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長女誕生ほか

またも冗談のようなスピードで出産。23時に入院して約2時間後の出産となった。1/10、00:53、2512g。小さく生んで大きく育てる方針は上の子どもと同じ。山形から埼玉に駆けつけて、到着後30分で出産に立ち会えた。今日は全然予定日ではないのだが、夕方くらいに妻から「陣痛が来ない。産むためには安心が必要、安心したいから来てほしい」と言われて来てみればホントに生んだよこのひとは。そういう美談にする気まんまんな僕をよそに、終わってみれば「今日は大潮だから~」という平八郎ぶり。挙兵か。いや、これがツンデレというやつなのか、はたまたデレツンという身も蓋もない状態なのか、しっかりと生活の中で問い詰めたい。

山形からの道々、立会いまでの待ち時間、ずっと読んでいたのが松本克己『世界言語のなかの日本語―日本語系統論の新たな地平』(→amazon)。断続読みをしていて、今回の読みで終わらせるつもり。類型論的な視点から、日本語を環太平洋言語として位置づける。分析の主軸として、流音のrlの区別と来て、形容詞の体言型用言型の区別、名詞のカテゴリとクラスの区別の有無と来た。系統論でたどれない1万年の旅路を楽しめるつくりで、本当にこういうのワクワクする。古代の言語をさぐる話はやっぱり知的好奇心を激しく揺さぶられる。今回のは類型論的視点から超古代をさぐる試みだけど、そんな古くもない話として(というかもう麻痺している)西田龍雄『西夏文字』(→amazon)、チャドウィック『線文字Bの解読』(→amazon)もワクワクした。興味があるかたは是非。どちらも入門書なので、専門的ではあるけれども読みやすくはあると思う。

コメント

匿名 さんのコメント…
おめでとう!!!
女の子は可愛いぞぉ!
匿名 さんのコメント…
おめでとう!おめでとう!!おめでとう!!!
4月まで、大変だと思いますが、どちらもがんばってください。
うちの場合、上の子が思った以上に不安定になったので、そこらへんも。
NJM さんの投稿…
ごちすけさん

 天童に来てたみたいじゃんよー。山形でもいずれお会いできるかな。もっとも僕は週末まで所沢でカンヅメですが。女の子、上の男の子にそっくりでした。どういう子に育つやら。どうもありがとう。

つぇやんさん

 「おめでとう」の三段活用ありがとうございます。上の子はけっこう気丈に振舞っていて、そのうち一回がたっと来るだろうな、そのときに備えて気持ちの準備はしておこう、ってな感じでいます。
匿名 さんのコメント…
姫誕生、おめでとう!
立ち会い、間に合ってよかったね。
奥様エライ!!
ずっと一人っ子だった息子くん、4月からの住環境の変化も合わせて、ちょっとタイヘンそうだね。
我が家も近いうちに引っ越し、入園と続くので心配。
山形にも近づくので、そのうちぜひ顔を見に伺いたいものです。
NJM さんの投稿…
むらさわさん

山形では職場のすぐ近く(30メートル)くらいのところにある幼稚園に入れることにしました。

そちら、職場は新潟ってことかな。あるいは福島。もうちょい北まで遊びに足を伸ばしてください。来年は家族で迎え撃てるぜ。
munekata さんの投稿…
おめでとうございます!
NJM さんの投稿…
ムネカタさん

 わあ!どうもありがとうございます。せっかくコメントいただいたので関係ない話していいですか。5歳のほうの子ども、毎週電脳コイルを見ているようです。気づけばこないだはテレビでやった攻殻機動隊をじっくり見てました。電脳コイルは面白いけど、攻殻はわかんないけど面白いだそうです。5歳児が攻殻機動隊を分かっちゃってもあれですが、、、。父親はムネカタさんのところで紹介される電脳コイルへのコメントを見ながら、なかなか作品を目にすることがなく、息子への嫉妬心が燃え上がる日々です。

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お尻はいくつか

子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。

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