次年度の異文化交流関係の授業準備にいそしんでいる。いろいろ目を通しているが、「異文化コミュニケーション」を検索語として調べてみると、八代京子他編『異文化トレーニング』三修社,1998(→amazon)、八代京子他編『異文化コミュニケーション・ワークブック』,三修社,2001(→amazon)、桜井厚・小林多寿子編著『ライフストーリー・インタビュー 質的研究入門』せりか書房,2005(→amazon)は、いまでも概説書としては新しいのではないかと思う。研究ベースでは僕は異文化交流だとかコミュニケーション論などの質的研究は専門ではないが、言語史の量的研究だけでは見えない世界が認識されるのは、自分には必要なバランスである気もしている。
で、『ライフストーリー・インタビュー』のキーワード「コミュニケーションと相互行為」(pp.96-97)が示差的だった。インタビューなどの質的調査では、調査姿勢が客観的になりすぎてもいけないし、親しくなりすぎてもいけない。その意味でラポール構築(信頼関係構築)は必要とするが、結局そこで言われているラポール構築は、所詮調査のためのラポール構築なので、それはそれで実際の語りに現れるはずの意外性や多様性が抑圧されたり、見過ごされたりしてしまう。インタビュー自体が相互行為なのだから、今その場所で起こっているあらゆる現象を、現実を構築する契機と考えておいた方が良いというもの。ちょっとこれは励まされるなあ。
お題目化したラポール構築に限らず、既存の制度・やり方を自明視しない、あるいはそれ自体を目的化しないやりかた。そのやり方に沿わない人間を「マナーができていない」「教育が不十分」「コミュニケーション力がない」とせず、相互に現実を構築しようとする行為自体がコミュニケーションであると捉えることができれば、なんというか、ただ所与の世界を、もっと歯車が噛み合った形で生きられると思う。そこで要求されるのは、コミュニケーションを一回性の成功/不成功のものととらえず、よく付き合うということに尽きるのだろう。
* * * * *
数年前に学生を行事として山村(山形は基本山村が多いが)に連れて行ったことがあった。当時、うちの職場は、地方短大にお決まりの「地域との連携」をお題目にして、やり方はよく分からないけれど地域と連携ってこういう感じ?と模索しつつ、なんとなく「地域おこしに付き合うこと?」みたいな空気に押されていた。フィールドワークごっこをやりながら、形だけでも地域に提言することを試みた。ある教員が指導したグループが、地域の人達の前で「この村に足りないのはコンビニやデパートだと思う」と結論づけた発表をした。その山村は自然を生かしたいろいろな地域おこしに「先駆的に」取り組んでいる場所だったので、それを全く理解しない学生の発言に地域の人達はほとんど呆れ、途中で席をたった人もいた。あきらかに指導不足という感じに、その時は読み取れた。その村は、離れた市街部にあるコンビニやデパートに若者を持っていかれてほとんど限界集落の体裁をなしており、しかしそうした市街部の持つ価値を逆転するような形で地域おこしを行っているのだった。村の人達が怒るのは無理はないだろうと思ったし、その指導に疑問を持ったりもした。
もしこれが、地域の四年制大学の、よくできた学生だったらどうしたろうかと思うに、きちんと空気を読んで、自然を生かした企画をたててみせたろうにちがいない。僕らもそういう指導が学生に行われるだろうと思っていたし。そうすれば村の人達にはきちんと認めてもらえて、ある種のラポール構築が滞りなく行われ、それからの付き合いに役立っただろう。僕らの職場はその最初に小さくつまづいてしまった(その後、色々ありながらきちんと関係はつづいているが)。
しかし一方でずっと引っかかっていたものもある。それは、でもやっぱりコンビニやデパートがないから若い人はいなくなっちゃったんじゃん、という現実だ。短大生の声はその現実をするどく、というかバカ正直に突いていた。そのことの重みはあるだろう。ラポール構築のために、友好的な関係づくりのために提言はできなかったけれど、それを仮に「教育の行き届いていない声」「礼儀ができていない声」と切り捨ててしまうと、もしかしたらその場はずれな提言を契機としたコミュニケーションが消されてしまったのかもしれない。もちろん、そのバカ正直な提言をもっと巧妙に、人の心をつかむ企画レベルに練り上げさせるのが教員の仕事だった。きちんとコミュニケーションの現場を用意できなかった教員の責任もあるだろう。が、そういう責任論ではなく、また分かりやすい地域おこしとの連携でもなく、教育の現場と地域が連携できるとしたら?少なくともバカ正直な声を、すくいあげることは、相互に意味があるのかもしれない。
暴論かもしれないが、地域と教育の連携とは、連携ごっこのためのラポール構築や、あるいは教員の業績稼ぎなどか背後にある、何かやったような気になれるもののほかに、相互行為の〈いま―ここ〉性を重視した語りの場を、きちんと見据える必要性があるように思う。それをやらないうちは、結局、地域と教育が共犯関係になって、既存の制度・やり方を強化して行くことにもつながってしまう。そんなのは主体性がないまま文科省の言うなりになる、「官蓄」とおんなしだ。そうでないためには、地域も教育も、どちらも相互行為の意外性や多様性のなかで変容しうるものなのだという認識を出発点とした取り組みが必要なのかもしれない。
で、『ライフストーリー・インタビュー』のキーワード「コミュニケーションと相互行為」(pp.96-97)が示差的だった。インタビューなどの質的調査では、調査姿勢が客観的になりすぎてもいけないし、親しくなりすぎてもいけない。その意味でラポール構築(信頼関係構築)は必要とするが、結局そこで言われているラポール構築は、所詮調査のためのラポール構築なので、それはそれで実際の語りに現れるはずの意外性や多様性が抑圧されたり、見過ごされたりしてしまう。インタビュー自体が相互行為なのだから、今その場所で起こっているあらゆる現象を、現実を構築する契機と考えておいた方が良いというもの。ちょっとこれは励まされるなあ。
お題目化したラポール構築に限らず、既存の制度・やり方を自明視しない、あるいはそれ自体を目的化しないやりかた。そのやり方に沿わない人間を「マナーができていない」「教育が不十分」「コミュニケーション力がない」とせず、相互に現実を構築しようとする行為自体がコミュニケーションであると捉えることができれば、なんというか、ただ所与の世界を、もっと歯車が噛み合った形で生きられると思う。そこで要求されるのは、コミュニケーションを一回性の成功/不成功のものととらえず、よく付き合うということに尽きるのだろう。
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数年前に学生を行事として山村(山形は基本山村が多いが)に連れて行ったことがあった。当時、うちの職場は、地方短大にお決まりの「地域との連携」をお題目にして、やり方はよく分からないけれど地域と連携ってこういう感じ?と模索しつつ、なんとなく「地域おこしに付き合うこと?」みたいな空気に押されていた。フィールドワークごっこをやりながら、形だけでも地域に提言することを試みた。ある教員が指導したグループが、地域の人達の前で「この村に足りないのはコンビニやデパートだと思う」と結論づけた発表をした。その山村は自然を生かしたいろいろな地域おこしに「先駆的に」取り組んでいる場所だったので、それを全く理解しない学生の発言に地域の人達はほとんど呆れ、途中で席をたった人もいた。あきらかに指導不足という感じに、その時は読み取れた。その村は、離れた市街部にあるコンビニやデパートに若者を持っていかれてほとんど限界集落の体裁をなしており、しかしそうした市街部の持つ価値を逆転するような形で地域おこしを行っているのだった。村の人達が怒るのは無理はないだろうと思ったし、その指導に疑問を持ったりもした。
もしこれが、地域の四年制大学の、よくできた学生だったらどうしたろうかと思うに、きちんと空気を読んで、自然を生かした企画をたててみせたろうにちがいない。僕らもそういう指導が学生に行われるだろうと思っていたし。そうすれば村の人達にはきちんと認めてもらえて、ある種のラポール構築が滞りなく行われ、それからの付き合いに役立っただろう。僕らの職場はその最初に小さくつまづいてしまった(その後、色々ありながらきちんと関係はつづいているが)。
しかし一方でずっと引っかかっていたものもある。それは、でもやっぱりコンビニやデパートがないから若い人はいなくなっちゃったんじゃん、という現実だ。短大生の声はその現実をするどく、というかバカ正直に突いていた。そのことの重みはあるだろう。ラポール構築のために、友好的な関係づくりのために提言はできなかったけれど、それを仮に「教育の行き届いていない声」「礼儀ができていない声」と切り捨ててしまうと、もしかしたらその場はずれな提言を契機としたコミュニケーションが消されてしまったのかもしれない。もちろん、そのバカ正直な提言をもっと巧妙に、人の心をつかむ企画レベルに練り上げさせるのが教員の仕事だった。きちんとコミュニケーションの現場を用意できなかった教員の責任もあるだろう。が、そういう責任論ではなく、また分かりやすい地域おこしとの連携でもなく、教育の現場と地域が連携できるとしたら?少なくともバカ正直な声を、すくいあげることは、相互に意味があるのかもしれない。
暴論かもしれないが、地域と教育の連携とは、連携ごっこのためのラポール構築や、あるいは教員の業績稼ぎなどか背後にある、何かやったような気になれるもののほかに、相互行為の〈いま―ここ〉性を重視した語りの場を、きちんと見据える必要性があるように思う。それをやらないうちは、結局、地域と教育が共犯関係になって、既存の制度・やり方を強化して行くことにもつながってしまう。そんなのは主体性がないまま文科省の言うなりになる、「官蓄」とおんなしだ。そうでないためには、地域も教育も、どちらも相互行為の意外性や多様性のなかで変容しうるものなのだという認識を出発点とした取り組みが必要なのかもしれない。
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