うちの学祭がつまらん。ということで、教員何人かで、DJがいてメイドがいてポケモンイベントがあってコーヒーがおいしいカフェを手加減抜きでやろうということに。大人の悪い力(高い尿酸値など)をすべて使いきって、本気で作り込んだところ、大人の悪い空間が現出!そこに悪い学生が集合して、山形のダークマターが新しい宇宙を作り出すこととなった。
ロゴはデザイン本職の妹に発注。学科長の顔を無断でスタバのパロディロゴに変える。ポスターやエコバッグなどのグッズにロゴを使用して、収益もはかる。ユーストでDJやメイドの様子を発信して、地方に雌伏する強力ナードな皆様をお呼びする。そして養成校系の学科が企画した子ども関連のイベントに目をつけ、コジャレ系のカフェを演出してママさんを陥落、じゃなくて憩いの場所を作る。でー。学生の教育とかいうお題を完全無視して、ただ教員が悪乗りして楽しめることを全部やる。
そいで僕はコーヒー担当だったのだけど、元同僚(かなりのワル)に教わったマジうまなコーヒー屋さんとのコラボでやりたい放題のバリスタ具合。2日間で延べ430杯のコーヒーを淹れた。これをぶん回すのは超絶楽しかった。なぜならば、いまもって果たしていない僕の夢が100人分の給食を作ることで、大勢にたくさんの飲食物を台所ぶん回すことがやりたかったからだ。宴の最後は夕暮れのなかDJ兼VJがエレクトロな空間を演出してくれて、自然発生的にレイヴ状態に。コーヒーも大盤振る舞いで満足満足。
そんなわけで、楽しさだけがひときわ残ったイベントだったかというとそうではない可能性も保留して、職業病として学生にとってはどうだったのか、ということも想像しておく。思いつきの段階から外部交渉、教員同士の言いたい放題のアイディアの嵐など、準備段階の全てに関わるメーリス全部見せてきた。当日も教員がやりたいことを本気でやっているさまを、教育的な配慮抜きで見せた。いや、見せるほどの主体的意識もないまま、見られたといったほうが適切か。学生に投げっぱなしの教育や、それと対極の完全パッケージ型教育があるとして、そのどちらも「学生をどうにかしたい」教育の重力圏にあると考える。それで「どうにかなる」部分ももちろん大きい。しかし、日頃、大学のあり方、評価とカリキュラムの厳密化、教育の質保証みたいなことを考えさせられるだけに、そこを突き抜けたあり方が結果的に人の成長につながるのなら、思えば自分がトレーニングに言い換えられてしまうだけのカギカッコ教育以上に先輩や師匠から読み取ったものも、あれはやっぱり教育だったのだろうと少し楽な気持ちになる。俺たちはまだ狂ってない。
大学の教員は、みなどこかで文科省の言う教育を心底信じられないまま(あるいは鼻で笑いつつ)、でも経営の苦しさと補助金のくびきのもとで、こうやればどうにかなるかも知れない、いやどうにかならないかも知れない、の間を行きつ戻りつしている、と思う。旧態依然の「背中を見せればいい」、が経営的にダメなのは分かる。でもそれ「も」アリだとしたら、この仕事はいまよりずっと楽しい。
そんなことはおいといたとしても、やっぱりすっごく楽しかったけどな!
ロゴはデザイン本職の妹に発注。学科長の顔を無断でスタバのパロディロゴに変える。ポスターやエコバッグなどのグッズにロゴを使用して、収益もはかる。ユーストでDJやメイドの様子を発信して、地方に雌伏する強力ナードな皆様をお呼びする。そして養成校系の学科が企画した子ども関連のイベントに目をつけ、コジャレ系のカフェを演出してママさんを陥落、じゃなくて憩いの場所を作る。でー。学生の教育とかいうお題を完全無視して、ただ教員が悪乗りして楽しめることを全部やる。
そいで僕はコーヒー担当だったのだけど、元同僚(かなりのワル)に教わったマジうまなコーヒー屋さんとのコラボでやりたい放題のバリスタ具合。2日間で延べ430杯のコーヒーを淹れた。これをぶん回すのは超絶楽しかった。なぜならば、いまもって果たしていない僕の夢が100人分の給食を作ることで、大勢にたくさんの飲食物を台所ぶん回すことがやりたかったからだ。宴の最後は夕暮れのなかDJ兼VJがエレクトロな空間を演出してくれて、自然発生的にレイヴ状態に。コーヒーも大盤振る舞いで満足満足。
そんなわけで、楽しさだけがひときわ残ったイベントだったかというとそうではない可能性も保留して、職業病として学生にとってはどうだったのか、ということも想像しておく。思いつきの段階から外部交渉、教員同士の言いたい放題のアイディアの嵐など、準備段階の全てに関わるメーリス全部見せてきた。当日も教員がやりたいことを本気でやっているさまを、教育的な配慮抜きで見せた。いや、見せるほどの主体的意識もないまま、見られたといったほうが適切か。学生に投げっぱなしの教育や、それと対極の完全パッケージ型教育があるとして、そのどちらも「学生をどうにかしたい」教育の重力圏にあると考える。それで「どうにかなる」部分ももちろん大きい。しかし、日頃、大学のあり方、評価とカリキュラムの厳密化、教育の質保証みたいなことを考えさせられるだけに、そこを突き抜けたあり方が結果的に人の成長につながるのなら、思えば自分がトレーニングに言い換えられてしまうだけのカギカッコ教育以上に先輩や師匠から読み取ったものも、あれはやっぱり教育だったのだろうと少し楽な気持ちになる。俺たちはまだ狂ってない。
大学の教員は、みなどこかで文科省の言う教育を心底信じられないまま(あるいは鼻で笑いつつ)、でも経営の苦しさと補助金のくびきのもとで、こうやればどうにかなるかも知れない、いやどうにかならないかも知れない、の間を行きつ戻りつしている、と思う。旧態依然の「背中を見せればいい」、が経営的にダメなのは分かる。でもそれ「も」アリだとしたら、この仕事はいまよりずっと楽しい。
そんなことはおいといたとしても、やっぱりすっごく楽しかったけどな!
コメント
「狂ったように夢に向かう(歳上の)人たち」の姿を見る機会は、若い人たちにとって有意義だとは思う。若い人たちも狂う方向に足を踏み出そうと思ってくれればいいんだ。
…ここまで書いたら、中学生一年生の時の「校内弁論大会」を思い出したぞ。全校生徒の前でしゃべった原稿用紙5枚の「弁論」のタイトルは、「人類総狂人化の論理」だった。人がみんな没頭する対象をもつ「〇〇キチガイ」になることで、みんな幸せになるんだ、という論旨だった(はず)。なんとまあ、数十年後にこんな形でその世界を目の当たりにするとは…。