「B型の人は時間を守らない」というハラスメントに本気で何度も抗議してもぜんぜん聞き入れてくれない人が世の中にたくさんいるので、ここいらでネタ的に抗議します。真剣にネタ的に抗議します。いいか、よーっく聞けコラ。
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90年代の知られざる名作マンガに山田芳裕『度胸星』(→amazon)がある。ヤンマガがまだサブカルくさい元気さを保持していたころの連載だ。打ち切られてしまったために、未完の大作などとも言われているようで、きちんと終えることができたらSFマンガの金字塔になったのではないかと思う。というようなことはネットでさんざん書かれているので割愛。最近デラックス版が出たことを喜びたい。
偶然書店でNewtonの別冊『次元とは何か―「0次元の世界」から「高次元宇宙」まで (ニュートンムック Newton別冊サイエンステキストシリーズ) 』(→amazon)を手にとってめくってみた。宇宙の外はどうなってるの的子どものヘリクツから抜け出ることのできない5歳児病(うちの子どもと同い年だ)としては、この手の話題にはいつもすぐ飛びついてしまって、でもなかなか理解できずに積ん読状態となるわけだが、今回のは一般人向けに書かれているためにすごく分かりやすかった。
面白かったのは、度胸星にも出てくる4次元の物体「テセラック」についてだった。面積を持たない線が1次元、高さを持たない面が2次元、高さと面を持つのが3次元とされる。それにさらに一つの要素(次元)を加えたものが4次元とされる。物理学では理論的に記述される4次元というものが、直感的にはなかなか理解できないのだが、そしてそれはわれわれ人間が3次元の枠組みで感覚できる世界しか生きていないから当然なのであるが、直感するとしたらどんな感じなのだろう、と思った人は僕だけではないと思う。度胸星では、その直感できない4次元の超立方体と言われる「テセラック」なるものが、8個の立方体で模式的に描かれている。それが連載当時は僕の好奇心を激しくかき立てたものだった。
その「テセラック」は、山田芳裕なりの創作かと思っていたら、きちんと理論的背景があったのだと知った。別冊ニュートンによれば、概略次のように説明される。
とすれば、4次元は1~3の類推から次のように予測される。
グレイト。
また次のようにも説明されている。
とすれば、同様に、4次元は1~3の類推から次のように予測される。
グレイト!このような類推の仕方で捉えれば、感覚的にはつかみどころのないものが、何か分かったような気になる。というか、もし4次元の物体を直感で捉えられるような枠組みが人間に与えられる日が来たときには、きっとこの類推の枠組みに置き換えることで改めて直感と補い合うように理解されるはずだ。
こういうものを読むと、人間の類推する力ってすごいなあと実感してしまう。ないものを予測する力、というのは人間に与えられた認知能力のうち、創造に直結する力だなあとも思った。
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類推という考え方は、僕は言語学の初歩で習った。たとえば、古典文法で習うところのラ変やナ変といったいわゆる不規則変化動詞が、後に四段活用動詞に合流していくのは、類推の作用であると。音韻変化を引き起こす、大きな要因として類推という力は位置づけられる。
類推は、言語の持つ体系性と鶏と卵の関係にある。ラ変の四段活用への変化は、四段活用の持つ体系への類推変化であるが、四段活用という体系が存在しているのは、そもそも類推が持つパラディグマティックな力による。このパラディグマティックな力は抽象的な能力であるため、具体的な局面にあらわれる余剰的な要素は原理的に排除される。だから個別的かつ具体的な話をしようとすると、さまざまな例外にぶつかることになる。
音韻変化に例外なし、音韻変化は体系的に雪崩のように一斉に起きる、と言われる青年文法のテーゼが、例外はありますよという突き上げに出会ったとき、19世紀から1世紀かけて見いだした答えが「音韻変化には語彙によって遅速がある」、lexical diffusion(語彙拡散)という変化モデルだった。たとえば、ら抜き言葉と呼ばれる現象があるが、これは「見れる」「食べれる」などが「書ける」「読める」のような5段活用の可能動詞に類推して-eruという語形に合流していると考えられている。しかしそれは規則的に一斉に起こっているわけではなくて、「見れる」「食べれる」が自然に使える話者でも、「なまけれる」「ささえれる」など語が長くなると使いにくいという内省を持つことがある。つまり個別的かつ具体的な局面では、体系は例外にぶつかるというわけである。
* * * * *
さて、何が言いたいかというと、類推の力はつねに現実を反映するとは限らないということである。類推の力とは基本的に帰納的であるから、たとえば統計的に傾向が言えたとしても、それは統計的な傾向にすぎず、そこから演繹して現実を予測すればエラーが含まれるということである。「誤った類推」とか「過剰な訂正」と呼ばれる言語変化はその産物といえる。
世にステレオタイプと呼ばれる現象があるが、その過剰な適用や誤った適用もこれと同じである。「日本人はきれい好き」「韓国人は辛い物が好き」「B型の人は時間を守らない」といったステレオタイプは、仮にそのステレオタイプが十分に統計的な根拠を持つとしても(持たないことのほうが多いが)、常にエラーを含む可能性がある。類推の力は創造をもたらしはするけれども、ないものを予測する力というのは、功罪相半ばであるということに十分留意しておく必要がある。
というわけで最後にもう一度。「B型の人は時間を守らない」というステレオタイプはもうマジでやめてくださいというネタです。この手のステレオタイプにマジで抗議するには、ステレオタイプ自体が往々にして選択的な情報で構成されている(客観的にそうなんだって!とかいうヤカラがいますが、それを判定している君の主観はどうすんだよどんだけ自己中心的なんだというね)ことを突き上げるとか、そもそも血液の話で何かを分けるって優生学的な選別の危険をはらんでいませんかね歴史からアナタは何を学んでいるんですかとブチ上げてみるとか、まあいろいろあるわけですが言えば言うほどのれんに腕押しでして。血液型別性格判断のヤカラにマジで抗議すればするほど、これはネタなんだから楽しめばいいじゃん~とか逃げやがるので、
こちらもネタで答えます畜生。
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90年代の知られざる名作マンガに山田芳裕『度胸星』(→amazon)がある。ヤンマガがまだサブカルくさい元気さを保持していたころの連載だ。打ち切られてしまったために、未完の大作などとも言われているようで、きちんと終えることができたらSFマンガの金字塔になったのではないかと思う。というようなことはネットでさんざん書かれているので割愛。最近デラックス版が出たことを喜びたい。
偶然書店でNewtonの別冊『次元とは何か―「0次元の世界」から「高次元宇宙」まで (ニュートンムック Newton別冊サイエンステキストシリーズ) 』(→amazon)を手にとってめくってみた。宇宙の外はどうなってるの的子どものヘリクツから抜け出ることのできない5歳児病(うちの子どもと同い年だ)としては、この手の話題にはいつもすぐ飛びついてしまって、でもなかなか理解できずに積ん読状態となるわけだが、今回のは一般人向けに書かれているためにすごく分かりやすかった。
面白かったのは、度胸星にも出てくる4次元の物体「テセラック」についてだった。面積を持たない線が1次元、高さを持たない面が2次元、高さと面を持つのが3次元とされる。それにさらに一つの要素(次元)を加えたものが4次元とされる。物理学では理論的に記述される4次元というものが、直感的にはなかなか理解できないのだが、そしてそれはわれわれ人間が3次元の枠組みで感覚できる世界しか生きていないから当然なのであるが、直感するとしたらどんな感じなのだろう、と思った人は僕だけではないと思う。度胸星では、その直感できない4次元の超立方体と言われる「テセラック」なるものが、8個の立方体で模式的に描かれている。それが連載当時は僕の好奇心を激しくかき立てたものだった。
その「テセラック」は、山田芳裕なりの創作かと思っていたら、きちんと理論的背景があったのだと知った。別冊ニュートンによれば、概略次のように説明される。
1. 線分は、2個の点によって囲まれている。(1次元)
2. 正方形は、4本の線分によって囲まれている。(2次元)
3. 立方体は、6枚の正方形によって囲まれている。(3次元)
とすれば、4次元は1~3の類推から次のように予測される。
4. 4次元物体である「超立方体」は、8個の立方体に囲まれている。(4次元)
グレイト。
また次のようにも説明されている。
1. 点を動かすと線分ができる。
2. 線分を動かすと正方形ができる。
3. 正方形を動かすと立方体ができる。
とすれば、同様に、4次元は1~3の類推から次のように予測される。
4. 立方体をxの方向に動かすと4次元物体である「超立方体」ができる。
グレイト!このような類推の仕方で捉えれば、感覚的にはつかみどころのないものが、何か分かったような気になる。というか、もし4次元の物体を直感で捉えられるような枠組みが人間に与えられる日が来たときには、きっとこの類推の枠組みに置き換えることで改めて直感と補い合うように理解されるはずだ。
こういうものを読むと、人間の類推する力ってすごいなあと実感してしまう。ないものを予測する力、というのは人間に与えられた認知能力のうち、創造に直結する力だなあとも思った。
* * * * *
類推という考え方は、僕は言語学の初歩で習った。たとえば、古典文法で習うところのラ変やナ変といったいわゆる不規則変化動詞が、後に四段活用動詞に合流していくのは、類推の作用であると。音韻変化を引き起こす、大きな要因として類推という力は位置づけられる。
類推は、言語の持つ体系性と鶏と卵の関係にある。ラ変の四段活用への変化は、四段活用の持つ体系への類推変化であるが、四段活用という体系が存在しているのは、そもそも類推が持つパラディグマティックな力による。このパラディグマティックな力は抽象的な能力であるため、具体的な局面にあらわれる余剰的な要素は原理的に排除される。だから個別的かつ具体的な話をしようとすると、さまざまな例外にぶつかることになる。
音韻変化に例外なし、音韻変化は体系的に雪崩のように一斉に起きる、と言われる青年文法のテーゼが、例外はありますよという突き上げに出会ったとき、19世紀から1世紀かけて見いだした答えが「音韻変化には語彙によって遅速がある」、lexical diffusion(語彙拡散)という変化モデルだった。たとえば、ら抜き言葉と呼ばれる現象があるが、これは「見れる」「食べれる」などが「書ける」「読める」のような5段活用の可能動詞に類推して-eruという語形に合流していると考えられている。しかしそれは規則的に一斉に起こっているわけではなくて、「見れる」「食べれる」が自然に使える話者でも、「なまけれる」「ささえれる」など語が長くなると使いにくいという内省を持つことがある。つまり個別的かつ具体的な局面では、体系は例外にぶつかるというわけである。
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さて、何が言いたいかというと、類推の力はつねに現実を反映するとは限らないということである。類推の力とは基本的に帰納的であるから、たとえば統計的に傾向が言えたとしても、それは統計的な傾向にすぎず、そこから演繹して現実を予測すればエラーが含まれるということである。「誤った類推」とか「過剰な訂正」と呼ばれる言語変化はその産物といえる。
世にステレオタイプと呼ばれる現象があるが、その過剰な適用や誤った適用もこれと同じである。「日本人はきれい好き」「韓国人は辛い物が好き」「B型の人は時間を守らない」といったステレオタイプは、仮にそのステレオタイプが十分に統計的な根拠を持つとしても(持たないことのほうが多いが)、常にエラーを含む可能性がある。類推の力は創造をもたらしはするけれども、ないものを予測する力というのは、功罪相半ばであるということに十分留意しておく必要がある。
というわけで最後にもう一度。「B型の人は時間を守らない」というステレオタイプはもうマジでやめてくださいというネタです。この手のステレオタイプにマジで抗議するには、ステレオタイプ自体が往々にして選択的な情報で構成されている(客観的にそうなんだって!とかいうヤカラがいますが、それを判定している君の主観はどうすんだよどんだけ自己中心的なんだというね)ことを突き上げるとか、そもそも血液の話で何かを分けるって優生学的な選別の危険をはらんでいませんかね歴史からアナタは何を学んでいるんですかとブチ上げてみるとか、まあいろいろあるわけですが言えば言うほどのれんに腕押しでして。血液型別性格判断のヤカラにマジで抗議すればするほど、これはネタなんだから楽しめばいいじゃん~とか逃げやがるので、
こちらもネタで答えます畜生。
コメント
ちょっと読んでみますよ。
ついでにジャイアントも。
しっかし、B型は遅(ry
それとB型は(ry
さて、統計的な妥当性が本当にあるのか、という問題について。
100歩退いてそのような統計があるとしたら(笑)、後天的に獲得された文化レベルの出来事なのではないかと思います。血液そのものが人格形成に影響を与えるとはにわかには信じがたいです。
2005年に発表された台湾での調査では、統計的に性格と血液型には関係がないことが実証されているようです(アブストラクトしか読んでませんが)。
「Blood type and the five factors of personality in Asia」
http://cat.inist.fr/?aModele=afficheN&cpsidt=16459254
日本の心理学畑からも統計的に有意ではないことが実証されていますね。
「血液型性格判断は疑似科学か?」
http://www1.doshisha.ac.jp/~yshibana/etc/blood/archive/pseudo.htm
空気を読まずにマジレスすると、血液型別性格判断は差別を生み出す危険性を強く持っていると思います。先天的で変えられないものにもとづいて不利益を被る人を出現させる、という意味ですでに差別を引き起こすスティグマとして機能していると思います。血液型が楽しい話題として、時に笑いに転じることもあるという点でも非常に似ていると思います。
「血液型性格判断はなぜ問題なの?」
http://www.remus.dti.ne.jp/~nakanisi/ketsueki/probrem.html
というわけで、血液型の「あるって」「ないって」論争は統計的には答えが出ていると思います。あとは2つ残っています。1つは、統計的には正しくないことをどうして人は信じるのかという問題です。こちらは知的好奇心をかき立てられます。つまり、ステレオタイプにどうして人はとらわれるのか、という問題です。もう1つは「楽しめる」「楽しめない」という問題が残るのですが、僕は全然楽しめません。
もっともB型特有の適当さで、社会的場面では楽しげな顔をして乗り過ごしますけどね。