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外来語の社会言語学

陣内正敬『外来語の社会言語学 日本語のグローカルな考え方』(→amazon)読了、っつうほどの分量でもないけど、さらっと読める割合にはデータ的な裏付けがあってガッチリしている。10数本の論文をまとめたものだからさもありなんだとしても、社会言語学ってやっぱり話題がキャッチーではあるので、専門書でありながら新書的な立ち位置も確保できるんだなあ。4章構成のうち、最初が研究法で、2番目が言語接触の面を強調して論じたもの(もちろん僕はここが一番おもしろかった)、3番目が社会言語学面目躍如な話者の言語意識から論じたもの、4番目は言語政策ということで、入門書としてのバランスもいいと思う。

こないだ国立国語研究所の外来語言い換え案のページ(→「外来語」言い換え提案─ 分かりにくい外来語を分かりやすくするための言葉遣いの工夫 ─)を読んでいて、役所が「分かりやすい言葉を」という議論を持ち出すのはわかるとしても、識者の方々のある種感情的なゴイケンや一方的な伝わる日本語イデオロギーにはちょっと辟易していた。「駆除せよ説」「自然淘汰されるじゃん説」の根底にはどちらも「分かりやすさが大事」の心(=伝わる日本語イデオロギー)があると思うんだけど、仮に社会調査を行ってここまでが分かりやすい外来語、こっからは分かりにくい外来語、って線引きするのもある程度は有効としても、重く見過ぎると分かりやすさは動的であるという側面を見落とすことになると思う。ってことで、公共の情報を発信することが「分かりやすさ」の皮をかぶっていつの間にか分かりやすさの押しつけになるところとか、ちょっとなあ、とも思っていたところ。

本書でおもろかったのは、実際に高齢者とか福祉施設のひとたちに「バリアフリー」「デイケア」分かんねえべ?だから言い換えたげる。とか言わないで、「言い換えてほしいと思う?」という調査を行っているところだった。で、見えてきたのは、確かに分かりにくいけどそういう言葉にも実はついていきたいのよ、ってことだった。言い換えも悪くないけど、そういう言葉は確かに流通しつつあるし、別の分かりやすい説明を付け加えてくれれば勉強にもなるし、というような意見も結構多くて、これは個人的には「ほら~」って思った。本書p.86の「『保護するようなコミュニケーション』(patronizing communication)に陥らないように注意すべき」ということですね。受け手にも「分かろう」「分かりたい」という欲望があるって議論が抜け落ちることに旗を立てているのが、本書の特徴と思うがいかが。

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