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楊逸『おいしい中国―「酸甜苦辣」の大陸』

野村進『島国チャイニーズ』(→amazon)に出てきた楊逸のエピソードが興味深く、芥川賞受賞作『時が滲む朝』(→amazon)と『おいしい中国―「酸甜苦辣」の大陸』(→amazon)を購入した。お風呂でダラダラ読んだのは『おいしい中国』。帯には、「中華料理で文化を味わう」「餃子」「腸詰め」「ワイン」などの文字が踊る。



すわよだれダラー、いやこの場合ダラーではなくユエンか、などと思うことはなくてですね、読んでみたら確かによだれユエンだったのだが、それ以上に文革で下放された知識人家庭に育った子どもの体験記でした。ハルピン都市部から思想改造のため農村にやられて、寒さに耐える話とか、カフェ本にない重厚さ。僕も学生時代に冬のハルピンに行ったことがあるが、零下30度くらいの激烈な寒さである。豆油がなくなって亜麻油を料理に使ったら家族が全員めまいを起こした、といったエピソードなのに、楊逸ってあっけらかんと書くので、ふわっと読めてしまうのね。

とはいえ別に政治的な背景はあくまでも背景でしかなく、メインは子供時代の楊逸視点からの活き活きした貧乏生活と、お母さんが作ってくれた料理の数々。ただしカフェ本っぽい装丁の本書からは良い意味で裏切られて、なんというか貧乏な時代に手をかけて作った家庭料理のオンパレードなのですね。油饼(→油饼_百度百科),烧饼(→烧饼_百度百科),酸菜炖粉条(→猪肉酸菜炖粉条做法[图解])とか中国東北料理とか、読んでて山形市の中華料理店「好吃再来」(→好吃再来(ほ つ ざい らい) - 中華料理 (山形県山形市) | 山形まるごと情報サイト☆ヤマガタウェイ)を思い出し、近いうちにに行こうと強く思った。「好吃再来」の酸っぱい白菜の肉炒めは死ぬほどおいしいので東京の人とかも来るといいと思います。

それで、うまそげな中国東北料理が乱舞する中で、ひときわ興味を持ったのが「玫瑰饼」というもの。玫瑰というのはハマナスのことだそうだ(→玫瑰(当て字・熟字訓) (はまなす) - 関心空間)。え?宗谷岬のあのハマナス?ということで、あの花は食べれるのですね。楊逸の本では、70年代になって改革開放政策(文革もう疲れたよ~)でちょいと福利厚生とかも大事じゃんの雰囲気のなか職場のピクニックでハマナスを摘みまくったとある。それをお母さんが料理するシーンがもう。
家に帰ったその夜、花びらを丁寧に取って水に浸した後、鍋大の蓋つきの器に入れ、黒砂糖に漬けておいた。一週間が経ち、再び蓋を開けたときには、馨しい花の香に黒砂糖の甘みもたっぷりとにじんでいた。しぼんだ花びらが小さくなり、黒砂糖で鮮やかな紫に染まっていた。それにスリゴマと小麦粉を加えて餡を作り、あらかじめ用意したパイ生地に包んで焼く。加熱されると、竃の上に強い花の香りが広がり、近所の人を引き寄せた。(p.163)

どうです、これ。これ夜中に読んだ人はもうコンビニでなんかそれっぽいものを食べずにはおれないでしょうが。ねえ。70年代中国の決して豊かではない時代にこれを団地っぽいところで作ったというシーン。どんなんだろう?と思ってバイドゥ-先生に聞いたらこんなん(→玫瑰饼_百度百科)でした。
あっ、台湾にも似たのがある!しっとりパサパサしてて香りがいいやつだ。あれにハマナスっぽい香りなのだな、たぶん。いいなあー。

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