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怒りのハードルが下がっているのであって。

不法入国:在留許可求め嘆願書 比人中学生と両親が法相に - 毎日jp(毎日新聞)という事件なのであって、まあ時々目にする話ではある。さあ俺はもう怒り心頭である。

 日本で生まれ育ち、日本語しか話せないフィリピン人の中学1年生、カルデロン・ノリコさん(13)=埼玉県蕨市=と両親への退去強制命令を取り消してもらおうと、ノリコさん一家が20日、在留特別許可を求める嘆願書を森英介法相あてに提出した。

 ノリコさんの父アランさん(36)と母サラさん(38)は92~93年、他人名義の旅券で入国。95年にノリコさんが生まれた。06年にサラさんが入管法違反で逮捕され有罪となり、一家に退去強制命令が出た。取り消し訴訟も敗訴し、今月27日に退去の期限が迫っている。

 ノリコさんは「友達とダンススクールを開くのが将来の夢。生まれ育った日本が大好き。フィリピンでの暮らしは想像できない」と訴えた。


 入国してくる(して来ざるを得ない)事情は色々あるわけで、その辺の事情を言い出したらきりがないのは分かるけれど、mixiとか見ると「法律を犯したお前の両親が悪い。帰れ」みたいな意見にホントマジ死ぬほどうんざりする。何で法律に自己同一化して上から目線で語るかな。法律を守っているお前は全く偉くない。お前はたまたま法律を守っている結果で生き延びているだけだ。「自分勝手な欲望を持つ無軌道な人間に対する処罰」として当然だと思うんなら、んなもんメディアと世間の欲望にふくらまされている自我を、疑いもなく現状を生きている恥ずかしさを、他者への想像力を欠いて生き延びていることを、もう少し考えろ。そいからあれだ、法律があって人があるんじゃなくて、人があって法律があるんだろうが。構築してんだよアホが。神の視点みたいに語ってんじゃねーよボケ。

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