asahi.com(朝日新聞社):中台の故宮院長、初の公式交流へ 台湾院長が訪中 - 国際とのことで、中台の文化的交流という表向きに何があるかは分からないが、国民党政府時代にいいものは北京、上海、南京を経由して台湾に流れ込んだと聞いている(ソース忘れた)。かつて楊守敬が江戸期から明治期にかけてのパラダイムシフトに乗じて、二束三文になった日本の医書を買い込み中華民国に帰ったような。宝が国外に流出して再評価される時代にはもうよそ様のもの、という話。このあたりは鴎外『渋江抽斎』(→図書カード:渋江抽斎)にも書いてあった気がする。現に僕も台湾でそのうちの一書、『本草和名』(本草和名 - Wikipedia)を調査したことがあった。台湾故宮博物院やあるいは国立台北大学の、日本から流出した文献のリストは誰かがまとめていたな。と思ってciniiで検索したらたくさん出てきたが省略。
子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。
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