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マンガだよっ

学会以来忙しくて、なかなか書けなかったのだけど、この数週間で読んだマンガを。書影乱舞。

入江亜季『乱と灰色の世界』(→amazon)は、とうとう買っちゃった。群青学舎から何気に読んでいますが(買ってない)、買ったら好きになるだろうなあと思っていました。新谷かおるみたいな線を描く人で、輪郭がはっきりしていて書き込みが多いのにキラキラした感じ。好きです。ああ、好きです。



ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ(2)』(→amazon)は、俺は受賞する前からこのマンガに目をつけていたよっ!と某所でひとりで訴えているわけですが、小樽で起こったロシア人との入浴トラブルの話なんかもう俺に語らせろと。あそこは入浴の解説があったから救われたのではなくて、多言語版の入浴案内を作って解決に向かおうとしたのであって、ローマ人は属州ゲルマンの人向けにゲルマン語派の何か(1世紀ごろのあのへんの言葉)で看板作ればよかったんだ。合わせてヤマザキマリ『涼子さんの言うことには』(→amazon)。いいお母さんだよ。



よしながふみ『きのう何食べた?(4)』(→amazon)は、待ち望んでいた4巻。読むたびに主人公の筧氏とどこかで競い合っている僕ですが、料理上手な友人が家に遊びに来る話は激しく共感しました。僕もそれなりに料理を作るけど、そういうコジャレた感じのパーティー料理はダメなのよね。エビとしいたけの蕪料理はそのうち絶対作ります。ちなみにこれは学会で歩きまわって、マックで休憩しながら読みました。楽しい物を読むと疲れが一気に回復するわー。



久保保久『よんでますよ、アザゼルさん(5)』(→amazon)はもう完全にシモ方向に流れています。小中学生ノリです。いい加減大隈重信が本気で怒らないうちに大概にしたほうがいい。それでも読者をやめませんが。



杉本亜未『ファンタジウム(6)』(→amazon)は、相変わらず感度バリバリです。言語聴覚士登場なんですが、こいつの胡散臭さの描かれ方がうまいわー。「君の人生の目的は何?」いるいるこういうやつ。いろんな意味で目が離せないマンガ。



五十嵐大介『SARU(下)』(→amazon)は、相変わらずの五十嵐節です。これは最高傑作『魔女』(→amazon)のスピンオフと見て良い?星の楽団が夜のアルプスで歌いだすシーンで、空間に花が咲きみだれてゆく演出があるんだけど、あれを静止画たるマンガであれだけ描くところに、もう感涙です。魔女の第一話の書き込みも鳥肌がたったけど、同じくらいぞわっとした。表紙はマツコ・デラックス、もといVOJAのリーダーの人です(どちらも嘘)。




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ところで。テルマエ・ロマエだけはネット注文じゃなくて、書店で買いたかった。うまく言えないけど、ネットで敢えて買わないようにしているマンガがある。それはこの作品はどうの、ということでもなくて、タイミングみたいなもので、たまには書店に行かなきゃならないイベントを強制的に用意しておくといった意味合いが強いのだけど、テルマエ・ロマエが発売日を過ぎても全然見つからないのね。マンガにそれなりに力を入れているこまつ書店の話だけども(僕はこまつ書店が八文字屋の79倍くらい好きです)。そしたら、新刊じゃない普通のコーナーに平置き。これには数日たってから気づいた。

マンガ大賞、手塚治虫文化賞を受賞ですよ?前に出して売れよ!しかも温泉で売っている山形なのだから、東北の温泉の写真とか無駄に使った旅行ムックとか死ぬほど別コーナーにあるだろが。あれと抱合せで隣に置くとか見せ方あるでしょうよ。山形に来て思うところはいろいろあるけど、本を本気で売ろうとしてないのに時々イラッと来るわ。本が好きなんだなあって心から思わせられたのは、上山にあるビッグバンね。あそこは愛が溢れている。必要なら買いに来るでしょじゃなくて、本屋さんってもっと地域の文化的な発信地だったりするんだけど、子供向けの勉強本じゃなくて大人に読まなきゃいけない本をおすすめすべき。と書いてみて気づいたけど、そっか。俺ら大学教員が学生と一緒に定期的にポップ書いて持ち込んでもいいわけだ。それおもろい。今度企画作ってみる。以上。

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お尻はいくつか

子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。

あさって、やなさって、しあさって、さーさって

授業で、言語地理学の基礎を取り扱うときに出す、おなじみのLAJこと日本言語地図。毎年、「明日、明後日、の次を何と言うか」を話題にするのだが、今年はリアクションペーパーになんだか色々出てきたのでメモ。これまでの話題の出し方が悪かったのかな。 明後日の次( DSpace: Item 10600/386 )は、ざっくりしたところでは、伝統的には東の国(糸魚川浜名湖ライン以東)は「やのあさって(やなさって)」、西の国は古くは「さーさって」それより新しくは「しあさって」。その次の日( DSpace: Item 10600/387 )は、伝統的には東西どちらもないが、民間語源説によって山形市近辺では「や(八)」の類推で「ここのさって」、西では「し(四)」の類推で「ごあさって」が生まれる、などなど(LAJによる)。概説書のたぐいに出ている解説である。LAJがウェブ上で閲覧できるようになって、資料作りには便利便利。PDF地図は拡大縮小お手の物ー。 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図285「明明後日(しあさって)」 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図286「明明明後日(やのあさって)」 さて、関東でかつて受け持っていた非常勤での学生解答は、「あした あさって しあさって (やのあさって)」がデフォルト。やのあさっては、八王子や山梨方面の学生から聞かれ、LAJまんまであるが、ただし「やのあさって」はほとんど解答がない。数年前にビールのCMで「やのあさって」がちらりと聞ける、遊び心的な演出があったが学生は何を言っているのかさっぱりだったよう。これはかつての東国伝統系列「あした あさって やのあさって」に関西から「しあさって」が侵入して「やのあさって」は地位を追い落とされひとつ後ろにずれた、と説明する。「あした あさって やのあさって しあさって」は期待されるが、出会ったことがない。 山形では「あした あさって やなさって (しあさって)」と「あした あさって しあさって (やなさって)」はほとんど均衡する。これには最初驚いた。まだあったんだ(無知ゆえの驚き)!と(ただしLAJから知られる山形市の古い形は「あした あさって やなさって さーさって」)。同じ共同体内で明後日の翌日語形に揺れがある、ということは待ち合わせしても出会えないじゃないか。というのはネタで、実際は「~日」と

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