スキップしてメイン コンテンツに移動

scansnapとevernoteの出現で見えてきたもの

先週辺りからツイッタ経由で知ったscansnap(僕が購入したのはS1300;ScanSnap S1300 WindowsR/Mac OS ハイブリッドモデル製品情報 : 富士通)による紙文書の電子化(PDF化)で、自分の持っているデータの在り方について考える機会が増えた。

まず、scansnapはとにかくすごい。紙文書がいかに現実の場所を浪費していたかが分かった。1日の作業だけでダンボール一箱分の書類が廃棄となった。電子化して行く過程で、捨てられるものと捨てられないものの境界が自分の中で明確となり、「役に立つかどうか分からないけれど取っておこう」的なものがなくなった。そういうものは電子化すれば、迷いなく捨てることができるからだ。特に分類に困るような展示会のチラシとかパンフとか。部屋がみるみるすっきりして行く。

そうやってガンガン電子化して行くうちに、今度はそれをどうやって管理するかという問題に突き当たった。第一候補はevernote。フォルダに分けられて、タグ管理もできる。プレミアム会員になれば、evernoteのOCR機能でテキスト化されるという。管理&検索という観点では、現状ではこれ以上ない選択となる。容量もフリーで月額40MBのところを500MB(各月のアップロード量に対して課金)まで使えるので、すでにローカルに溜まっているものを小出しにアップロードしていけば、この容量でもいつかは完璧なクラウド環境に以降することはできるだろう。しかし、運用面での問題がつきまとう。10MBを超えるようなPDFファイルはやはり開くのに時間がかかってしまう。これがどうにもストレスに感じられてしまって、evernoteへの現段階での完全移行はためらいがある。

evernote(→すべてを記憶する | Evernote Corporation)はこれまでメモツール、クリップツールとして、どちらかというと動的な使い方をしていた。何かを作り出して行くような作業にevernoteは向いている。たぶんこれは本来の使われ方として間違っていないだろう。そして静的な、データの蓄積場所として使うには、向いていないように思える(少なくとも今は)。フォルダ&タグによるデータの管理と、OCR機能は大きな魅力だが、google desktopのようなローカル向けのサービスにもそうした機能が装備される日も来るかもしれない。さしあたりPDFのファイル名に工夫をすれば、当面の検索には困らないだろう。

ということで、次のような使い分けをすることで当面は乗り切ろうと思う。

〈evernote〉→iPod touchでも見られる
日常生活の色々、仕事のためのちょっとしたメモ
研究のためのメモ
本、マンガなどのメモ
WEBクリップ

〈ローカルにのみ保存〉
・論文など研究関係資料
・教材
・会議資料

evernoteをサーバとしても使える機能も魅力だが、仕事として現在進行中の書類は、オンライン・ストレージサービスでもいいかなと考える。だいたいevernoteはOpenOfficeに対応していないので、プレミアムサービスに移行してもうまみはあまりない。あ、これはgoogle desktopも同じだが。こちらはdropboxの2GB(フリー;Dropbox - Getting Started - Online backup, file sync and sharing made easy.)を使うことにした。もっとも、ほとんどノートPCを持ち歩いているので、使用頻度がどれくらいになるかは分からない。むしろ共有サーバとして使えるので、チームで仕事をするときに活躍するかもしれない。

〈dropbox〉→iPod touchでも見られる
・進行中のプロジェクトで、iPod touchとかで人に見せる必要があるもの
・チームで仕事をするときなどに使う

さて、蓄積したデータの検索と管理問題について、一通りの方向性が固まると、電子化した紙書類の運用方法をきちんと考える必要が改めて浮かび上がる。まず、せっかく電子化したのだから、できるだけモニタ上でデータを閲覧したい。となると、どうしても大きな画面が必要となるし、場合によっては持ち運べる大きな画面が欲しくなる。…大きなモニタは腰をすえて読むときには必ず必要となるだろうが、持ち運べる画面となると…やはりiPadということになるだろうか?自分には全く必要ないと思っていたのに、急遽検討の必要性が出てきてしまった。

もう一つは、論文を読むときと同じようにマーカーを引いたり、付箋をつけたりしたいということ。これはその都度evernoteにクリップしてタグを付けておけば良いかも、と思っている。Adobe Acrobatを購入するほど本格的なことはしないかもしれない。いや、ここでこそevernoteの面目躍如だろう。

紙文書の電子化で、自分に取って必要/不必要が明確になった。運用を前提とした蓄積の方法も見えてきた。これによって、よく言われることだろうが、生活のパターンや思考の方法がどう変わるかが、目下最大の関心事。

コメント

このブログの人気の投稿

お尻はいくつか

子どもが友人たちと「お尻はいくつか」という論争を楽しんだらしい。友人たちの意見が「お尻は2つである」、対してうちの子どもは「お尻は1つである」とのこと。前者の根拠は、外見上の特徴が2つに割れていることにある。後者の根拠は、割れているとはいえ根元でつながっていること、すなわち1つのものが部分的に(先端で)2つに割れているだけで、根本的には1つと解釈されることにある。白熱した「お尻はいくつか」論争は、やがて論争参加者の現物を実地に確かめながら、どこまでが1つでどこからが2つかといった方向に展開したものの、ついには決着を見なかったらしい。ぜひその場にいたかったものだと思う。 このかわいらしい(自分で言うな、と)エピソードは、名詞の文法範疇であるところの「数(すう)」(→ 数 (文法) - wikipedia )の問題に直結している。子どもにフォローアップインタビューをしてみると、どうもお尻を集合名詞ととらえている節がある。根元でつながっているということは論争の中の理屈として登場した、(尻だけに)屁理屈であるようで、尻は全体で一つという感覚があるようだ。つながっているかどうかを根拠とするなら、足はどう?と聞いてみると、それは2つに数えるという。目や耳は2つ、鼻は1つ。では唇は?と尋ねると1つだという。このあたりは大人も意見が分かれるところだろう。僕は調音音声学の意識があるので、上唇と下唇を分けて数えたくなるが、セットで1つというのが大方のとらえ方ではないだろうか。両手、両足、両耳は言えるが、両唇とは、音声学や解剖学的な文脈でなければ言わないのが普通ではないかと思う。そう考えれば、お尻を両尻とは言わないわけで、やはり1つととらえるのが日本語のあり方かと考えられる。 もっとも、日本語に限って言えば文法範疇に数は含まれないので、尻が1つであろうと2つであろうと形式上の問題になることはない。単数、複数、双数といった、印欧語族みたいな形式上の区別が日本語にもあれば、この論争には実物を出さずとも決着がついただろうに…。大風呂敷を広げたわりに、こんな結論でごめんなさい。尻すぼみって言いたかっただけです。

あさって、やなさって、しあさって、さーさって

授業で、言語地理学の基礎を取り扱うときに出す、おなじみのLAJこと日本言語地図。毎年、「明日、明後日、の次を何と言うか」を話題にするのだが、今年はリアクションペーパーになんだか色々出てきたのでメモ。これまでの話題の出し方が悪かったのかな。 明後日の次( DSpace: Item 10600/386 )は、ざっくりしたところでは、伝統的には東の国(糸魚川浜名湖ライン以東)は「やのあさって(やなさって)」、西の国は古くは「さーさって」それより新しくは「しあさって」。その次の日( DSpace: Item 10600/387 )は、伝統的には東西どちらもないが、民間語源説によって山形市近辺では「や(八)」の類推で「ここのさって」、西では「し(四)」の類推で「ごあさって」が生まれる、などなど(LAJによる)。概説書のたぐいに出ている解説である。LAJがウェブ上で閲覧できるようになって、資料作りには便利便利。PDF地図は拡大縮小お手の物ー。 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図285「明明後日(しあさって)」 *拡大可能なPDFはこちら 日本言語地図286「明明明後日(やのあさって)」 さて、関東でかつて受け持っていた非常勤での学生解答は、「あした あさって しあさって (やのあさって)」がデフォルト。やのあさっては、八王子や山梨方面の学生から聞かれ、LAJまんまであるが、ただし「やのあさって」はほとんど解答がない。数年前にビールのCMで「やのあさって」がちらりと聞ける、遊び心的な演出があったが学生は何を言っているのかさっぱりだったよう。これはかつての東国伝統系列「あした あさって やのあさって」に関西から「しあさって」が侵入して「やのあさって」は地位を追い落とされひとつ後ろにずれた、と説明する。「あした あさって やのあさって しあさって」は期待されるが、出会ったことがない。 山形では「あした あさって やなさって (しあさって)」と「あした あさって しあさって (やなさって)」はほとんど均衡する。これには最初驚いた。まだあったんだ(無知ゆえの驚き)!と(ただしLAJから知られる山形市の古い形は「あした あさって やなさって さーさって」)。同じ共同体内で明後日の翌日語形に揺れがある、ということは待ち合わせしても出会えないじゃないか。というのはネタで、実際は「~日」と

登米は「とめ」か「とよま」か

宮城県登米市( 登米市 - Wikipedia )という場所がある。「とめし」と読む。市内には登米町がある。「とよままち」と読む。「登米」に対して、2つの読みがあるのが疑問だったが、先日出張で訪れた際に地元の方にその理由を伺った。結論から言えば、元々地元では「とよま」だったが、余所から来た人たちが誤読して「とめ」になったという。余談だが、我らがwikipediaによれば奈良時代に「遠山(とおやま)」と呼ばれていた地名が「とよま」になったとか。同じく「登米町」の項目を見ると、さらにその語源はアイヌ語の「トイオマ(食べられる土)」とか。 登米市中心地に、町並みを明治大正風にアレンジした観光地がある。その一角を占める旧水沢県庁跡を頻繁に訪れていた中央の役人たちが文字に引かれて「とめ」と読んでしまい、それが国や県の指定する読み方に採用されてしまったとか。ホントかな?でも、「県立登米高校」は「とめこうこう」で、「町立登米中学校」「町立登米小学校」は「とよま」だというので、なるほどと膝を打ってしまう。 名付けの歴史的経緯はともかくとして、文字に引かれてことばが変わることは、「おほね」から「大根」(だいこん)が生まれたり「をこ」から「尾籠」(びろう)が生まれる、という国産の漢語誕生のエピソードなんかを思い出す。地名で言えば、台湾の「高雄」の曲折に思い当たる。地元先住民がタカオと読んでいたものに、植民地日本が「高雄」という漢字をあて、解放後の中華民国が北京語読みの「カオシュン」とした、といったことなど。探してみれば、地名改変の話は日本国内にも津々浦々ありそうではある。