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ケンタンシって何ですか

とある授業で、インタビュー内容をトランスクリプトさせた(文字起こしさせた)のだけど、その精度が個人差が大きい。人が何を聞き取っているのかに個性があるというのが面白いって話で、音と意味が結びつくゲシュタルトみたいなのの作り方には、人によって違いがあるようだ。

あるインタビューイの発話(神奈川から山形に来た人)に、どうしても聞き取れないフレーズが出てきた。学生もどうしても聞き取れないという。「ケンタンシ」って何ですか、と。僕にはその部分が「ケッタナシ」に聞こえる。話の内容は、田舎では車がなければ生活ができない、都市部で暮らしているときは車なんか必要ないと思っていた、といったもの。前後の具体的な文脈は次の通り。
「独身の時は、*****、車なんて必要ないと思ったもんね」

これを聞き取ろうとした態度のバリエーション。

(1)聞き取れない「ケンタンシ」だか「ケッタナシ」を音声レベルで何とか聞き取ろうとする人。とりあえず「ケッタナシ」だとすると、中部地方で自転車を表すケッタの神奈川への流入かと。しかしアクセントがLHHLLであるため、ケッタである可能性は低い。

(2)文脈から意味がわかるんだから、その部分は省略していいんじゃないかと考える人。文字起こしの目的を理解していません(あとでテキストマイニングにかける)。「通じるんだからいいじゃん」「そうですけど今回はそういう趣旨じゃないんで」「単語なんて会話の中でいちいち聞いてないからね私は」「そうでしょうけど、今回は違うんで」

(3)一聴して「極端な話、っていってますよね」。一同、えー!!!そうだ。確かにそう言っている。どうして聞き取れなかったんだろう。一瞬で分かりますよ、これ、だって。そうであろ。すごい。尊敬した。

(1)は日本語学の人。(2)は英語教育(オーラル中心)の人。(3)は社会学の人(神奈川出身)。ネイティヴの会話だから分かったのかなあ、と日本語学(音声音韻・歴史)は負け惜しみを言うのであった。社会学の人は質的研究手法もあわせ持つので、文字起こしの経験は豊富。(2)の人は、リーディングの指導のときも、文章の構造から著者の言いたいことを汲み取るべきと主張しており、単語とかはどうでもいいという立場を首尾一貫して保持している。(1)の人はあくまでも音声にこだわる。「ケッタナシ~ケッターナシ~キョッターナハーシ~キョクタンナハナシ」、そうなんですよ。省略されちゃってるんですよ(話題の焦点を逸らしつつ終了)。じゃなくて、ケッタから抜け出ることがどうしてもできなかった、という話です。以上。

コメント

元同僚 さんのコメント…
「そういう意味的な空白がディスクールに持ち込まれることによって多様な解釈が生まれることになるが、実はその解釈に正当なものはなく、そのような解釈同士が拮抗する場をしつらえるところにこそ、本テクストの特徴があるのであーる」と、似非ポストモダンな文学研究者。O先生のくだりで大爆笑。
NJM さんの投稿…
笑ってくださってありがとう。というほど僕はO先生を内面化してませんが、僕もリアルにそれを聞いたときは爆笑しました。だって、一緒に授業担当しているのにそんなご発言を。趣旨理解してください(笑)。
Unknown さんの投稿…
ナマでその場で聞いていても意味がわからなかっただろうか。最初に聞いた学生さんが「けったなし」といったから、他の聞き取り方がしにくくなったのかもね。
NJM さんの投稿…
(た)さん

 お返事遅くなりまくり。その場にいた人たちは、それが後で聞き取りに困る談話になったかどうか、意識せずにいたみたいです。我々、結構O先生みたいに文脈に依存して内容を理解しているというか、内容よりもコミュニケーション重視で会話しているかもしれませんね。

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