ダニエル・L・エヴェレット『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』(→amazon)読了。文化人類学的なフィールドワーク体験記が基調で、そこに言語学的な発見が散りばめられている本。アマゾンに住むピダハンという部族が他に見られない言語の特徴を持つこと、とりわけチョムスキーやピンカーによって知られる、言語を人間の本能の一部ととらえる本質主義的な見方に「それはどうだろう?文化による構築も大きいのでは?」という一石を(言語学史的には「改めて」)投じたことで、言語学の世界では話題となったようだ。
著者は言語学者でもあるが、聖書をあらゆる言語に翻訳することを目的としたSIL(SIL International)にかつては所属していた。ピダハンの言語を充分に記述するのは、聖書のピダハン語版を作成することだったわけだが、ピダハンの文化に対する研究を深めていくうちに相対主義的な思考が進み、最終的には無神論に行き着いてしまう。それほどにピダハンの文化は西洋の文化とは違うということだろうと思う。
もっとも、言語を文化人類学から捉える文化相対主義の考え方は、チョムスキー以前のアメリカ言語学でそれなりの潮流をなしていたボアズ、サピアにもあった。その後、バーリンとケイによる色名の研究で、過度な相対主義への批判があり人間の認知能力と言語の関わりが問われる。本書の価値は生成文法への批判を、言語と認知は文化的な制限のもとで構築されることを説いた点にあるだろう。現代言語学では言語は文化とは独立に存在する体系とされてきた。だから、ちょっと見、この本は古臭くも見える。いまさら本当にそんなことがあり得るのかなとも思う。
著者は、ピダハンの文化には「直接体験の原則」があるという。「実際に見ていない出来事に関する定型の言葉と行為(つまり儀式)は退けられる。(中略)だがこのような禁忌のみならず、直接経験の原則のもとには、何らかの価値を一定の記号に置き換えるのを嫌い、その代わりに価値や情報を、実際に経験した人物、あるいは実際に経験した人物から直接聞いた人物が、行動や言葉を通して生の形で伝えようとするピダハンの思考が見られる。」(p.121)だから、ピダハンには世界中の殆どの民族にはあるらしい「世界創造」の伝承がないという。誰も直接それを見ていないという理由で。
それが言語にどう影響するか。本書のハイライトは「文化が言語に影響する」ことの有力な根拠の一つとなる、ピダハンの言語が再帰性(リカージョン)を欠くという説明だ。言語についての記載が必ずしも多くないなかで、わざわざ1章分を割いてある。言語学で言う狭義のリカージョンは、「文のある構成要素を同種の構成要素に入れ込む力」(p.318)と定義される。文の入れ子構造といってもいい。本書に出てくる例を使っていうと、「ダンが針を買った」「その針を持ってきてくれ」という時に、日本語でも「ダンが買った針を持ってきてくれ」と言うことができる。「針を持ってきてくれ」が主節で、その中に従属節「ダンが買ってきた針」が入れ子構造的に埋め込まれている。分解すれば2つの事象を1つの文に入れて説明できる。こうしたいわば関係節を含む文を作ることは「すべての」言語でできる、と言語学では言われてきた。
これがピダハン語ではできない。ピダハン語では「針を持ってきてくれ。ダンがその針を買った。同じ針だ」と3つの文で表現される。「同じ針だ」が、ちょうど関係節のマーカーのような働きをしていて、前の2つの文が接続されている。しかし見た目に文として埋め込まれていないし、文法的にも音調的にも埋め込まれているというマーカーが見つからない。あらゆる文を検証してもやはり同様の結果が得られるということで、ピダハン語には再帰性を欠くということらしい。
「直接体験の原則」に従うと、この言語的現象は、主節のみが直接経験であり従属節は直接経験ではない、と説明されるという。本書にはそこまで説明はないが、いま私的に解釈するならば、「ダンが買った針を持ってきてくれ」という文が成立する場にいる談話参加者にとって、「針を持ってくる」行為は目に見えた直接的な経験だが、「ダンが買った」かどうかは両者が情報として共有しているものの直接体験したわけではない。したがって、こうした入れ子構造は許されない、という。なんとなく分かったような、分からないような。きちんと理解するには原論文を読んでみる必要があるだろう。文法研究者のレビューも読んでみたい。
ともあれ、言語相対主義にワクワクした向きには興奮すること請け合いな本ではある。著者の主張がチョムスキーやピンカーにどれだけ対抗しうるものなのか、僕は疎い。言語学という主節で論じられる従属節日本語学は、言語学を直接体験していないという点にいつも反省がある。
もっとも、言語を文化人類学から捉える文化相対主義の考え方は、チョムスキー以前のアメリカ言語学でそれなりの潮流をなしていたボアズ、サピアにもあった。その後、バーリンとケイによる色名の研究で、過度な相対主義への批判があり人間の認知能力と言語の関わりが問われる。本書の価値は生成文法への批判を、言語と認知は文化的な制限のもとで構築されることを説いた点にあるだろう。現代言語学では言語は文化とは独立に存在する体系とされてきた。だから、ちょっと見、この本は古臭くも見える。いまさら本当にそんなことがあり得るのかなとも思う。
著者は、ピダハンの文化には「直接体験の原則」があるという。「実際に見ていない出来事に関する定型の言葉と行為(つまり儀式)は退けられる。(中略)だがこのような禁忌のみならず、直接経験の原則のもとには、何らかの価値を一定の記号に置き換えるのを嫌い、その代わりに価値や情報を、実際に経験した人物、あるいは実際に経験した人物から直接聞いた人物が、行動や言葉を通して生の形で伝えようとするピダハンの思考が見られる。」(p.121)だから、ピダハンには世界中の殆どの民族にはあるらしい「世界創造」の伝承がないという。誰も直接それを見ていないという理由で。
それが言語にどう影響するか。本書のハイライトは「文化が言語に影響する」ことの有力な根拠の一つとなる、ピダハンの言語が再帰性(リカージョン)を欠くという説明だ。言語についての記載が必ずしも多くないなかで、わざわざ1章分を割いてある。言語学で言う狭義のリカージョンは、「文のある構成要素を同種の構成要素に入れ込む力」(p.318)と定義される。文の入れ子構造といってもいい。本書に出てくる例を使っていうと、「ダンが針を買った」「その針を持ってきてくれ」という時に、日本語でも「ダンが買った針を持ってきてくれ」と言うことができる。「針を持ってきてくれ」が主節で、その中に従属節「ダンが買ってきた針」が入れ子構造的に埋め込まれている。分解すれば2つの事象を1つの文に入れて説明できる。こうしたいわば関係節を含む文を作ることは「すべての」言語でできる、と言語学では言われてきた。
これがピダハン語ではできない。ピダハン語では「針を持ってきてくれ。ダンがその針を買った。同じ針だ」と3つの文で表現される。「同じ針だ」が、ちょうど関係節のマーカーのような働きをしていて、前の2つの文が接続されている。しかし見た目に文として埋め込まれていないし、文法的にも音調的にも埋め込まれているというマーカーが見つからない。あらゆる文を検証してもやはり同様の結果が得られるということで、ピダハン語には再帰性を欠くということらしい。
「直接体験の原則」に従うと、この言語的現象は、主節のみが直接経験であり従属節は直接経験ではない、と説明されるという。本書にはそこまで説明はないが、いま私的に解釈するならば、「ダンが買った針を持ってきてくれ」という文が成立する場にいる談話参加者にとって、「針を持ってくる」行為は目に見えた直接的な経験だが、「ダンが買った」かどうかは両者が情報として共有しているものの直接体験したわけではない。したがって、こうした入れ子構造は許されない、という。なんとなく分かったような、分からないような。きちんと理解するには原論文を読んでみる必要があるだろう。文法研究者のレビューも読んでみたい。
ともあれ、言語相対主義にワクワクした向きには興奮すること請け合いな本ではある。著者の主張がチョムスキーやピンカーにどれだけ対抗しうるものなのか、僕は疎い。言語学という主節で論じられる従属節日本語学は、言語学を直接体験していないという点にいつも反省がある。
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