さえずり1
scansnapを導入して、2週間くらいか。手元の雑多な書類はおおかた電子化を終えて、いまはこれまでコピーしまくった研究論文のコピーに着手している。これまではコピーした論文を、20部ずつまとめて紙のファイルケースに収納し、さらにファイルケース3つずつを1つのプラスチックケースに収めて保管していた。本棚の上にプラスチックケースを並べる。本棚3つでは置き場所に足りなくなって、横に積んだりしていた。約1000本の論文だが、15年くらいの研究時間で貯蓄したものである。これが多いか少ないかは、見る人によって変わるだろう。
さえずり2
アクセスで作った検索用のメタデータで収納場所を特定し、必要な論文を読むという仕組みである。ということは必ずしもすべて読んでいるわけではない。論文を書く必要からコピーしたもの、いつか「使う」かもしれないからと保存しておいたものとが、混在している。
さえずり3
このファイル群をNo.1から順繰りに電子化して行っているわけだが、コピーした論文を時系列に眺めて行くのは、twitterのタイムラインにしたがって、情報を読みなおしていくのに似ている。現在No.400前後。博士課程の初めのころだ。いずれは電子化したものをどう読み、どう消化していくか、その方法も作っていかなければならない。
さえずり4
さて、この作業は少しむなしさが伴わないわけではない。というのも、本当はこの作業は学会の決定を受けてどこかの組織が一気に電子化をして、大学のリポジトリみたいな形で公開してくれればそれで済む話だからだ。英語文献の多くや、理系世界では電子化がずいぶん進んでいるようだし(科研費(研究成果公開促進費)データベース公開状況一覧(学術誌)-日本学術振興会参照)。人文系研究の世界ももうすぐ、そうなる。だとするといま僕がやっているこの作業は何なのだ?
さえずり5
間違いなくこれはメディア史上の過渡的な取組なのだ。紙媒体から電子媒体に大きく移ろうとする時代に生きた者が、自分で適応努力をしているだけなのだ。あと10年先に研究を始める人文系研究者は初めから電子化された論文を読み、電子化された貴重古典籍を調査し、必要に応じて原典に触れるようになるだろう。すべてに足を使い、交通費を使い、時間を使う労力から開放されて、その分、質(考察の深さ)や量(論文作成量)に持てるものを費やすことができるようになるはずだ(そして失うものもまたあるはずだ)。技術の革新が研究を変えるということは、たとえば手書き→パソコンの過渡期を経験している僕より10くらい上の世代は、適応努力を重ねながら、パソコンによって論文作成量を飛躍的に上げたと語っていることからも分かる。僕の世代には研究を始めるころには最初からパソコンがあった。過渡にある世代はメディア史の動きに自分でついて行こうとしなければならない。
さえずり6
僕も10年だけ待てば、この煩わしい電子化作業をやらずに済む。しかし研究は今日や明日のものであるし、居住空間を圧迫する紙の物量はまさに今ここにあるものだ。とりあえずこの15年を、今や今日や明日に生かすためには、これを自分でこのモニタで見えるところに納めなくてはいけない。これは誰もやってくれないし、待ってもいられない。そして辛いのは、この作業はただちに研究の質も量も上げてはくれないということだ。それが少しむなしい。
さえずり7
そのようなわけで、電子化作業が研究含みの生活を質的にどう変えるか、これはまだ分からない。でも二つだけ言えそうなことがある。一つはその中に自分が埋もれる勢いで増え続ける紙資料の山がなくなり、物理的な活動スペースが生まれること。もう一つは来るべき電子書籍時代の良い準備運動になるということだ。その先に、何か新しいものがあるかもしれない、というわずかな希望とわずかの焦りを抱きつつ、もう少しこの作業を進めてみるつもり。
scansnapを導入して、2週間くらいか。手元の雑多な書類はおおかた電子化を終えて、いまはこれまでコピーしまくった研究論文のコピーに着手している。これまではコピーした論文を、20部ずつまとめて紙のファイルケースに収納し、さらにファイルケース3つずつを1つのプラスチックケースに収めて保管していた。本棚の上にプラスチックケースを並べる。本棚3つでは置き場所に足りなくなって、横に積んだりしていた。約1000本の論文だが、15年くらいの研究時間で貯蓄したものである。これが多いか少ないかは、見る人によって変わるだろう。
さえずり2
アクセスで作った検索用のメタデータで収納場所を特定し、必要な論文を読むという仕組みである。ということは必ずしもすべて読んでいるわけではない。論文を書く必要からコピーしたもの、いつか「使う」かもしれないからと保存しておいたものとが、混在している。
さえずり3
このファイル群をNo.1から順繰りに電子化して行っているわけだが、コピーした論文を時系列に眺めて行くのは、twitterのタイムラインにしたがって、情報を読みなおしていくのに似ている。現在No.400前後。博士課程の初めのころだ。いずれは電子化したものをどう読み、どう消化していくか、その方法も作っていかなければならない。
さえずり4
さて、この作業は少しむなしさが伴わないわけではない。というのも、本当はこの作業は学会の決定を受けてどこかの組織が一気に電子化をして、大学のリポジトリみたいな形で公開してくれればそれで済む話だからだ。英語文献の多くや、理系世界では電子化がずいぶん進んでいるようだし(科研費(研究成果公開促進費)データベース公開状況一覧(学術誌)-日本学術振興会参照)。人文系研究の世界ももうすぐ、そうなる。だとするといま僕がやっているこの作業は何なのだ?
さえずり5
間違いなくこれはメディア史上の過渡的な取組なのだ。紙媒体から電子媒体に大きく移ろうとする時代に生きた者が、自分で適応努力をしているだけなのだ。あと10年先に研究を始める人文系研究者は初めから電子化された論文を読み、電子化された貴重古典籍を調査し、必要に応じて原典に触れるようになるだろう。すべてに足を使い、交通費を使い、時間を使う労力から開放されて、その分、質(考察の深さ)や量(論文作成量)に持てるものを費やすことができるようになるはずだ(そして失うものもまたあるはずだ)。技術の革新が研究を変えるということは、たとえば手書き→パソコンの過渡期を経験している僕より10くらい上の世代は、適応努力を重ねながら、パソコンによって論文作成量を飛躍的に上げたと語っていることからも分かる。僕の世代には研究を始めるころには最初からパソコンがあった。過渡にある世代はメディア史の動きに自分でついて行こうとしなければならない。
さえずり6
僕も10年だけ待てば、この煩わしい電子化作業をやらずに済む。しかし研究は今日や明日のものであるし、居住空間を圧迫する紙の物量はまさに今ここにあるものだ。とりあえずこの15年を、今や今日や明日に生かすためには、これを自分でこのモニタで見えるところに納めなくてはいけない。これは誰もやってくれないし、待ってもいられない。そして辛いのは、この作業はただちに研究の質も量も上げてはくれないということだ。それが少しむなしい。
さえずり7
そのようなわけで、電子化作業が研究含みの生活を質的にどう変えるか、これはまだ分からない。でも二つだけ言えそうなことがある。一つはその中に自分が埋もれる勢いで増え続ける紙資料の山がなくなり、物理的な活動スペースが生まれること。もう一つは来るべき電子書籍時代の良い準備運動になるということだ。その先に、何か新しいものがあるかもしれない、というわずかな希望とわずかの焦りを抱きつつ、もう少しこの作業を進めてみるつもり。
コメント