いろいろ感度の高い学生がいる。学生に限らず感度が高い人って、尊敬してしまう。で、そういう人はどこかでマイノリティ体験をしていることが多いのだけど、その学生は両親が聾だという(本人は非聾)。だから母語に近い感覚で手話を使うことができるとのこと。手話も文法構造を持つので何かの補助手段であったりただのシンボルであったりはせず、ひとつの言語なのだけど、非手話言語に比べれば限外に読み取らねばならないモダリティ的要素が多くありそうなことは推測がつく。僕は手話を勉強したことがないので、あまり迂闊なことは言えないが(手話ニュースは時々見る)、目線や表情、身体の微妙な動かし方が、文脈を形作るのだろう。そうした読み取りが必要とされる環境に置かれていたことが、感度の高さにつながっているのかなあなどと思った。
その学生が僕の日本語学関係の授業を履修している。今日は方言への気づきの話。言葉に地域的なコードがあることは幼児でも環境が整えばすぐに気づかれるのだけど、環境が整わなくても小学校の国語で方言を取り扱う際に概ね気づかれる。ただ自分がどの程度の方言話者であるかとか、どの言葉が方言かといったことに気づくのは個人差や語彙差が大きい。という話をしていたら、関東で手話を使ったら自分の手話が「訛っている」ことにショックを受けた体験を件の学生が話してくれた。手話に地域差があることは知っていたが、それを「訛っている」と捉える感覚は面白いなあと思った。よく言われるように東北方言話者の多く(特に高年層)は自己方言のプレステージが低いと感じており、それを誤ったものとして「訛り」と捉える。自己方言のプレステージが高いと感じられることが多い、例えば大阪方言などの話者は、自分の言葉を「訛り」と捉えることは少ない。方言など言葉の変異に価値付けを行うことは言語外の要素が大きく影響するわけだが、手話の地域差もおおむね方言のプレステージが適用されてしまうものなのかなと思った。たぶんこういう研究はあんまりないと思う。
その学生が僕の日本語学関係の授業を履修している。今日は方言への気づきの話。言葉に地域的なコードがあることは幼児でも環境が整えばすぐに気づかれるのだけど、環境が整わなくても小学校の国語で方言を取り扱う際に概ね気づかれる。ただ自分がどの程度の方言話者であるかとか、どの言葉が方言かといったことに気づくのは個人差や語彙差が大きい。という話をしていたら、関東で手話を使ったら自分の手話が「訛っている」ことにショックを受けた体験を件の学生が話してくれた。手話に地域差があることは知っていたが、それを「訛っている」と捉える感覚は面白いなあと思った。よく言われるように東北方言話者の多く(特に高年層)は自己方言のプレステージが低いと感じており、それを誤ったものとして「訛り」と捉える。自己方言のプレステージが高いと感じられることが多い、例えば大阪方言などの話者は、自分の言葉を「訛り」と捉えることは少ない。方言など言葉の変異に価値付けを行うことは言語外の要素が大きく影響するわけだが、手話の地域差もおおむね方言のプレステージが適用されてしまうものなのかなと思った。たぶんこういう研究はあんまりないと思う。
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