小林標『ラテン語の世界 ローマが残した無限の遺産』(→amazon)を読了。著者は京大系の方のようで、京大の独特のディレッタンティズムを感じることができた。前半がラテン語に関する記述、後半がラテン語による文学作品の記述、最後にわずか日本におけるラテン語ラテン語文学の受容に関する記述あり。
大学院生のときに、非常勤先の同僚の影響で、勇み足でラテン語を齧ろうとしたら堅すぎて歯が欠けてしまったことがある。そのとき読んだのが、逸身喜一郎『ラテン語のはなし―通読できるラテン語文法』(→amazon)で、ラテン語の屈折性について思い知るには十分な本。語学を身につけるのはどれにしたって相当の努力を伴うが、これはきついだろうなあということがよーく分かった。ただ、身につけるのではなく、言語の概要を分かったような気にさせるには十分な本。そういう意味では、今回読んだ『ラテン語の世界』も同じ。
ちょっと話はそれるが、石川九楊の本を読んだときにも感じた、「先人が作り上げてきた人為的構築物としての言語」観には、いまだ馴染めない。いや馴染むも何も、確かに言語には一部の知識人が伝承し、時に創作した単語が(というのは分かるけど日本語の場合漢文の影響のための語順とか言う人もたくさんいるから、、、)ある。しかしそれをもって、日本語を作った偉人とかいわれるとなぜこんなに違和感があるのかというと、僕が「言語は自律的で自然なもの」信仰に頭からやられているからだろう。
はっきりいうと、ちょっとこの感覚は古い。歴史言語学をやっていると、「自然な・自律的な」言語みたいなものを前提とすることが多い。たとえば音韻変化などに見られる規則的な変化は、明らかに人為的なものではないように思われる。しかし近年の社会言語学が明らかにするように、言語には人為性というものが不可避的に潜んでいて、音韻変化を担うような側面だけが言語の姿ではないことも「言語学的に」分かってきている。
で、言語について書かれたものはすべて著者の言語観があらわになってしまうわけで、本書も随所から匂いが発されていた。僕にとってとりわけ馴染めないのは、こうした人為的構築物としての言語観が、エスタブリッシュメントと結びついて、正しいものが俗なるものに堕落することを嘆くといったパースペクティブを持つことだ。そこが京大のディレッタンティズムなんであって、知的好奇心は掻き立てられるけれどもちょっと息苦しいってんで、一橋大と明確に袂を分かつところなのではないかと思っているがどうだろう。
閑話休題しまくる。脱線なげーな。ある言語の概要を知ることは、その言語を身につけるのとはまた違う楽しさがある。それはある宗教を知ることが、その宗教に入信するのとはまた違う楽しさを持つのと同じだ。実学的な立場からすれば、使えなきゃ意味ないじゃん!とか言われそう。それは否定しません。僕の意味とあなたの意味が違うんだからね、と僕はここで誰と戦おうというのか(笑)。でー、年末にインドネシア語をかじろうと思って、買ったのが降幡正志『インドネシア語のしくみ』(→amazon)だった。凡百の比較文化テイストのことば解説書ではなくて、純粋に言語学的な知見から書かれた楽しんで読めることばの解説書で、これはシリーズものでもあるんだけど、こういうのもっと増えればいいと思う。
大学院生のときに、非常勤先の同僚の影響で、勇み足でラテン語を齧ろうとしたら堅すぎて歯が欠けてしまったことがある。そのとき読んだのが、逸身喜一郎『ラテン語のはなし―通読できるラテン語文法』(→amazon)で、ラテン語の屈折性について思い知るには十分な本。語学を身につけるのはどれにしたって相当の努力を伴うが、これはきついだろうなあということがよーく分かった。ただ、身につけるのではなく、言語の概要を分かったような気にさせるには十分な本。そういう意味では、今回読んだ『ラテン語の世界』も同じ。
ちょっと話はそれるが、石川九楊の本を読んだときにも感じた、「先人が作り上げてきた人為的構築物としての言語」観には、いまだ馴染めない。いや馴染むも何も、確かに言語には一部の知識人が伝承し、時に創作した単語が(というのは分かるけど日本語の場合漢文の影響のための語順とか言う人もたくさんいるから、、、)ある。しかしそれをもって、日本語を作った偉人とかいわれるとなぜこんなに違和感があるのかというと、僕が「言語は自律的で自然なもの」信仰に頭からやられているからだろう。
はっきりいうと、ちょっとこの感覚は古い。歴史言語学をやっていると、「自然な・自律的な」言語みたいなものを前提とすることが多い。たとえば音韻変化などに見られる規則的な変化は、明らかに人為的なものではないように思われる。しかし近年の社会言語学が明らかにするように、言語には人為性というものが不可避的に潜んでいて、音韻変化を担うような側面だけが言語の姿ではないことも「言語学的に」分かってきている。
で、言語について書かれたものはすべて著者の言語観があらわになってしまうわけで、本書も随所から匂いが発されていた。僕にとってとりわけ馴染めないのは、こうした人為的構築物としての言語観が、エスタブリッシュメントと結びついて、正しいものが俗なるものに堕落することを嘆くといったパースペクティブを持つことだ。そこが京大のディレッタンティズムなんであって、知的好奇心は掻き立てられるけれどもちょっと息苦しいってんで、一橋大と明確に袂を分かつところなのではないかと思っているがどうだろう。
閑話休題しまくる。脱線なげーな。ある言語の概要を知ることは、その言語を身につけるのとはまた違う楽しさがある。それはある宗教を知ることが、その宗教に入信するのとはまた違う楽しさを持つのと同じだ。実学的な立場からすれば、使えなきゃ意味ないじゃん!とか言われそう。それは否定しません。僕の意味とあなたの意味が違うんだからね、と僕はここで誰と戦おうというのか(笑)。でー、年末にインドネシア語をかじろうと思って、買ったのが降幡正志『インドネシア語のしくみ』(→amazon)だった。凡百の比較文化テイストのことば解説書ではなくて、純粋に言語学的な知見から書かれた楽しんで読めることばの解説書で、これはシリーズものでもあるんだけど、こういうのもっと増えればいいと思う。
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