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脊髄から直接蜜柑を食べられないことは認めたうえでのこと

たまたまつけたテレビのニュースでテニスの試合が映ってる。日本人選手がどこかの国の選手を打ち負かす数ゲームの、試合運びについ引き込まれた。試合展開が面白いなあと思った瞬間、でもテニスってなんだかいけすかないことを、選手の出で立ちを見て思い出す。なんか、ほら、「休日にテニスやってる」とか「大学時代にテニサー入ってました」ってことに対するステレオタイプ的なイメージもあるじゃないですか。

いやいや、テニスそのもののゲーム性が持つ面白さに目を向けましょうよ、偏向したイメージで物事を見ると真実を見失いますよ、とか。そうですよね。客観的な事実だけを見据えて、イメージに振り回されないことは時に人生を助けるでしょう。

けど、それでも我々の現実社会というか現実世界はイメージのレイヤーの上に乗っかっているので、その文脈というか「偏向した」イメージも現実の一部なんですよね。それはそれとして、現象的にまず受け入れて、そこに一歩引きがたい問題があるのであれば、その現象を生み出した見えない「客観的な」事実とやらについて話し合いましょうよ、ということにはなるだろうと思います。その「客観的」に見えることだって、現象のひとつという見方だって認めてほしいものですけど。

現象的なことから伺いしれない「客観的な」事実に、実は我々の行動や存在が制限されていることは知ってます。そりゃ僕がどんなに頑張っても新幹線になった上で、古代ギリシャに行って蜜柑を直接脊髄で食べることはできないですけど。しかしその制限のなかで生じていることの「客観性」なんて、案外、帆だと思っていたものが舳先だった、くらいのもんかもしれません。

まあ、抽象的すぎな話ですけど、人文系の学問が見据えようとしている世界はこんなもんなので、理系の方にはどこかでお許しをいただきたいと思ったことでした。

コメント

Morioka さんの投稿…
それは「高田馬場は決して三田ではない」ということと同義でありましょうか。ほら、三田的な現実と馬場的な現実が完璧に捩れの関係にあるという意味において。
NJM さんの投稿…
誰が「三田文学で激賞されて後に早稲田大学教員になる」ですか。この捻れは芦屋的な地平の上で予定調和的解決を見るのです。

理系のひとがいう客観的事実というのとは、社会的文脈っつーかそういうのなしでむき出しで提示されちゃうことで、大体おかしな決着点に向かうものだよなって思いました。
Morioka さんの投稿…
客観的事実ももうひとつの文脈=物語だということを理解出来ない人はまあお可哀想に苦労するわねえということでだいたいいいと思うのですが、しかしその次には、じゃあ所詮物語を食って生きるのが衆生の営みだとするなら食えりゃあなんでもええんかという話がくるわけで、いや、そうではなくよい物語と悪い物語とオーガニックで毎日元気な物語と番組終了後1時間だけ9800円コールセンターを増員して待ってますな物語とがあるだろうと思うわけです。その物語同士の捩れ、交わらなさの問題についてはかの東原てんてーの名作「ひまわりっ」におけるえびちゃんが体現しており、これはそのうちどっかで書くで。そのうちってのはたぶん今日中にブログで。

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