新明解国語辞典の第6版を購入(2005年に最新版が出てるのをようやく購入)。この辞書は語用論(pragmatics)を盾に、相当な無茶をやるということで業界の内外にファンが多いことで有名である。辞書のことはあまり詳しくないのだが、言海(→言海 - Wikipedia)に連なるユニークな解説の系譜ということになるのだろうか。新明解国語辞典は版を重ねるごとにそのオルタナティヴさを緩めつつあると知られている。手元にある第5版ではすでに修正されてしまっているが、第3版あたりには確か動物園の項目に、そっち業界からクレームが入ったという伝説の解説があった。しかし第6版を第5版と比べてみると、方向性を微妙に変えたオルタナがいまだに息づいているのを感じることができる。
たとえば、これまた有名な項目、「恋愛」は第5版では次の通り。
第6版では次の通り。
第5版では情交テイストを匂わせつつ、「うまく行かないのが恋なのだよ」路線だった。第6版ではプラトニックテイストを匂わせつつ、「恋なんかに振り回されるのは愚か者だよ」(超訳)路線である。編集部に何があったのだろうか。いや、時代と人は言うのだろうか。などと韜晦しつつも、この辞書をめくっていくと、改めて意味記述の客観性なんて原理的にあり得ねーってことがよく分かる。立場や文脈に全く依存しない記述なんてないもんね。もちろん「客観性」に向けて文脈や立場を少しずつそぎ落とすことは、近代化の歴史が示すように、意味が通じる集団を保証する(作り出す)点で、効能があるとは思う。けど、根本的にはそれだけの話。
たとえば、これまた有名な項目、「恋愛」は第5版では次の通り。
特定の異性に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。
第6版では次の通り。
特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけで一緒にいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。
第5版では情交テイストを匂わせつつ、「うまく行かないのが恋なのだよ」路線だった。第6版ではプラトニックテイストを匂わせつつ、「恋なんかに振り回されるのは愚か者だよ」(超訳)路線である。編集部に何があったのだろうか。いや、時代と人は言うのだろうか。などと韜晦しつつも、この辞書をめくっていくと、改めて意味記述の客観性なんて原理的にあり得ねーってことがよく分かる。立場や文脈に全く依存しない記述なんてないもんね。もちろん「客観性」に向けて文脈や立場を少しずつそぎ落とすことは、近代化の歴史が示すように、意味が通じる集団を保証する(作り出す)点で、効能があるとは思う。けど、根本的にはそれだけの話。
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