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車の音読みにシャとキョ・コあり

ちょこっと書いている原稿で興味深いことがあったので、少し調べてみた。

「車」の音読みはシャである。しかしコ・キョという読みがあることはあまり知られていない。この読みは中規模レベルの字書には掲載されていないのでギョッとするが、「庫」コの諧声符であることを思えば理解できる。

『大漢和辞典』を見ると(1)キョ・コ[集韻]斤於切魚韻、(2)シャ[集韻]昌遮切麻韻で、キョ・コの読みが先に立項している。『大漢語林』では(1)シャ麻韻、(2)漢キョ・呉コ魚韻で、シャが先に立項する。『康煕字典』では最初に[広韻]九魚切[集韻]ほか斤於切などが掲げられ、その後で[広韻]ほか昌遮切が掲げられる。明治期に刊行された『康煕字典』の校訂『標註訂正康熙字典』ではこれを受けて、キョを第一の読みとし、シャを第二の読みとしている。『大漢和辞典』もこれに基づいているのではないかと思われる。

少し古いところを見ると、節用集類の『伊京集』(室町末期写)では「大―(キョ)小―シャ」とあるが、これは何でしょと思いつつも、キョの読みが記載されている。『倭玉篇』(慶長15年、1610、早稲田大学図書館貴重画像)にはシャの読みしか記載されていない。

いずれにしても、ざっくり探した範囲ではシャを使った漢語もないので、もともと中国では存在していた二つの読みが日本では失伝したと考えて良いのだろうと思う。つまり辞書的な字音として記述としては伝承されているが、実際の語としては失伝していると見るべきだろう。

が、韓国/朝鮮語ではこの音が残っているとされる。河野六郎「転注考」(『河野六郎著作集(3)文字論』所収)に、「自転(자전)」チャジョンや「停場(정장)」チョンジャンといった言葉の中にキョ・コの音が残っているとされている。留学生に聞いてみると「停車場」は古い言い方でいまでは「停留所」がほとんどというが、これらの語と発音はある。で、これが漢字音と理解されているかというと、ここがまちまちで面白かった。

こことか(→ Yahoo!知恵袋)見ると、ゴと読むかチャと読むかについて、意味分化がなされているかのような記述がみえるが実際のところどうなのだろう。辞書を見る限り、古代においても意味分化はしていないようなので、後に生まれた分化なのだと思われる。上記のリンク先を見ると、機械動力を使うものが「チャ」人力が「ゴ」とある。これがどれほど当を得ているかは分からないが、新しいものが「チャ」古いものが「ゴ」とも見ることができはしまいか。とすると日本統治時代の影響とみられる可能性もある。

現代中国語でもキョ・コの音は残っている。〈くるま〉の意味ではche1(チャーみたいな音。日本でのシャにあたる)、〈将棋の駒のひとつ〉の意味ではju1(ジュイーみたいな音、日本でのキョ・コにあたる)として意味分化を果たしているようだ。韓国語/朝鮮語がこの影響を受けているかどうか。将棋の源流は中国っぽいものね。

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