日本語学的にはちょっと古い話題なんだが、小松英雄『古典再入門―『土佐日記』を入りぐちにして』(→amazon)読了。仮名文学が、基本的に漢字を交えずに成立していることのアドバンテージはこういふうに利用されているんだよ、という話。仮名文学は漢字表記によって意味を固定されていないために、ああも読めるしこうも読めるよう仕掛けられる=複線構造になっているというお馴染みの方法論で切り込む。今回も文献学的な知見、特に連綿による語境界表示、仮名字母の話を織り交ぜつつ、既存の注釈書や辞書をぶったぎっている。オチを先に言うようで恐縮だが、『土左日記』の「男もすなる日記といふものをゝんなもしてみむとてするなり」というよく知られた冒頭文の解釈を、掛け言葉として読み直してみると、「男文字(す)」「女文字」が浮かび上がる、そこから本文を読みなおすと教室で習ったのと違った読みが見えてくる、というお話。
知的興奮とともに、何か追いつめられるような重圧もわずかに感じるのはなぜか。本書を読んでいてこの感じ、別のところでも感じたことがあると思ったのは、橋本治だ。両者に共通しているのは、厳密な方法論。考えうる可能性をすべて挙げたうえで、緻密に査定し、蓋然性が高いもの以外を一つずつ確認しながら切り落とす。査定と切り落としの作業では、遠いところを迂回することもある。理路を見失わないようにさながら息を止めて誰かを尾行するかのような緊張があった。
一読してみて、瑣末なことだが意外だったのは、小松先生が石川九楊を肯定的に受け止めているらしいことだった。以前どこかで読んだ対談では、小松先生が自律的な言語変化を前提として語るのに対し、石川氏は言語が人為的に構築されたものであるという立場から語っていて、見事にずれている!と思ったものだった。石川九楊、積読になっているものをそろそろひも解かなければならないか。
知的興奮とともに、何か追いつめられるような重圧もわずかに感じるのはなぜか。本書を読んでいてこの感じ、別のところでも感じたことがあると思ったのは、橋本治だ。両者に共通しているのは、厳密な方法論。考えうる可能性をすべて挙げたうえで、緻密に査定し、蓋然性が高いもの以外を一つずつ確認しながら切り落とす。査定と切り落としの作業では、遠いところを迂回することもある。理路を見失わないようにさながら息を止めて誰かを尾行するかのような緊張があった。
一読してみて、瑣末なことだが意外だったのは、小松先生が石川九楊を肯定的に受け止めているらしいことだった。以前どこかで読んだ対談では、小松先生が自律的な言語変化を前提として語るのに対し、石川氏は言語が人為的に構築されたものであるという立場から語っていて、見事にずれている!と思ったものだった。石川九楊、積読になっているものをそろそろひも解かなければならないか。
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