スキップしてメイン コンテンツに移動

震災から半月

震災から一度も給油しなかった自動車に、マンタンでガソリンを入れた。ようやく日常が戻った気がする。山形は激甚被災地に近い県にしては圧倒的に被害が少なかったが、道路では仙台、鉄道では福島を経由するために、物流が滞り、しばらくのあいだ燃料もほぼ底をついた。わずかな燃料をめぐってガソリンスタンドの近辺では長蛇の列ができていたし、初期は先着順だったために晩のうちから車を止めておく現象も問題化した。ちょっとした狂想曲めいた事態をすぎて、僕が住む近所では3月29日あたりを境にガソリンスタンドが通常営業に戻っていった。

もともと僕は自転車通勤が多かったので、出勤するのに車がなくても不便はなかった。ただ、どこへも行けなくなった子どもや妻の閉塞感は大きかったようだ。ただでさえ四方を山に取り囲まれているところに外部とのルートが断線して、僕自身も陸の孤島に残された気持ちになっていた。

自動車が動くようになって、これまでできなかったことをいくつか。ミスドで震災支援と銘打った全品半額セールに出会う。被災している気持ちは、関東同様ほとんど希薄な山形であるから、支援の恩恵に与る違和感を感じつつ、お店に入る。半額と聞きつけた客の長蛇の列に、我々もつく。ガソリンのために絶対並ばない決意は、ドーナツの前ではあえなく崩れた。

子どもたちも久しぶりに楽しそう。

ショーケースのドーナツを見ているだけで楽しくなるものだね。

大人は抹茶のオールドファッション、コーヒーを。ドーナツ、僕は特段好きなわけではないが、妙にうまく感じた。地震がなければこうは感じなかったかな。福島のことがまだまだ見えないのでこのまま少しずつ日常に戻っていけるのか全く見えない。でも、今は少しずつ。

* * * * *

地震の時、職場の図書館にいた。ゆれを感じた職員が「逃げてください!」と叫ぶので、さほど慌てることなく外へ逃げた。図書館前のアスファルトに立って、尋常ではない揺れの大きさと長さに、あとから怖さが立ち上がった。その時間、職場4階ではでは公務員講座をやっていた。地震の直前に学生たちの携帯電話が一斉に鳴り出し、マナーモードにしているのにおかしいと慌てて一斉に携帯の電源を切ろうとしたそうだ。都内の電車でも似たようなことがあったようだね。

揺れが収まるのを待って、帰れないゼミ生を連れて自宅に戻り、妻と小学校に子どもを引き取りにゆき、暗い部屋で携帯電話でワンセグ放送を見る。大変なことが起こっているんだなあとぼんやり理解しつつ、停電のためにネットも使えず具体的な状況がほとんど把握できないので、近所でお弁当を買い込んでさっさと寝てしまったのが初日。雪も激しくなって、何もできることがなかった。

この半月の間に色々あったけれど、1つだけ。地震の直後、近所の「太陽警備」という会社が動かない信号だらけの交差点で交通整理をやっていたこと。譲り合いの難しい状況で各地で大渋滞が起こっていたのだけど、「太陽警備」が交通整理をしていたところだけはスムーズに動いていた。身近にボランティアが立ち上がった、あのインパクトには心動かされるものがあったなあ。その他、細かいことはtwitterに断片的に記し来たったとおり。

* * * * *

不幸があった学生もいた。その支援をどうするか、上から現場まで奔走した2週間だった。職場の慌てぶりは情けないところもあったけれども、みなおかしいくらい真剣だった。うちの職場ののんびり加減を知っている人なら分かってくれるかもしれない。それも落ち着き、遅れた新学期をどう乗り切るかに話題はシフトしている。

ひとまず、2週間すぎて振り返ることができるようになってきた、という話。

コメント

つぇやん さんのコメント…
質問。「地震の直前に学生たちの携帯電話が一斉に鳴り出し」ってどういう現象だったの?
NJM さんの投稿…
これ、被災地でないと分かりにくいかもね。いま各社携帯のデフォルト設定かで、地震がやってくる3秒前くらいに警報がなるのです。マナーモードであろうとそうでなかろうと強制的に大きな不協和音の警報で、それが教室内で一斉になりだしたという話。

この音が地震以来しょっちゅう鳴るので、当初は気味悪かったのが、もう慣れたわ(笑)。こういう慣れは本当は良くないのですけどね。
つぇやん さんのコメント…
ああ、テレビの地震警報みたいなものね。でもそれはびっくりするね。

このブログの人気の投稿

お尻はいくつか

子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。

あさって、やなさって、しあさって、さーさって

授業で、言語地理学の基礎を取り扱うときに出す、おなじみのLAJこと日本言語地図。毎年、「明日、明後日、の次を何と言うか」を話題にするのだが、今年はリアクションペーパーになんだか色々出てきたのでメモ。これまでの話題の出し方が悪かったのかな。 明後日の次( DSpace: Item 10600/386 )は、ざっくりしたところでは、伝統的には東の国(糸魚川浜名湖ライン以東)は「やのあさって(やなさって)」、西の国は古くは「さーさって」それより新しくは「しあさって」。その次の日( DSpace: Item 10600/387 )は、伝統的には東西どちらもないが、民間語源説によって山形市近辺では「や(八)」の類推で「ここのさって」、西では「し(四)」の類推で「ごあさって」が生まれる、などなど(LAJによる)。概説書のたぐいに出ている解説である。LAJがウェブ上で閲覧できるようになって、資料作りには便利便利。PDF地図は拡大縮小お手の物ー。 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図285「明明後日(しあさって)」 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図286「明明明後日(やのあさって)」 さて、関東でかつて受け持っていた非常勤での学生解答は、「あした あさって しあさって (やのあさって)」がデフォルト。やのあさっては、八王子や山梨方面の学生から聞かれ、LAJまんまであるが、ただし「やのあさって」はほとんど解答がない。数年前にビールのCMで「やのあさって」がちらりと聞ける、遊び心的な演出があったが学生は何を言っているのかさっぱりだったよう。これはかつての東国伝統系列「あした あさって やのあさって」に関西から「しあさって」が侵入して「やのあさって」は地位を追い落とされひとつ後ろにずれた、と説明する。「あした あさって やのあさって しあさって」は期待されるが、出会ったことがない。 山形では「あした あさって やなさって (しあさって)」と「あした あさって しあさって (やなさって)」はほとんど均衡する。これには最初驚いた。まだあったんだ(無知ゆえの驚き)!と(ただしLAJから知られる山形市の古い形は「あした あさって やなさって さーさって」)。同じ共同体内で明後日の翌日語形に揺れがある、ということは待ち合わせしても出会えないじゃないか。というのはネタで、実際は「~日」と

三つ葉をミツパと呼ぶ理由

山形で、あるいは言葉によっては東北で広く聞かれる変わった発音に、関東では濁音でいうところを清音でいうものがある。「ミツパ(三つ葉)」「ナガクツ(長靴)」「ヒラカナ(平仮名)」「イチチカン(一時間)」「〜トオリ(〜通り:路の名前)など。小林好日『東北の方言』,三省堂1945,p.74にはこれに類した例が、説明付きでいくつか挙がっている(音声記号は表示がめんどいので略式で。なおnは1モーラ分ではなく、鼻に抜ける程度の入り渡り鼻音(njm注))。 鼻母音があるとその次の濁音が往々にして無声化し、その上にその次の母音まで無声化させることがある。  ミツパ(三つ葉) mitsunpa  マツパ(松葉) matsunpa  マツ(先づ) mantsu  クピタ(頚) kunpita  テプソク(手不足) tenpusoku  カチカ(河鹿) kanchika  ムツケル(むずかる・すねる) muntsukeru この無声化はなほそのあとの音節にまで及ぶこともある。  アンチコト(案じ事) anchikoto  ミツパナ(水洟) mitsunpana この現象は法則的に起こるのではなく、あくまでも語彙的・個別的に生じている。これって、どうしてこういうの?ということを仮説立ててみる。 * * * * * 伝統的な東北方言では、非語頭の清濁は鼻音の有無で弁別される。よく教科書に挙がる例では以下がある。 mado(的):mando(窓) kagi(柿):kangi(鍵)*ngiは鼻濁音で現れる場合と、入り渡り鼻音+濁音で現れる場合とあり 語頭では他の方言と同様に有声音と無声音の対立があり、非語頭では上記のような鼻音と非鼻音の対立がある(そして有声音と無声音は弁別には関与しない)のが特徴的と言われるが、こうした弁別体系は古代日本語の残照と言われることもある。実証的な論考で明示されたことではないのだが、多くの概説書で「〜と考えられている」といった程度には書かれており、定説とは言わないまでも通説と言ってよいだろう。 非語頭の濁音音節前に現れる入り渡りの鼻音は、中世の宣教師による観察にも現れているので、比較的最近まで(日本語史は中世も最近とかうっかり言います)近畿方言にも残っていたとされる。このあたりは文献資料でも確かめられるために、実証的な論考でも言い尽くされているところ。 さて、古代日本語