四方田犬彦『日本のマラーノ文学』(→amazon)を、島根からの帰途に読んだ。ユダヤ人は蔑称であるマラーノ=豚と呼ばれるその出自を隠して生きなければならない、歴史的経緯があった。同じように、出自を隠して「仮面のアイデンティティを被りながら執筆を続けてきた者がいるはず」(p.21)とする。
出自を隠すという生存方策、表現活動を論じることは、特定の出自を持つ者や集団を対象とすることでもっとも意味あるものとなるだろうが、僕は出自を隠すことを要求する側へのインパクトを考えた時、対象範囲をもっと広げることにも意味があると思う。つまり出自を隠すこと自体は、さほど特殊な状況を設定しなくても小さな歴史の中にでも発生しうることである。そこから語ることを出発すれば、語られたメッセージは広い射程で届くのではないかと考えるのだが。
日本人という物語を演じながら文学的活動を続けてきた者がいるはずだ。彼らが出自をめぐって抱え込んでいる両義的な回避と拘泥の構造を、従来の在日文学論とは別の角度から見つめてみたい。(同頁)
出自を隠すという生存方策、表現活動を論じることは、特定の出自を持つ者や集団を対象とすることでもっとも意味あるものとなるだろうが、僕は出自を隠すことを要求する側へのインパクトを考えた時、対象範囲をもっと広げることにも意味があると思う。つまり出自を隠すこと自体は、さほど特殊な状況を設定しなくても小さな歴史の中にでも発生しうることである。そこから語ることを出発すれば、語られたメッセージは広い射程で届くのではないかと考えるのだが。
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