スキップしてメイン コンテンツに移動

偏頭痛の経過:半年を過ぎて

偏頭痛が頻発化して半年が経過した。かかりつけの病院で大量にもらった、虎の子の予防薬テラナスも、頭痛を抑えるイミグランも使い果たした。一区切りの時期を迎えたところで、この半年の経過をメモしておきたい。

まず、偏頭痛の頻度はこの3ヶ月については1月あたり2回程度におさまっている。半年前は1週間に1度(多いときで2度)だったので、日常生活には問題がない程度になったと言える。理由は、偏頭痛の起こるタイミングが予測できてきたので、効率的にテラナスを服用できるようになったことと、環境の変化によるストレスの軽減にあるのではないかと考えられる。

タイミング、つまり誘発要因には個人差があるので、ここにそれを記すことは頭痛に悩む他の人にはあまり役に立たないかもしれない。僕の場合は「お酒を飲んで夜更かしをする」+「翌朝睡眠不足で仕事に出る」の組み合わせはかなり発生の頻度を高める。これに、翌日に「スポーツなどで体を激しく動かす」が加わるとまず確実に頭痛が起こることが分かった。だから、遅くまでお酒を飲んだ翌朝にはできるだけテラナスを飲むようにすることで頻度を抑えることができた(たまに忘れちゃうとひどいのね)。

また、短期的な引き金がタイミングだとすると、長期的な引き金=バックグラウンドも大きい。たとえばよく言われることだが、僕の場合も、仕事上のストレスが確実に関係していることが帰納的に分かっている。家族と一緒に住むようになってから、ストレスがいくぶんか軽減された。これによってある期間に集中して頭痛が起こることはなくなった。

全体的に頭痛の頻度は減ったが、頭痛が起こるバリエーションが一つ増えた。それは、睡眠中の頭痛である。睡眠中なので閃輝や暗点などの前兆を認識することはないが、強烈な頭痛で目が覚めることはあった。偏頭痛の強度が弱いときは、翌朝ぼんやりとした頭痛と吐き気だけが残っているということもあった。

さて、昨日、山形の大学病院で新たに薬を処方してもらったわけだが、いくつか変化があった。

まずテラナスが取り扱われていない。同じカルシウム拮抗剤であるミグシスを代わりに処方してもらった。それから、薬の服用についてこれまでとは異なる示唆を受けた。これまではテラナスを一日2回服用して経過を見るということだったが、これからはできるだけテラナスに頼らない方がよいということである。というのも、ある種の依存性が出てきてしまうということ、また長期服用となるとそろそろ副作用が懸念されてくるとのこと。このあたり、偏頭痛というのは発生のメカニズムにも治療法にも決定打となる定説がないということも関係があるのだが、偏頭痛を多角的に見据えるためのセカンドオピニオンとして非常に興味深かった。テラナスの副作用(→ロメリジン塩酸塩(テラナス錠5、ミグシス錠5mg 等))を調べると、生きてればそういうことはよくあるよね的なものが並んでいて、身に覚えはあるかと問われればあると答えるが、本当に副作用の結果なのかといえばそうとは答えにくいものばかりである。依存性については僕の理解不足もあるのでここで詳細は記さずにおく。

もうひとつの変化は、医者によって、そもそも予防薬の使用を避けることがあると分かったこと。つまり、偏頭痛を押さえ込むのではなく、出てから押さえ込む対処法を中心としつつ、じっくりと誘発要因を特定し根本的な治療をはかるという方法を取るということだ。(考えてみれば誠実な対応というのはこっちを言うのかもしれない)。もしかしたら治療方法の医者ごとの個別差というよりも、東京と山形の違いかもしれない。

コメント

匿名 さんのコメント…
大変だねぇ。



中年ともなると(-。-) ボソッ
NJM さんの投稿…
心あたたかいコメントはありがたいのですが、片頭痛は思春期後半から出てくる病気であって、中年とは関係ないっちゅうねん。

むしろこういうダジャレにこそ中年の息吹を感じてほしいこのごろ。

片頭痛(偏頭痛とも)は、メカニズムがよくわかっておらず、また世間的認知も(君のよーに!)低いので、知られず苦しんでいる人も多いみたいで、こういうエントリを書きためている次第です。よろ。

このブログの人気の投稿

お尻はいくつか

子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。

あさって、やなさって、しあさって、さーさって

授業で、言語地理学の基礎を取り扱うときに出す、おなじみのLAJこと日本言語地図。毎年、「明日、明後日、の次を何と言うか」を話題にするのだが、今年はリアクションペーパーになんだか色々出てきたのでメモ。これまでの話題の出し方が悪かったのかな。 明後日の次( DSpace: Item 10600/386 )は、ざっくりしたところでは、伝統的には東の国(糸魚川浜名湖ライン以東)は「やのあさって(やなさって)」、西の国は古くは「さーさって」それより新しくは「しあさって」。その次の日( DSpace: Item 10600/387 )は、伝統的には東西どちらもないが、民間語源説によって山形市近辺では「や(八)」の類推で「ここのさって」、西では「し(四)」の類推で「ごあさって」が生まれる、などなど(LAJによる)。概説書のたぐいに出ている解説である。LAJがウェブ上で閲覧できるようになって、資料作りには便利便利。PDF地図は拡大縮小お手の物ー。 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図285「明明後日(しあさって)」 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図286「明明明後日(やのあさって)」 さて、関東でかつて受け持っていた非常勤での学生解答は、「あした あさって しあさって (やのあさって)」がデフォルト。やのあさっては、八王子や山梨方面の学生から聞かれ、LAJまんまであるが、ただし「やのあさって」はほとんど解答がない。数年前にビールのCMで「やのあさって」がちらりと聞ける、遊び心的な演出があったが学生は何を言っているのかさっぱりだったよう。これはかつての東国伝統系列「あした あさって やのあさって」に関西から「しあさって」が侵入して「やのあさって」は地位を追い落とされひとつ後ろにずれた、と説明する。「あした あさって やのあさって しあさって」は期待されるが、出会ったことがない。 山形では「あした あさって やなさって (しあさって)」と「あした あさって しあさって (やなさって)」はほとんど均衡する。これには最初驚いた。まだあったんだ(無知ゆえの驚き)!と(ただしLAJから知られる山形市の古い形は「あした あさって やなさって さーさって」)。同じ共同体内で明後日の翌日語形に揺れがある、ということは待ち合わせしても出会えないじゃないか。というのはネタで、実際は「~日」と

三つ葉をミツパと呼ぶ理由

山形で、あるいは言葉によっては東北で広く聞かれる変わった発音に、関東では濁音でいうところを清音でいうものがある。「ミツパ(三つ葉)」「ナガクツ(長靴)」「ヒラカナ(平仮名)」「イチチカン(一時間)」「〜トオリ(〜通り:路の名前)など。小林好日『東北の方言』,三省堂1945,p.74にはこれに類した例が、説明付きでいくつか挙がっている(音声記号は表示がめんどいので略式で。なおnは1モーラ分ではなく、鼻に抜ける程度の入り渡り鼻音(njm注))。 鼻母音があるとその次の濁音が往々にして無声化し、その上にその次の母音まで無声化させることがある。  ミツパ(三つ葉) mitsunpa  マツパ(松葉) matsunpa  マツ(先づ) mantsu  クピタ(頚) kunpita  テプソク(手不足) tenpusoku  カチカ(河鹿) kanchika  ムツケル(むずかる・すねる) muntsukeru この無声化はなほそのあとの音節にまで及ぶこともある。  アンチコト(案じ事) anchikoto  ミツパナ(水洟) mitsunpana この現象は法則的に起こるのではなく、あくまでも語彙的・個別的に生じている。これって、どうしてこういうの?ということを仮説立ててみる。 * * * * * 伝統的な東北方言では、非語頭の清濁は鼻音の有無で弁別される。よく教科書に挙がる例では以下がある。 mado(的):mando(窓) kagi(柿):kangi(鍵)*ngiは鼻濁音で現れる場合と、入り渡り鼻音+濁音で現れる場合とあり 語頭では他の方言と同様に有声音と無声音の対立があり、非語頭では上記のような鼻音と非鼻音の対立がある(そして有声音と無声音は弁別には関与しない)のが特徴的と言われるが、こうした弁別体系は古代日本語の残照と言われることもある。実証的な論考で明示されたことではないのだが、多くの概説書で「〜と考えられている」といった程度には書かれており、定説とは言わないまでも通説と言ってよいだろう。 非語頭の濁音音節前に現れる入り渡りの鼻音は、中世の宣教師による観察にも現れているので、比較的最近まで(日本語史は中世も最近とかうっかり言います)近畿方言にも残っていたとされる。このあたりは文献資料でも確かめられるために、実証的な論考でも言い尽くされているところ。 さて、古代日本語