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パッソ、MacBookAir、タモリ

金水氏の役割語の研究以来(→amazon)、言葉そのものや内容という次元からもう一歩引いた、メタ視点からの研究フレームが人気。言葉を価値あるモノとする視点には、ステレオタイプの問題や、言語衰退や差別の問題も隠れているが、開き直って楽しもうとする態度もまあアリっちゃアリだろう。都市部の方言萌えなブームなんかも。この何でもネタにする能力は、類人猿と人間を区別するよなあと思う。

ちょっと前に有名だった多言語対応自動販売機、東北方言バージョンなんかは、首都圏でしかありえない商品で、韓国語・中国語・ポルトガル語と並べて東北方言というところに面白さがある。それくらい東北方言はよその地域で通じないというジョークには、「言語と方言を分かつものは軍隊の有無である」みたいな社会言語学のテーマを含みつつ、やっぱり上から目線が強烈に内包されていることも事実。ゆえにこれを聞いた東北人の一部は率直に「なめんなよ」と直情的に反応する(当たり前)。


東北方言の悲しい位置づけは、役割語における「田舎者」属性は東北方言をしゃべらされるという広く知られた事実によっても支えられる。アメリカ映画の日本語吹き替え版でも西部出身は東北方言的なものを話す。それはもうそういう「役割」なんだけど、役割をずらすとおかしみが生ずる。

広島方言によるMacBookAirの翻訳なんかはそれの好例で、「男らしい・硬派・無頼」というマンガ的にはおいしい属性が、インテリジェンス漂うApple製品の広告(←そこはかとなくけなしてます)の吹き替えに当てられるとおかしくて仕方がない。すなわち中国地方の人たちには知性がないというこのステレオタイプを如何せん。あるいはappleの本質が技術者集団にあるのだとして、それが鉄工所とか造船所のイメージが持つ「技術」と地続きになるおかしみ、というのもあるか。ともあれ中国地方の人たちは東北地方の人たちみたいに怒れよ(笑)!



トヨタパッソのCMは、フランス語っぽく見せた演出のなかで使われた津軽弁として話題になった。それっぽく聞かせるために言葉の配列に工夫を加えているので、ネイティヴによれば多少不自然に聞こえるらしい。これが面白いのは、トリックアート的な関心の裏側に、田舎者属性=東北方言と知的おしゃれ属性=おフランスの、価値の転倒があるからだ。


思えばタモリの伝説的演芸、一人四ヶ国語麻雀も、言葉の特徴をうまく捉えたものとして高く評価されるが、表象されている○○人はこれ以上ないくらいにステレオタイプに支えられている。日本人は無口でモゴモゴ、中国人は怒りっぽくて軽薄(カンフー映画の罪だと思う)、アメリカ人は理屈っぽくて高踏的、朝鮮の人は儒教的な男らしさで味付けされている。


そんなわけで面白い。けどこれを楽しめるのは微妙っちゃ微妙だよねえとも思う。笑いが本質的に持つヤバさ、って話なんだろうか。

コメント

Unknown さんの投稿…
こんな自販機があるのは初めて知った。ことば遣いは秋田あたりの感じかね。
広島弁の吹き替えは、どちらかというと、この広島弁の人の語りの調子、声の質感みたいなものに感心してしまった。なんだか、熱のこもったキビキビした感じで。東北から北関東にかけての方言の調子って、もう少しのんびりした雰囲気があるように思うのだけれど、それもステロタイプかな。

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