スキップしてメイン コンテンツに移動

しかしわたしはあなたと共にある

本棚にいい加減に差し込んである遠藤浩輝『EDEN』の1巻をオクサマが発見して、先が読みたいから残りを段ボール箱からサルベージせよとの命令。ミイラ取りがミイラ取りになって、思わず再読してしまった。久しぶりに読むと新しい発見があったりする。

EDENの面白さは、近未来SFの体裁をなしながら、世界の権力再編後にも生じている経済や生活の南北格差と、民族や宗教の対立をリアルに描いているところにあると思う。で、第16巻(→amazon)の、105話~107話「Icon」という小さな話の連なりが、宗教的な美しさに彩られていて思わず背筋がぞわっとなってしまった。




以下、どんな話かっつーと、という話。

* * * * *

この掌編の舞台はインド。世界観がかなり作りこまれているので簡単に説明するのが難しいのだけど、地球レベルの地殻変動の結果、被災者があふれるなかで、ヒンドゥーとムスリムの対立による無差別な殺し合いが続く。世界政府だか赤十字だかから届く医薬品などの救援物資や救助のための最新技術は、高い社会階層にばかりつぎ込まれたりするし、残りの物資も民族同士の奪い合いの憂き目にあって、災害時にも関わらず殺し合いが繰り返し起こる。「Icon」で主役として描かれるのは、物語では端役のラヴィ・シヴァン医師という登場人物だが、医師の職責を果たそうにも、手当をした矢先に虐殺されたりするので途方もない虚無感に襲われている。

で、EDENのSF設定であるところの、ウイルス進化がもたらした人類のあたらしい集合結晶体コロイド。コロイドは人間が作り出した民族や宗教、階層などの価値にかかわらない。したがって悲しみや絶望にさらされた弱き人々は、この世で生きるよりもコロイドとして生きることを選び始める。周縁として生きざるを得ない世界中の人たちは、絶望の末、こぞってコロイドに入ってゆく。医師であるラヴィも絶望に蝕まれ始めるころ、枕元にかつてコロイドに飲み込まれた妻が立ち、「こちら側」で生き続けることに疑問を持たされる。

そこへ、もう一つのSF設定であるところの、AIプログラム、マーヤが現れる。物語ではマーヤは預言者のような存在。マーヤは「世界を救うこと」が自分の目的であるといい、コロイドが作り出す新しい人類の可能性について説く。ラヴィは荒廃した丘の上で、コロイドに入ろうとするが、すんでのところで思いとどまり踵を返す。振り返るとそこへマーヤと対をなすプログラム、レティアが現れる。レティアは「救う」とは言わない。ただ自分を「憶えておいて 私はあなた達と共にある者」と言う。レティアの預言を受け、ラヴィは再び医師として絶望の世界を歩みだす。

* * * * *

このレティアの預言のシーンがすごく美しい。おそらく神話の焼き直しのシーンなのだろう。作中でもマーヤーは釈尊の母、サンスクリットで「意図的なる変化」などと述べられているし、グノーシス主義もあちこちに織り込まれている。マーヤとレティアの二元論的宇宙の把握みたいなのも神話っぽい。そのへんは全然詳しくないのでパス。

ともあれ、助けはしない、しかしわたしはあなたと共にあるという宗教的なメッセージがすんでのところで人を歩みに向けるシークエンスには背筋がぞわっとなった。人が根源的なレベルで絶望から歩きだせるとしたら、こういうあり方しかないと思う。

あ、EDENは全18巻です。

コメント

このブログの人気の投稿

お尻はいくつか

子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。

あさって、やなさって、しあさって、さーさって

授業で、言語地理学の基礎を取り扱うときに出す、おなじみのLAJこと日本言語地図。毎年、「明日、明後日、の次を何と言うか」を話題にするのだが、今年はリアクションペーパーになんだか色々出てきたのでメモ。これまでの話題の出し方が悪かったのかな。 明後日の次( DSpace: Item 10600/386 )は、ざっくりしたところでは、伝統的には東の国(糸魚川浜名湖ライン以東)は「やのあさって(やなさって)」、西の国は古くは「さーさって」それより新しくは「しあさって」。その次の日( DSpace: Item 10600/387 )は、伝統的には東西どちらもないが、民間語源説によって山形市近辺では「や(八)」の類推で「ここのさって」、西では「し(四)」の類推で「ごあさって」が生まれる、などなど(LAJによる)。概説書のたぐいに出ている解説である。LAJがウェブ上で閲覧できるようになって、資料作りには便利便利。PDF地図は拡大縮小お手の物ー。 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図285「明明後日(しあさって)」 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図286「明明明後日(やのあさって)」 さて、関東でかつて受け持っていた非常勤での学生解答は、「あした あさって しあさって (やのあさって)」がデフォルト。やのあさっては、八王子や山梨方面の学生から聞かれ、LAJまんまであるが、ただし「やのあさって」はほとんど解答がない。数年前にビールのCMで「やのあさって」がちらりと聞ける、遊び心的な演出があったが学生は何を言っているのかさっぱりだったよう。これはかつての東国伝統系列「あした あさって やのあさって」に関西から「しあさって」が侵入して「やのあさって」は地位を追い落とされひとつ後ろにずれた、と説明する。「あした あさって やのあさって しあさって」は期待されるが、出会ったことがない。 山形では「あした あさって やなさって (しあさって)」と「あした あさって しあさって (やなさって)」はほとんど均衡する。これには最初驚いた。まだあったんだ(無知ゆえの驚き)!と(ただしLAJから知られる山形市の古い形は「あした あさって やなさって さーさって」)。同じ共同体内で明後日の翌日語形に揺れがある、ということは待ち合わせしても出会えないじゃないか。というのはネタで、実際は「~日」と

三つ葉をミツパと呼ぶ理由

山形で、あるいは言葉によっては東北で広く聞かれる変わった発音に、関東では濁音でいうところを清音でいうものがある。「ミツパ(三つ葉)」「ナガクツ(長靴)」「ヒラカナ(平仮名)」「イチチカン(一時間)」「〜トオリ(〜通り:路の名前)など。小林好日『東北の方言』,三省堂1945,p.74にはこれに類した例が、説明付きでいくつか挙がっている(音声記号は表示がめんどいので略式で。なおnは1モーラ分ではなく、鼻に抜ける程度の入り渡り鼻音(njm注))。 鼻母音があるとその次の濁音が往々にして無声化し、その上にその次の母音まで無声化させることがある。  ミツパ(三つ葉) mitsunpa  マツパ(松葉) matsunpa  マツ(先づ) mantsu  クピタ(頚) kunpita  テプソク(手不足) tenpusoku  カチカ(河鹿) kanchika  ムツケル(むずかる・すねる) muntsukeru この無声化はなほそのあとの音節にまで及ぶこともある。  アンチコト(案じ事) anchikoto  ミツパナ(水洟) mitsunpana この現象は法則的に起こるのではなく、あくまでも語彙的・個別的に生じている。これって、どうしてこういうの?ということを仮説立ててみる。 * * * * * 伝統的な東北方言では、非語頭の清濁は鼻音の有無で弁別される。よく教科書に挙がる例では以下がある。 mado(的):mando(窓) kagi(柿):kangi(鍵)*ngiは鼻濁音で現れる場合と、入り渡り鼻音+濁音で現れる場合とあり 語頭では他の方言と同様に有声音と無声音の対立があり、非語頭では上記のような鼻音と非鼻音の対立がある(そして有声音と無声音は弁別には関与しない)のが特徴的と言われるが、こうした弁別体系は古代日本語の残照と言われることもある。実証的な論考で明示されたことではないのだが、多くの概説書で「〜と考えられている」といった程度には書かれており、定説とは言わないまでも通説と言ってよいだろう。 非語頭の濁音音節前に現れる入り渡りの鼻音は、中世の宣教師による観察にも現れているので、比較的最近まで(日本語史は中世も最近とかうっかり言います)近畿方言にも残っていたとされる。このあたりは文献資料でも確かめられるために、実証的な論考でも言い尽くされているところ。 さて、古代日本語