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山形でリセットする

夏の研究ラッシュが終わって、職場のちと面倒くさい案件もソフトランディングしたところで、ああもう忘れてた、な原稿も午前中で書き終えて(大幅な字数オーバー)、今週からいよいよ通常授業が始まる。一度リセットしなければたぶんまずい、とカラータイマーが点滅する前に陽の光を浴びておこう大作戦in蔵王温泉。思い立って観光センターに電話して、紹介してもらった空きのある宿に決める。40分ほどの距離に温泉街があるなら、それを利用してみようホトトギスなのであった。思えば、近所のちょっと遊びに行く日帰りスポットとしての利用はあっても、温泉宿泊客というのは一度もなかった。

ロープウェーに乗ってみたり、 買い食いしてみたり、ジャズライブ見てみたり、どうということはない温泉客をやって就寝。朝は子供と一緒にプリキュアとかドラゴンボール見たりとか、ダラダラ過ごす。雨の蔵王はやることなし。チェックアウトして、下山して街中へ。

山形で遊べるなら何があるかなあ、など考えながら運転する。山形まなび館・MONO SCHOOLって、あったなあということを思い出す。その昔、なおうに荒井良二の絵本『おばけのブルブル』(→amazon)をもらって、偶然にも出身地の山形に赴任することになった。で、イベント荒井良二の山形じゃあにぃ2010は芸工大のチームによる企画。小学校跡地を非常にうまく使っている。子供大喜び。大人向けの物作りに裏打ちされた、子供の世界のあざとさもまたうまい。

荒井良二とは別に常設展もあって、そちらでは明治以降の小学校教科書や、学校日誌など生々しい資料を見ることができる。平安以降の出土品展示コーナーもあったが、ちょっと節操がない感じか。嶋地区から出土の呪符木簡拝見。東北にいた文字が書ける知識層なのか、中央からの持ち込み品なのか、どちらなんだろと思う。

お昼は、家族には初めての一寸亭肉そば。いったん帰宅して、友達の子供と西蔵王公園でアスレチック。ガンガン遊びます。最後はFROM*YAMAGATAさんがツイートしてた、西蔵王の隠れ温泉。この露天から見えた雲がちの夕陽はもう最高でした。フツーにたくさん遊んだぞ!

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お尻はいくつか

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