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かいじゅうたちのいるところ

「あなたの中の子どもへ-『かいじゅうたちのいるところ』公開を前に」(→2010-01-14 - THE KAWASAKI CHAINSAW MASSACRE)を読んで、この映画は絶対に見なければならないだろうなと思った。できれば子どもを連れて行こう、と思う。退屈で飽きたらそれはそれで。Weekly Teinou 蜂 Woman: どんな子どもにも金の冠を捧げるべきなのです。 でも私にはくんなかった!(新宿ピカデリー!)経由で上記エントリを知ったのだけど、映画自体はスパイク・ジョーンズに興味があったので知っていた。また原作は子どもが生まれてから「大人が読ませたくない絵本」として名高い、と幼児教育畑の同僚から聞いて購入して読んでいた。僕の家の中には、子どもの教育に明らかに悪影響を与える、とされるものが山ほどある。僕自身が読んでいるものを知られることが気恥しいので読まれることを良しとはしないが、こういうものにもいつか興味を持ってもらえたら少しうれしいかも、とも思っている。

思い返して欲しいが、誰だって子どもの頃親や先生をはじめとした大人から理不尽な扱いを受けて暴れたくなったことがあるはずだ。そんな葛藤や怒りを「なかったこと」にする大人をセンダックは軽蔑している。

上記エントリではこのように述べられている。なかったことにできるはずがない。なかったことにして誰かと対話することなどできるはずがない。だからアソビさんのサイトでのオンくんの話を見ると、アソビさんのことを心底すげえなあと思ってしまうのだ。僕にはそれを貫くことができるだろうか?

親バカの僕は恥ずかしげもなく言うが、上の子ども(下の子どもは未知数)は突然変異と思えるほど優しくナイーブな何かを持っている。それが東京から山形に至るまでの、僕と別々に暮らした体験や、僕抜きでの僕の実家暮らしなど、特殊な体験が追い込んで作った、という側面的責任から逃げるつもりはない。この優しくナイーブな何かを抱えて成長するのは決して楽観的に捉えられるものではないし、僕や妻がある種の盾や鎧とならなければならないことは確かだろう。そして、三つ子の魂ではないが、この優しくナイーブな何かから子どもが完全に自由に生きることはないだろう。たぶんだが、上記エントリを読んで、また原作を読んで、子どもに好ましくないとされるいくつかの描写が子どもを助けてくれることがあるのではないか、と思っている。

オンくんは「ま、わかる人にはわかるんじゃね?わかんない人にはわかんないと思うけど」語ったようだが、うん、そういうことは不思議なほどたくさんある。

(追記)
映画はほとんど観ないくせにここを読むのは好き、な2010-01-18 - ゾンビ、カンフー、ロックンロールでも「かいじゅうたちのいるところ」についてレビューされてた。

と、言いたがっているように見えた。劇中ではそんなに雄弁には語らないけれど、だからこそ子供たちが見ても漠然とした感覚として、そう感じ取ってもらえると思う。

言葉にすれば「かいじゅうがないていた」とか「かいじゅうがモコモコしていた」とかしか言わないかもしれないが、絶対に伝わる。

優れた映画は年齢を問わず、伝えてしまうものだから。

そうかも。そういう力を信じたい。

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