今朝は妙にびびっと来ました、このエントリ(→内田樹の研究室)が。
とにかく、苅谷氏『階層化日本と教育危機』を読んでみようと思った。学ぶことの意欲が、社会構築的に説明のつく背景に影響を受けているのではないか、とは教育の現場に身を置くものなら誰もが体験的にうすうすと感づいていることなのではないかと思う。それは少なくとも日本社会においては、タブー視されている社会階層に関わることなので、表立った形で論じられることは少ない。そのあたりへの知的関心がひとつ。
もうひとつはここ。
ほんで所属の進路系の委員をやっていらっしゃる方から最近お聞きしたのが、トレーナビリティの育成という概念。翻訳すれば、自分を鍛錬する能力、ということだそうだ。どのような職業に就いてもその場にあった形で自己を鍛錬できる力、とは魔法の能力に思える。いま、うちの職場ではこれをカリキュラムの中で育成できないか、と検討しているわけだが、教える側の労力は相当に求められるだろう。内田氏の文脈に従えば、この力は「学習資本の階層差」によって配当される。大学内部だけで社会階層を超えた力を与えるには、どのようなしかけが必要だろうか、と少しめまいがする思いだ。
まとまりがないまま書いているが、実は内田氏の記述で一番タイムリーに響いたのはここ。
まあなんというか、僕も非常勤時代を入れて大学で10年くらい教鞭をとっていることになるわけですが、大学教員は教授法や教育そのものについての方法論を教わる体験など皆無に等しいわけで、日々敗北の連続なわけです。振り返れば「楽しい学びを!」(轟沈)、「成功体験を!」(轟沈)、「学校外部へ開かれた学びを!」(全滅)、「特色ある学び」(静けさ)、と死屍累々な中、到達目標の明示とか評価の厳密化などによって天地から攻撃される有様。でも、なんというか、たまに伝わった実感や成長が目に見えることがあって、その小さな例を積み上げながら、この領域を社会とどう関わろう/関わらせようか模索することであるよ。
とにかく、苅谷氏『階層化日本と教育危機』を読んでみようと思った。学ぶことの意欲が、社会構築的に説明のつく背景に影響を受けているのではないか、とは教育の現場に身を置くものなら誰もが体験的にうすうすと感づいていることなのではないかと思う。それは少なくとも日本社会においては、タブー視されている社会階層に関わることなので、表立った形で論じられることは少ない。そのあたりへの知的関心がひとつ。
もうひとつはここ。
「十分な学習資本を持たない若者が大量に社会に放り出される」とどうなるか。非正規化圧にさらされている若年労働者が「学校時代に身に付けるべきことを身に付けないまま、職業に就いてからも十分な職業訓練の機会を与えられない」(本書、24頁)ままであれば、いずれ彼らを支援するための社会的コストは破滅的な規模のものになるだろう。日本社会の雇用形態が変化して、企業いまや即戦力ばかりを求めるとはよく聞く話。一方で大学は職業訓練施設ではないので、得体のしれない「キャリア教育」にその役目をすべて突っ込んで教育ポリシーとコンテンツの再編には関心を持ちにくい状況がある。まあ文科省の思惑に乗っかって軽挙妄動も慎むべきだが、でも馬鹿正直に考えれば大学は教育ポリシーとコンテンツで「即戦力を求める企業風土」にきちんと立ち向かうのが筋と思う。
ほんで所属の進路系の委員をやっていらっしゃる方から最近お聞きしたのが、トレーナビリティの育成という概念。翻訳すれば、自分を鍛錬する能力、ということだそうだ。どのような職業に就いてもその場にあった形で自己を鍛錬できる力、とは魔法の能力に思える。いま、うちの職場ではこれをカリキュラムの中で育成できないか、と検討しているわけだが、教える側の労力は相当に求められるだろう。内田氏の文脈に従えば、この力は「学習資本の階層差」によって配当される。大学内部だけで社会階層を超えた力を与えるには、どのようなしかけが必要だろうか、と少しめまいがする思いだ。
まとまりがないまま書いているが、実は内田氏の記述で一番タイムリーに響いたのはここ。
同学齢集団内部での相対的な優劣を競わせれば、子どもたちの集団全体としての学力は必ず下がる。ですよねー。なんか身近に聞いたことがある気がする。学生同士に競争させるというのは、スポーツとかを除いて原理的にも倫理的にもダメだろうと思うが、やっぱり成功しないよね。もっとも、ミクロでみれば「ライバルと競い合う」ことも生じるだろうから、全てに言えることではないだろう。でも少なくとも、学習資本が十分に与えられていない状況では、ミクロであろうとマクロであろうと、足の引っ張り合いレースが起こるのは当然だろうと思う。
まあなんというか、僕も非常勤時代を入れて大学で10年くらい教鞭をとっていることになるわけですが、大学教員は教授法や教育そのものについての方法論を教わる体験など皆無に等しいわけで、日々敗北の連続なわけです。振り返れば「楽しい学びを!」(轟沈)、「成功体験を!」(轟沈)、「学校外部へ開かれた学びを!」(全滅)、「特色ある学び」(静けさ)、と死屍累々な中、到達目標の明示とか評価の厳密化などによって天地から攻撃される有様。でも、なんというか、たまに伝わった実感や成長が目に見えることがあって、その小さな例を積み上げながら、この領域を社会とどう関わろう/関わらせようか模索することであるよ。
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