていたのだった。大丈夫、疲れたからちょっと休んでたっけよとあっけらかんとした調子だ。そっか、邪魔したねと言いつつも、やっぱりあり得ない。新宿じゃねえんだぞここは。 用事を終えて数十分後同じ場所を通りかかると、もうおじいさんはいなかった。昼間の涼やかな水田地帯を横切る県道での話。のどかすぎる。

適応する能力

いつも近所のダイハン(小規模チェーンの地元スーパー)に徒歩で買い物に行っている妻を、ちょっと離れたヤマザワ(中規模チェーンの地元スーパー)に連れて行ったら、カートにアメリカ人みたいに食材を詰め込んでいる。明らかに興奮している風だ。興奮してない?って聞いたら、興奮しているって。帰宅してからも、いや~ヤマザワには興奮したなあ、広いフロアにたくさんの食材、だって。広さも量もまあ相対的なものではございますから。 君は数ヶ月前まで、三越も松坂屋もそごうもないところで暮らしていけるかものすごく不安がっていなかったか。という山形にいる人じゃないと絶対分からないちょっと切ないネタ。 * * * * * 共同授業の準備を2本上げて、無アクセント地域のイントネーションの論文を読む。音調句の現れ方に意味に応じた規則性がある、ということを音響分析の観点から論じたもの。おもろい。子どもと借りてきた「のび太の日本誕生」(→ ドラえもん のび太の日本誕生 - Wikipedia )と「ベルヴィル・ランデブー」(→ 映画「ベルヴィル・ランデブー」オフィシャルサイト )のDVDを見る。のび太の~シリーズを子どもと見るのは3本目だが、映画世界のジャイアンがいい人だというのは定説として、映画世界ののび太の住む町は関東郊外型ですよね。普段はサザエさんとかと同じ下町風情なのに。ベルヴィルランデブーは絵も良かったし音楽も良かった。ジプシーギター風のテーマソングもいいし、とか書いてるけど作中にジャンゴ・ラインハルトに似せた男性が出てくるので、風じゃなくてそのものを意図しているんだろうな。気持ちよかったー。

帰化申請時の名前変更メモ・続

こういうページもあるんだなー。「 帰化申請サポートセンター.net 帰化後の名前 」では、次のように記載されている。 帰化後の名前は、ひらがな、カタカナ及び人名漢字表に載っている漢字の範囲で自由につけることが可能ですし、通称名をそのまま使うこともできます。 法務局へ行くときの心構えや(→ 帰化申請サポートセンター.net 法務局へ行く )、納得行かないケースの相談案内(→ 行政相談シンボルマークを作製!行政苦情110番を全国統一番号化! )ページへのリンクまで張られていて、あら用意周到だこと。これってやっぱり行政処分とか行政行為って呼ばれる領域の問題なんでしょうかね。 (関連エントリ) niji wo mita: 帰化申請時に名前の変更を迫る niji wo mita: 帰化申請時に名前の変更を迫るについてのメモ

マンガ3つ

久正人『ジャバウォッキー(4)』(→ amazon )、切り裂きジャックとナイチンゲールのお話。荒木飛呂彦『スティールボールラン(15)』(→ amazon )、今回のスタンドは作品中もっとも難解かも。新井英樹『RIN(3)』(→ amazon )リンが立ち直って円満解決、ではとどまらない新井英樹ならではの展開があるのでしょう。

帰化申請時に名前の変更を迫るについてのメモ

一つ前のエントリ niji wo mita: 帰化申請時に名前の変更を迫る についての、メモメモ。 マイノリティの地位と権利 - PukiWiki によれば、  政府は2000年7月14日答弁書で、『-手引』で「帰化後の氏名」欄に日本人らしい氏名を例示しているのは、「帰化許可申請者の大半が、帰化後の氏名として日本人らしい氏名を使用することを希望している実状を踏まえたことによる」との見解を示した。日本式氏名に変えるという法的規定もなければ、強要もしていないと公言しつつ、実際には、民族名の変更を求め、しかもそれが本人の希望だと言うのは、かつての朝鮮総督府と同じ手法である。 とのこと。特別永住者の置かれた微妙な立ち位置を考慮すれば、この記述にも一定のバイアスがかかっている可能性を保留する必要はあるだろうが、ともあれ「大半が帰化後の氏名として日本人らしい氏名を使用することを希望している実状を踏まえた」というあたり、それが仮に事実だとしてもそれがどのような契機で立ち現れた「内的動機」であるかはもちろん別問題だろう。 基本的には、国籍と名前を「日本に住むなら当然そういう気持ちになるはずだ」だとか「国籍と名前は連動する」みたいな押しつけは、端的に同化政策だと思う。国家と名前はいちおう別物と見る必要があるだろう。 僕は個人的には国籍は国家のサービスを受ける権利(と共起する義務)の問題であって、名前はアイデンティティの問題だと考えているが、国籍こそがアイデンティティのよりどころで名前は大した問題ではない、という立場があることも一つ前のエントリで示したとおりだし、それはそれとして十分な根拠があるんだろうとは思う。 国籍と名前のどちらが大事という話は実は本質的な問題ではなくて、両者はどちらかがどちらかの包含関係になっているんじゃなくて、別々に選択できるものであるべきではないのか、ということだ。

帰化申請時に名前の変更を迫る

先日留学生と話していて、帰化の話題になった。日本人学生も混ざっていて、帰化すると具体的に何が起こる?みたいな質問が出た折りに、留学生は驚くべき答えをした。 「帰化するってことは、日本人の名前に変えなければならないってことだよ」 うおーいマジか本当にそう思ってんですかとつい勢いよく突っ込むと、少なくともうちの界隈の留学生はみなそのような理解をしているという。いやいや。人権マターだから、それは微妙な領域に踏み込むことになるけど、たとえば日本人風の名前にしなければ日本国籍を取得することはできない、ということはないはずだと強弁した直後に附属の留学生担当部署に行って、尋ねてみた。 すると、「国籍を取得するってことは名前もそれ風に変えるってことでしょ」と驚くべき答えを出す人もいる。「いや、名前を変えさせるってことは人権マターじゃないの?国籍と名前は別じゃないすか」と突っ込みかけると、外国籍を持ちつつ日本で生活している職員が「名前を変えることなんて造作もないこと。国籍を変えることのほうが重要問題だ」とか言い出して、百花繚乱な場となった。ま、国籍と名前を同じに捉える人、名前のほうが大事だと捉える人、国籍が大事だと捉える人がいるようで、人権マターだと言う僕もかなり一方的な議論の仕掛けかたをしているなとは思った。 * * * * * しかし、そういう個人のナショナリティへの向かい方はそれぞれあるとしても、やっぱり国籍を変えるときに名前を変えることを制度的に強制される、ないし事実上強制されるということがあったら、それは僕個人の倫理観としては強く違和感がある。ウィキペディア(「 改名 - Wikipedia 」の項目)によれば また、日本の国籍を持たない人が日本に帰化するとき、国籍を取得したことを分かって貰うために改名を行う場合がある。 これは、帰化もしくは国籍を選択する際に薦められる行為であって、必ずしも日本風の名前に変更する必要は無い(とはいえ、実態として、日本風の名前に変えなかったことを理由に帰化を却下された実例がある。 とあり、この範囲では分からない話ではない。たとえば山形のような地域の力が強い場所では、いわゆる日本風の名前のほうが便利なことはあるだろうから、そのように薦めることはあるかも知れない。問題は、後半のような実態があるということだろう。なお法的な根拠があるのだろうかという

ミャンマーサイクロン続

ミャンマーのサイクロン被害の続報によれば、2万人以上の死者、4万人以上の行方不明とのこと。" BBC NEWS | Asia-Pacific | Burma's cyclone death toll soars "では、途中まで15000人の死者だったのがこれだけの数字に変更されたのは、サイクロンそのものではなく、高波の影響とのこと。3.5メートルの波が海抜の低いところに住んでいる住民を襲ったらしい。昨日も書いたことだが、数万人単位の死者が出る震災というのがピンと来ない。想像力の欠如ということよりも、それよりも想像力の範疇を超えているという感じに近い。ここ、" BBC NEWS | Special Report | Timeline: Major tropical cyclones "によれば歴代のサイクロンの被害規模が掲げられている。バングラディッシュを襲った'91年のサイクロンは14万人?広島原子爆弾とほぼ同じ規模だ。戦争でなく、これだけの人間が1件の自然災害で亡くなることもあるのか。何かが麻痺する感じだ。 ミャンマーのことは、たまたま教えている留学生がいるのでこうして気になっているわけだが、軍政が敷かれていること、軍政に抵抗するアウン・サン・スー・チーのことわずか、を除いて実のところほとんど知らない。これだけの被害が出ているにも関わらず、新憲法案についての国民投票を予定通り強行する、といったあたり混乱は長引きそうだ。

ミャンマーのサイクロン

ミャンマーをサイクロンの影響で、4000人近い人が亡くなったという。教えている留学生はいまどんな思いで日本の連休を過ごしているのだろう。さしあたり、情けないばかりだが、被害者に近しい人がいないことを祈る。 " ミャンマー、サイクロンで約4000人死亡 写真21枚 国際ニュース : AFPBB News "では3969人の死者が出ていると報じられている。" BBC NEWS | Asia-Pacific | Burma's storm toll 'nears 4,000' "では3000人近くの行方不明者と40名程度の負傷者を伝える。圧倒的に負傷者が少ないのはやや不自然に感じるがどういうことだろうか。国際ニュースのサイトに上がっている写真は台風一過という感じのものばかりで、事態の深刻さはいまいち伝わってこない。" Myanmar death toll 'could reach 10,000' - CNN.com "では1万かよ!という数字はさておき、被害の様子が動画で伝えられる。 4日のニュースでは351人と報じていたのが、5日になって10倍以上の数字となった。軍事政権がやってる国営放送だ、ということをどのような重みで解釈すればいいのか分からないが、1999年にインドを襲ったサイクロンが1万人の死者を出したということを考えれば、あり得ない数字ではない。イラワディ地区だけで約4000人だというから、数字が正しければ今後報告される数字は増えるのかも知れない。阪神淡路大震災の時も、最初はとても少ない数字が報道されていた。 自然災害で亡くなる人の数というのが、どれだけたくさんなのかいつも感覚的につかみにくい。ひどいことが起こっているのだと思う。

尾玉なみえ新作

久保保久『よんでますよ、アザゼルさん。1(1)』(→ amazon )、笑いが稲中っぽい懐かしさ。下ネタがえぐいので人を選びます。イブニングで連載していいのかこれ。うすた京介『セクシーコマンドー外伝すごいよ!!マサルさんウ元ハ王版 4』(→ amazon )、これで腹を抱えて笑っていたのが懐かしい。いまでも読むといい脳波が出てるのが分かります。今回のコメンタリーはハチクロのひとがいちぶ担当していて、ハチクロがマサルからものすごく影響を受けているのが分かりました。舞台とか芸術系の人に人気あるよね、マサルって。 ジャンプSQ6月号(→ amazon )の読み切りが、尾玉なみえ大先生!これまで、荒木飛呂彦、鳥山明・桂正和と大御所がめだっていたゲスト読み切りですが、ここへ来て尾玉なみえという編集部の英断に熱いエールを送りたいと思います。相変わらず不謹慎な笑いでした。面白いなあ。先月の鳥山(原作)・桂(マンガ)というのもとても面白かった。鳥山は一貫してシリアスな展開とかテーマとかが嫌いで、桂はすぐテーマとか人間とか言うので、噛み合わない感じがインタビューと作品から滲み出ていて、作家性がどかっと前面に出てくるおもしろさ。個人的には、連載漫画にはあまりピンと来ないのだけど、ゲスト読み切りは一癖あっていいと思いますこの雑誌。

昼寝とおやつが必要なとき

リベラルヅラを決め込んでいる上司がクソマッチョだったときの憤懣やるかたない感じ、いや逆ですね、クソマッチョなくせにリベラルを装って進歩的な人間ヅラしているのを見るほど首しめたろか、って思うことはないですね。こういうヤカラは装いでしゃべっているので対話のしようがありません。親方日の丸・美しい日本、で首尾一貫しているほうがよっぽど対話できるってもんだ。で、何か語らせるとぜんぜん勉強していないくせに研究者批判をしながら、かならず本質主義的なところに落ちて「古来変わらぬ日本の心」「まごころ」「感情」が大事とか抜かす。心や感情がどんだけ社会や歴史の文脈から自由だと思ってんだろう、とたまには全力で愚痴らせてください。思い出し怒りにつつまれるときは、まず寝不足栄養不足である可能性が高いので、おいしいものでも食べて昼寝します。

血液型ハラスメントというのはマジで存在するか

「B型の人は時間を守らない」というハラスメントに本気で何度も抗議してもぜんぜん聞き入れてくれない人が世の中にたくさんいるので、ここいらでネタ的に抗議します。真剣にネタ的に抗議します。いいか、よーっく聞けコラ。 * * * * * 90年代の知られざる名作マンガに山田芳裕『度胸星』(→ amazon )がある。ヤンマガがまだサブカルくさい元気さを保持していたころの連載だ。打ち切られてしまったために、未完の大作などとも言われているようで、きちんと終えることができたらSFマンガの金字塔になったのではないかと思う。というようなことはネットでさんざん書かれているので割愛。最近デラックス版が出たことを喜びたい。 偶然書店でNewtonの別冊『次元とは何か―「0次元の世界」から「高次元宇宙」まで (ニュートンムック Newton別冊サイエンステキストシリーズ) 』(→ amazon )を手にとってめくってみた。宇宙の外はどうなってるの的子どものヘリクツから抜け出ることのできない5歳児病(うちの子どもと同い年だ)としては、この手の話題にはいつもすぐ飛びついてしまって、でもなかなか理解できずに積ん読状態となるわけだが、今回のは一般人向けに書かれているためにすごく分かりやすかった。 面白かったのは、度胸星にも出てくる4次元の物体「テセラック」についてだった。面積を持たない線が1次元、高さを持たない面が2次元、高さと面を持つのが3次元とされる。それにさらに一つの要素(次元)を加えたものが4次元とされる。物理学では理論的に記述される4次元というものが、直感的にはなかなか理解できないのだが、そしてそれはわれわれ人間が3次元の枠組みで感覚できる世界しか生きていないから当然なのであるが、直感するとしたらどんな感じなのだろう、と思った人は僕だけではないと思う。度胸星では、その直感できない4次元の超立方体と言われる「テセラック」なるものが、8個の立方体で模式的に描かれている。それが連載当時は僕の好奇心を激しくかき立てたものだった。 その「テセラック」は、山田芳裕なりの創作かと思っていたら、きちんと理論的背景があったのだと知った。別冊ニュートンによれば、概略次のように説明される。 1. 線分は、2個の点によって囲まれている。(1次元) 2. 正方形は、4本の線分によって囲まれている。(2次元) 3.

塩豚と筍ご飯

タマキさんに教わった塩豚の料理に初挑戦した。豚バラブロックの全面に塩を塗り込み、ジップロックで4日保存し、熟成が進んだところを炒め物にする。タマネギと小松菜と。塩豚がいい塩梅に漬かっているので調味料は一切使わなかった。オカヒジキのカラシマヨネーズ和え、エノキのおみそ汁。それと、季節ならではの筍ご飯。妻が下ゆでをしてくれていたので、油揚げとシメジと併せて具とした。 最近変わったことは、仕事の合間、夕方頃にいったん帰宅してご飯を作ったり食べたりすること。それから、ご飯は大きな鍋でどかっと炊くこと。7合くらいはたぶん行ける。一人暮らし用の炊飯器はもうそろそろお蔵入りかな。 タマキさんありがとう、そして写真には不穏な飲み物が写り込んでいて大変申し訳ない…

味覚に人としての尊厳を奪われる

同僚においしいパン屋を教わったので、さっそく試してみた。店内にはカフェも設けられている、いわゆるコジャレまくりなお店で、レジ打ちの女性も、いかにもといった感じで雇用者の「コジャレパン屋ステレオタイプ」がよく分かる体裁となっている。これが見るからにうまそうで、食べる前から予定調和的に「やっぱりおいしかったです」と言うのが分かり切っているつまらなさもあるのだけど、ともあれ何故に僕はこうまでゴタクを言いたがるのかというと、理由がないわけではない。 杉並で貧乏生活をしていたとき(今も大して変わらないけど)よくお世話になっていたパン屋があった。サンドイッチが2ピースで120円、しかもお野菜たっぷりで、家庭で作るような水分でしなしなになった感じの、商品を並べているお店だった。パンの耳ご自由にお持ちください、は当然のこと、それを揚げて砂糖をまぶした子どものお菓子を一袋30円で売るようなお店だよ。パン屋なのに割烹着を着たおばあちゃんが店番をしているようなお店だ。ところがある日、その数十センチも離れていない鄰に、本場で修行しましたみたいな、普通の小麦粉でいいだろうというところに全粒粉とか使ってみせる、いちいちメニューの下に素材を書き記してアレルギーにご注意くださいと先進ぶる、もちろん味にも自信があって、そして恥知らずにも道ばたにバターのいいにおいをまき散らすような、そんな訴求力のある商品くささを垂れ流すコジャレたパン屋ができてしまった。そういう仁義なき戦いは自由が丘とかそういうところで勝手にやれよ!ここは新宿線沿いの比較的低所得層が住む場所なんだよゴラ!と妻と二人で気炎を上げていた。僕と妻は、絶対その店で買わないぞと、たった二人の力なき不買運動を展開することになった。 しばらくお世話になっていたパン屋に通い続けると、明らかに客足が遠のいているようで、夕方に入ってもあの売れ筋サンドイッチが残っている。自由にお持ちくださいのパンの耳もいつの間にかやらなくなってしまっている。砂糖をまぶしたパンの耳を揚げたものは、ビニール袋のなかで古そうな油がしみ出している。だれがみても斜陽である上に、そのお店の同じく割烹着を着た若女将の盛り盛りのおしろい(丸尾末広の描く昭和の女性みたいな感じの怪しい色気がある)が、ナチュラルメイクとかじゃない方向に明らかに薄くなってきていて、化粧をしないで店に立つこともあ

テノリオンが欲しい

もしいま自由に使える潤沢な財源があったら、僕はテノリオン(→ TENORI-ON | ヤマハ株式会社 )がほしい。子どもの情操教育にとオクサマを籠絡しようとひそかに画策しているが、そのまえに情操教育特定財源の閣議決定を! 見てくださいこの直感的なインターフェイスを。16×16の盤面に表示される光の明滅が音楽とリンクしていて、簡単に音楽を作ることができますよ。ここで紹介されている操作法一覧(→ 操作法 )が素敵すぎます。直感的インターフェイスのアナログ界の雄がテルミンだとすれば、こちらはデジタル界の雄ですよ。これはもうこれからの情報化社会を生き抜く、新時代のお子様の豊かな創造性を伸ばすのに最適ですよ。早期英才教育ですよ。どうですかオクサマ。 つーか何が早期英才教育だよアホが。そうじゃなくて、僕がこの楽器を使って「コンピューターおばあちゃんfeat.今年101歳になる僕のリアルおばあちゃん」でパフューム顔負けのおばあちゃんにauto-tuneかけまくりのアレンジで天テレに出演するもくろみにぜひご協力いただきたいわけであります。 このビデオ(→ ファンクションボタンの機能 )の操作例を見ながら、12万円は高い(おもちゃにしては)、高すぎると嘯く僕であった。レンタルとかしてくれないのかな。

おそるべし天テレ

先日購入したパフュームのCDに付属しているDVDを、妻に隠れてこっそり見ようとしたら、ポリリズムのフリができるとか言い出してどういうことかと小一時間問いつめてみた。天才テレビ君に出演していたのを子どもと一緒に見たらしい。あの幾何学的で時にエロい装いのダンスをうちの子どもも…。家族ではまるという事態だけはなんとしてでも回避せねば。オクサマのだけはすっかり別物で面白かったので許可の方向で。 DVDのほうは無事日の目を見ました。

polyrhythm/two months off

やばい。perfumeがジワジワ来ている。しかもCDで聞いてピンと来なかったのに、youtubeで動画で見ていると来るなあ。ポリリズムのチョコレイト・ディスコもすごく格好良く聞こえて(見えて?)しまう。聴覚だけでは脳の気持ちいいところをいじりきれなかったのに。僕の耳にはわりあい単調で刺戟や展開に乏しく聞こえていた曲に変なフックが与えられてしまった。まんまと釣られているっぽい。しかし中毒性が…。思えば修士の時にMAXにはまるというおかしな事態を迎えたのもヒッパレで見たダンスがきっかけだった…。 と思ったらこんなマッシュアップが。 そしてポリリズムのBPMを上げて、誰かアンダーワールドのtwo months offとマッシュアップしてくんないかなー。 いまさらですがこのビデオクリップ、ものっそい気持ちよさそう。