16日の発達障害を持つ学生への支援セミナーは、教職員にきちんと理解してもらうことの難しさ、受け入れ態勢を作ることのむずかしさ、という点で大変参考になった。発達障害の個別性への対応と、ユニバーサルな姿勢の両極において、対策を練らねばならないとの由。敬服すべき事例を聞くことができて良かった。
しかしこういうマイノリティへの対応という話になると、「対策」という善意の顔に潜む「分類」に話がシフトし、「発見」の「方法」だとかが議論される不毛さ。発達障害はそのスペクトラム性(発達のなだらかな凹凸)に特徴がある、というのが近年の貴重な論点である、つまり誰しも生得的に抱え得ることだ、とさんざん発表されたのに、自分はまるで選良であるかのごとき目線で語る方々がいらっしゃるのには本当に閉口する。バカと発達障害をどう見分ければいいのか、とか、発達障害の学生が大学にいることが問題ではないのか、とか、どの学部に分布しているのか示せとか、耳を疑う質問も複数あった(偉い先生方からね)。臨席していた心ある専門家による、「自分に似ているやつ、と思えば発見できるよ」と辛らつなユーモアで少し溜飲が下がったが。
病や障害は生理的・身体的な基盤を持つ、と無批判に語られることが多い。しかし病や障害は、常に社会から発見されるものだった。逆にいえば発見されなければ、病でも障害でもなかった。むろん、近代的な意味では、発見されることで社会の同質性から外れたことを自他ともに説明でき、ひいてはそれがある種の社会的摩擦を予防したり緩和したりする。しかし発見されることで、対象を作り出し、囲い込み、場合によっては囲い込んだ対象をカルト化させることでは、むしろ摩擦を作り出す(この10年くらい盛んに言われる「共生の欺瞞」も同じ)。落語の与太郎には嫁さんがいて社会に普通になじんでいる光景があることを思い出すべき。
つまり「彼ら彼女ら」を「私たち」に言い換え、同じ目線の延長上に捉えなければ、どのような対応をしても本質的な対応にはつながらないのではないか、と考える。精巧なチェックシートによる判別ができたとしても、意味はない。発見するのは、つねにチェックシートを眺める「あなた」でしかない。だから、「どうすれば発達障害の学生を見分けられるんですか」という、セミナーの主旨を全く理解していない教員への解答は、「あなたもマイノリティかもしれない、と疑ってはどうですか?」から始めるしかない。
しかしこういうマイノリティへの対応という話になると、「対策」という善意の顔に潜む「分類」に話がシフトし、「発見」の「方法」だとかが議論される不毛さ。発達障害はそのスペクトラム性(発達のなだらかな凹凸)に特徴がある、というのが近年の貴重な論点である、つまり誰しも生得的に抱え得ることだ、とさんざん発表されたのに、自分はまるで選良であるかのごとき目線で語る方々がいらっしゃるのには本当に閉口する。バカと発達障害をどう見分ければいいのか、とか、発達障害の学生が大学にいることが問題ではないのか、とか、どの学部に分布しているのか示せとか、耳を疑う質問も複数あった(偉い先生方からね)。臨席していた心ある専門家による、「自分に似ているやつ、と思えば発見できるよ」と辛らつなユーモアで少し溜飲が下がったが。
病や障害は生理的・身体的な基盤を持つ、と無批判に語られることが多い。しかし病や障害は、常に社会から発見されるものだった。逆にいえば発見されなければ、病でも障害でもなかった。むろん、近代的な意味では、発見されることで社会の同質性から外れたことを自他ともに説明でき、ひいてはそれがある種の社会的摩擦を予防したり緩和したりする。しかし発見されることで、対象を作り出し、囲い込み、場合によっては囲い込んだ対象をカルト化させることでは、むしろ摩擦を作り出す(この10年くらい盛んに言われる「共生の欺瞞」も同じ)。落語の与太郎には嫁さんがいて社会に普通になじんでいる光景があることを思い出すべき。
つまり「彼ら彼女ら」を「私たち」に言い換え、同じ目線の延長上に捉えなければ、どのような対応をしても本質的な対応にはつながらないのではないか、と考える。精巧なチェックシートによる判別ができたとしても、意味はない。発見するのは、つねにチェックシートを眺める「あなた」でしかない。だから、「どうすれば発達障害の学生を見分けられるんですか」という、セミナーの主旨を全く理解していない教員への解答は、「あなたもマイノリティかもしれない、と疑ってはどうですか?」から始めるしかない。
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