ニキ・リンコ×藤家寛子『自閉っ子、こういう風にできてます!』(→amazon)を途中まで読んでいる。高機能広汎性発達障害の人と係わりができたので、研究室隣人の専門家に初心者に分かりやすいやつをお願いしたら、この本が出てきた。自閉症、高機能発達障害、アスペルガーの違いも全然分からないところからのスタートだが、稀有な本だなーと思いつつ、超面白い!
帯には「自閉の翻訳家と作家が今こそ語る独特の身体感覚と世界観」とあるように、この本の眼目は、自閉ではない人たちの知らない世界認識が、自閉ではない人たちの言葉で語られている点にあると思う。つまりそれって、僕らの言葉では語りきれない世界認識が自閉の人たちにはあるのだけれど、でもそれを僕らの言葉で敢えて語る=翻訳するならこうなるという、異文化体験でもある。自閉についてよく言われるコミュニケーション「能力の欠如」というのも、そう書けばそれきりだけど、どうやら自閉側の世界から見れば「欠如」ではない違う世界の見え方が存在しているようだ。
それをよく表しているのが、本書によく出てくる「定型発達の人」という言葉である。自閉「症」という病認定は「こちら側」のシステムから出ているに過ぎない。ある集団を「健全」と認定するために要請された外部としての「病」というレトリックなわけで、外部とされた側から「健全」を逆照射した場合の呼び名というのを作り出すことは可能である。「定型発達」という言葉の定義や意味は厳密に本書に書かれていないし、ネットでもすぐには見つけられないが、ざっくりと「健常者」の訳語として用いられているようである。「お定まりの型で発達した人たち」という、ややひねりのある呼び名なのかもしれない。こういう集団に呼称を与えるやり方は、集団内部の個人差を見えなくしがちだが、自閉の人たちにも個人差がある。この本は自閉の人同士の対談形式をとっているので、それが良く分かる。身体感覚や他の人との関わりの持ち方なども、ずいぶん違うようだ。そう考えると、やっぱり「定型発達」という言葉には少なからず含むところがあるんだろうなと思う。
* * * * *
googleで「定型発達者」という言葉を検索すると、自閉側から定型発達者を理解・解釈しようとする研究や試みがいくつかヒットする。「向こう側」から「こちら側」がどのように解釈されようとしているか、を知ることで「こちら側」の特性に気付くというのは、よくある話だが、もう一つ「向こう側」と「こちら側」という境界自体が実は曖昧であることに気付くというのもよくある話。定型発達者の会話では気遣いや感情が他のものに優先する - アスペルガーライフblogでは、定型発達者とのコミュニケーショントラブルの実例として、「大変そうだね、手伝おうか?」と言われた場合に意味内容だけを読み取って「いらない」と答えるのではなく、相手への気遣いや感情を重視して「ありがとう、でも、もう少しでおわるからいいわ」と答えるべきだという。こういう知見は「こちら側」だけでも十分役に立つわけで、すでに境界はあいまい。もう一歩進んで、そもそも「こちら側」と呼ばれる世界は「配慮することが望ましい」文化的規制というか圧力によって構築されているというところまで行くともっと楽しい(つまり私たちはそういう空気を醸成していることに自覚的になるということ)。
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「向こう側」と「こちら側」が連続しているということについては、専門家の分類にも表れている。wikipediaの自閉症 分類図によれば、知能指数と自閉傾向の2軸で「健常者」から自閉「症」まで段階的な分類を行うと、ちょうど光のスペクトルのような連続体として解釈されるという(まさにniji wo mitaにふさわしい話題!)。こうした捉え方をするようになったのは、どうも20世紀終わりごろのようだ。自閉のひとたちを外部・周縁に置くのではなく、日常の延長として捉えることが、ひたすら外部を作り出そうとしてきた20世紀の反省だとすれば、21世紀的には社会でどうフツーに受け止めるかが課題となるのだろう。
帯には「自閉の翻訳家と作家が今こそ語る独特の身体感覚と世界観」とあるように、この本の眼目は、自閉ではない人たちの知らない世界認識が、自閉ではない人たちの言葉で語られている点にあると思う。つまりそれって、僕らの言葉では語りきれない世界認識が自閉の人たちにはあるのだけれど、でもそれを僕らの言葉で敢えて語る=翻訳するならこうなるという、異文化体験でもある。自閉についてよく言われるコミュニケーション「能力の欠如」というのも、そう書けばそれきりだけど、どうやら自閉側の世界から見れば「欠如」ではない違う世界の見え方が存在しているようだ。
それをよく表しているのが、本書によく出てくる「定型発達の人」という言葉である。自閉「症」という病認定は「こちら側」のシステムから出ているに過ぎない。ある集団を「健全」と認定するために要請された外部としての「病」というレトリックなわけで、外部とされた側から「健全」を逆照射した場合の呼び名というのを作り出すことは可能である。「定型発達」という言葉の定義や意味は厳密に本書に書かれていないし、ネットでもすぐには見つけられないが、ざっくりと「健常者」の訳語として用いられているようである。「お定まりの型で発達した人たち」という、ややひねりのある呼び名なのかもしれない。こういう集団に呼称を与えるやり方は、集団内部の個人差を見えなくしがちだが、自閉の人たちにも個人差がある。この本は自閉の人同士の対談形式をとっているので、それが良く分かる。身体感覚や他の人との関わりの持ち方なども、ずいぶん違うようだ。そう考えると、やっぱり「定型発達」という言葉には少なからず含むところがあるんだろうなと思う。
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googleで「定型発達者」という言葉を検索すると、自閉側から定型発達者を理解・解釈しようとする研究や試みがいくつかヒットする。「向こう側」から「こちら側」がどのように解釈されようとしているか、を知ることで「こちら側」の特性に気付くというのは、よくある話だが、もう一つ「向こう側」と「こちら側」という境界自体が実は曖昧であることに気付くというのもよくある話。定型発達者の会話では気遣いや感情が他のものに優先する - アスペルガーライフblogでは、定型発達者とのコミュニケーショントラブルの実例として、「大変そうだね、手伝おうか?」と言われた場合に意味内容だけを読み取って「いらない」と答えるのではなく、相手への気遣いや感情を重視して「ありがとう、でも、もう少しでおわるからいいわ」と答えるべきだという。こういう知見は「こちら側」だけでも十分役に立つわけで、すでに境界はあいまい。もう一歩進んで、そもそも「こちら側」と呼ばれる世界は「配慮することが望ましい」文化的規制というか圧力によって構築されているというところまで行くともっと楽しい(つまり私たちはそういう空気を醸成していることに自覚的になるということ)。
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「向こう側」と「こちら側」が連続しているということについては、専門家の分類にも表れている。wikipediaの自閉症 分類図によれば、知能指数と自閉傾向の2軸で「健常者」から自閉「症」まで段階的な分類を行うと、ちょうど光のスペクトルのような連続体として解釈されるという(まさにniji wo mitaにふさわしい話題!)。こうした捉え方をするようになったのは、どうも20世紀終わりごろのようだ。自閉のひとたちを外部・周縁に置くのではなく、日常の延長として捉えることが、ひたすら外部を作り出そうとしてきた20世紀の反省だとすれば、21世紀的には社会でどうフツーに受け止めるかが課題となるのだろう。
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