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何を書いているのかわかりません

今週までで仕事のラッシュが一山終わり、来週は今週の落ち穂拾い的な仕事と、あとは中長期的な仕事にぼちぼち手をつけることになる。来週末は国際交流協会でちょっとした話のサロン。ハーフだとかダブルだとかの話を、当事者の親たちと共有する試み。

で、なんか研究方面に向ける気力が残されていないのが、この仕事をやっていて本末転倒ではあるのだけど、忙しさは言い訳に過ぎなくて、ちょっと方法論的な壁にぶち当たっているのかもと思う。やりたい方向を見つけるための文献も、やりたい方向が見つかるかもしれない文献も、今はちょっと。

今日は子供の授業参観だった。クラスによって指導方針が異なるのが面白い。うちの子のクラスは、油断して眺めていると学級崩壊か?と思われなくもない感じもあるが、まあ子どもってこんなもの。担任の先生の、悪ガキ抱えながらふと気持ちを掬い上げるようなところもほの見えて、ありがたいなあと思う。不揃いなプロフィールの家庭を背景に持つ子どもたちだから色々あって当然、という世界のほうがいいだろうと思って、地域の有名小学校を選ぶことはしなかった。そのことに後悔はないのだが、どの道小学生の子供に選択肢を与えることは考えなかったし、親が選ぶところの他を選ぶことはできないながらも、その世界に順応するのが子供の能力だろうと思う。教室を構成している自分の子供を見ながら、ぼんやりそう思った。

うちに入り浸っている近所の子供達は、山形市の中でも比較的新興住宅地であるために、みな核家族の家庭だ。しかも共働きで日中は親がいない。週末も同様。なかには小学校低学年でも自分でお昼を適当に済ませたり、時には朝を抜いて遊びに来ることもあるので、うちでみんなでご飯を食べたりすることもある。うちも決して経済的に余裕がある方ではないが、しかし共働きでなくても贅沢をしなければ生活していけるので、恵まれている部類だろう。だから、ということもあるかもしれないけれども、食べ物はみんなで分けよう、という気持ちが何かにせっつかれるように頭をもたげる。選んだことがスタートであるのに、選んだなどという余裕を自覚することは殆どなく、直面していることになかば当然の義務のように処理している。子どもたちの親からお礼を言われたことがない、ということに違和感やいらだちを感じていたこともあったが、いまではそれもなくなってしまった。そういうつきあいではない世界を、ためになるとかではなくて、所与のものとして生きている感じだ。

何を書いているのか分からないでしょう?僕もよくわかりません。

授業参観で、先生がたくさんの人が描かれている公園の絵を見せて「何をしている人がいますか?」と子どもたちに問いかけた。子どもたちは口々に「おじいさんが犬を散歩させている」「子どもが踊っている」「子どもが歌っている」「おばあさんが寝ている」などと答えた。うちの子供は「男の子が迷子で困っています」と答えた。公園の真ん中に男の子が泣いているのだ。だから、想定された答えは「男の子が泣いています」なのだろうと思った。先生も少し戸惑っているようだった。僕はいつもここに書いているように相当の親ばかなので、その答えが嬉しくて、今晩は山形で一番美味しいだろうと思われるお好み焼き屋さんで、ねぎ焼きとたこ焼きとお好み焼きと焼きそばを奮発してしまったのだった。

コメント

ex同僚 さんのコメント…
そこはウチの近くの壷ですか!
しかし、このエリアでご近所付き合いをきちんとできるのも親としての才能ですよね。そこはホントなんというか尊敬しますわ。最近、名刺もってでしか人にであえなくなり、ああ、年とるっていやだ、と思っているところです。
NJM さんの投稿…
その壺です。何気に電話したらくるかなあとも思ったのですが、飲む感じではなかったので見送ってしまいました。しっかしマジでうまい。ビールも飲めたらもっとうまかったはず。オクサマも神戸が関西がと楽しんでました。

だから今度はうちで腹を空かせた近所の子供達に、ジャリンコチエのオヤジさんよろしくコナモンをで何かを作ったってえや。

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お尻はいくつか

子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。

あさって、やなさって、しあさって、さーさって

授業で、言語地理学の基礎を取り扱うときに出す、おなじみのLAJこと日本言語地図。毎年、「明日、明後日、の次を何と言うか」を話題にするのだが、今年はリアクションペーパーになんだか色々出てきたのでメモ。これまでの話題の出し方が悪かったのかな。 明後日の次( DSpace: Item 10600/386 )は、ざっくりしたところでは、伝統的には東の国(糸魚川浜名湖ライン以東)は「やのあさって(やなさって)」、西の国は古くは「さーさって」それより新しくは「しあさって」。その次の日( DSpace: Item 10600/387 )は、伝統的には東西どちらもないが、民間語源説によって山形市近辺では「や(八)」の類推で「ここのさって」、西では「し(四)」の類推で「ごあさって」が生まれる、などなど(LAJによる)。概説書のたぐいに出ている解説である。LAJがウェブ上で閲覧できるようになって、資料作りには便利便利。PDF地図は拡大縮小お手の物ー。 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図285「明明後日(しあさって)」 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図286「明明明後日(やのあさって)」 さて、関東でかつて受け持っていた非常勤での学生解答は、「あした あさって しあさって (やのあさって)」がデフォルト。やのあさっては、八王子や山梨方面の学生から聞かれ、LAJまんまであるが、ただし「やのあさって」はほとんど解答がない。数年前にビールのCMで「やのあさって」がちらりと聞ける、遊び心的な演出があったが学生は何を言っているのかさっぱりだったよう。これはかつての東国伝統系列「あした あさって やのあさって」に関西から「しあさって」が侵入して「やのあさって」は地位を追い落とされひとつ後ろにずれた、と説明する。「あした あさって やのあさって しあさって」は期待されるが、出会ったことがない。 山形では「あした あさって やなさって (しあさって)」と「あした あさって しあさって (やなさって)」はほとんど均衡する。これには最初驚いた。まだあったんだ(無知ゆえの驚き)!と(ただしLAJから知られる山形市の古い形は「あした あさって やなさって さーさって」)。同じ共同体内で明後日の翌日語形に揺れがある、ということは待ち合わせしても出会えないじゃないか。というのはネタで、実際は「~日」と

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山形で、あるいは言葉によっては東北で広く聞かれる変わった発音に、関東では濁音でいうところを清音でいうものがある。「ミツパ(三つ葉)」「ナガクツ(長靴)」「ヒラカナ(平仮名)」「イチチカン(一時間)」「〜トオリ(〜通り:路の名前)など。小林好日『東北の方言』,三省堂1945,p.74にはこれに類した例が、説明付きでいくつか挙がっている(音声記号は表示がめんどいので略式で。なおnは1モーラ分ではなく、鼻に抜ける程度の入り渡り鼻音(njm注))。 鼻母音があるとその次の濁音が往々にして無声化し、その上にその次の母音まで無声化させることがある。  ミツパ(三つ葉) mitsunpa  マツパ(松葉) matsunpa  マツ(先づ) mantsu  クピタ(頚) kunpita  テプソク(手不足) tenpusoku  カチカ(河鹿) kanchika  ムツケル(むずかる・すねる) muntsukeru この無声化はなほそのあとの音節にまで及ぶこともある。  アンチコト(案じ事) anchikoto  ミツパナ(水洟) mitsunpana この現象は法則的に起こるのではなく、あくまでも語彙的・個別的に生じている。これって、どうしてこういうの?ということを仮説立ててみる。 * * * * * 伝統的な東北方言では、非語頭の清濁は鼻音の有無で弁別される。よく教科書に挙がる例では以下がある。 mado(的):mando(窓) kagi(柿):kangi(鍵)*ngiは鼻濁音で現れる場合と、入り渡り鼻音+濁音で現れる場合とあり 語頭では他の方言と同様に有声音と無声音の対立があり、非語頭では上記のような鼻音と非鼻音の対立がある(そして有声音と無声音は弁別には関与しない)のが特徴的と言われるが、こうした弁別体系は古代日本語の残照と言われることもある。実証的な論考で明示されたことではないのだが、多くの概説書で「〜と考えられている」といった程度には書かれており、定説とは言わないまでも通説と言ってよいだろう。 非語頭の濁音音節前に現れる入り渡りの鼻音は、中世の宣教師による観察にも現れているので、比較的最近まで(日本語史は中世も最近とかうっかり言います)近畿方言にも残っていたとされる。このあたりは文献資料でも確かめられるために、実証的な論考でも言い尽くされているところ。 さて、古代日本語