元同僚の職場で催された、方言の権力性や、背後に潜む本質主義を撃つ、みたいな内容が大変面白かった件。
もちろん、面白かったというのはギリギリのネタをやってくださったからである。地域の人達を招いた一般公開講座で、方言の権力性や本質主義を撃つことの高いリスクとうらはら。ええっ、って感じかも知れないが、東北方言についてはスティグマの問題もあるけれど、地方分権の背後にある郷土愛的な土俗ナショナリズムがコミュニティ強化の名のもとに、方言の力を借りて本質主義化していくことはよくある。地方:中央の構図、スティグマ克服もあって、なんというかある種の被害者ポジションをとりながらこの話は展開する、ぶっちゃけこの議論ってとりわけよそ者に取ってはタブーなのですよ。方言称揚は「失われたコアの回復」という機能、物語という筋も確かにあるだろうから(近代の幻想だとしてもだよ)、方言が権威化されているかもしれない、などということは普通ネイティブには感知されないものだと思う。そこへよそものが方言は権威的と言おうものなら、という感じ。
というか、言葉には「群れ機能」(人々をくっつけようとする機能)と「分断機能」(人々を互いに分かつ機能)があるから、特権的な人たちを作るのに一役買うことは、歴史の上でいくらでもあった。だから方言に限らず、言葉にはそのような機能がはじめから内蔵されていると考えることもできる。
問題は権威同士がガチで殴り合った時。会場からの質問で、方言的な発音と標準語的な発音がぶつかったときどうする?(超訳)との質問が出た。これは山形では非日本語母語話者の日本語学習過程によく見られることで、たとえば「仕事」の読みを書かせる問題で、日常生活において耳にするのは「すごと」であるからそのようにテストで書いて☓を喰らう、みたいな話。なんで☓なんですか?と問われると、実は脳天気に「方言コンプレックスは良くない、あなた自身の本当の言葉だからもっと自信をもって話すべき」とか言っていたのが簡単に蹴散らされる。僕らは学校の暴力で「しごと」が正しいと言うさ。でも学校の暴力が何に乗っかっているかというと、標準語が上位変種(公的場面で使える)、方言は下位変種(私的領域でのみ使える)というダイグロシア的構図であって、それの良し悪しはともかくとしてたしかにそれは観察可能な現象である(それが現実とかは言わない)。
方言に権力性を撃つというのは、抑圧の開放と言う意味ですごく分かる話ではあるけれども、セットで標準語の権力性も撃っておかないと、観察可能な世界ではバランスが取れないと思う。来場客は年配の方が多かったようにお見受けした。おそらく60年代くらいまでの方言抑圧の時代を幼少の頃に送られたのだろうと思う。「あたたか」で「本当の」言葉を奪われたと感じ、それを奪還する時代にいると感じているのだとしたら、言葉の権力性を脱構築するには両面からのアプローチが必要なのではないか、と思った次第。
もちろん、面白かったというのはギリギリのネタをやってくださったからである。地域の人達を招いた一般公開講座で、方言の権力性や本質主義を撃つことの高いリスクとうらはら。ええっ、って感じかも知れないが、東北方言についてはスティグマの問題もあるけれど、地方分権の背後にある郷土愛的な土俗ナショナリズムがコミュニティ強化の名のもとに、方言の力を借りて本質主義化していくことはよくある。地方:中央の構図、スティグマ克服もあって、なんというかある種の被害者ポジションをとりながらこの話は展開する、ぶっちゃけこの議論ってとりわけよそ者に取ってはタブーなのですよ。方言称揚は「失われたコアの回復」という機能、物語という筋も確かにあるだろうから(近代の幻想だとしてもだよ)、方言が権威化されているかもしれない、などということは普通ネイティブには感知されないものだと思う。そこへよそものが方言は権威的と言おうものなら、という感じ。
というか、言葉には「群れ機能」(人々をくっつけようとする機能)と「分断機能」(人々を互いに分かつ機能)があるから、特権的な人たちを作るのに一役買うことは、歴史の上でいくらでもあった。だから方言に限らず、言葉にはそのような機能がはじめから内蔵されていると考えることもできる。
問題は権威同士がガチで殴り合った時。会場からの質問で、方言的な発音と標準語的な発音がぶつかったときどうする?(超訳)との質問が出た。これは山形では非日本語母語話者の日本語学習過程によく見られることで、たとえば「仕事」の読みを書かせる問題で、日常生活において耳にするのは「すごと」であるからそのようにテストで書いて☓を喰らう、みたいな話。なんで☓なんですか?と問われると、実は脳天気に「方言コンプレックスは良くない、あなた自身の本当の言葉だからもっと自信をもって話すべき」とか言っていたのが簡単に蹴散らされる。僕らは学校の暴力で「しごと」が正しいと言うさ。でも学校の暴力が何に乗っかっているかというと、標準語が上位変種(公的場面で使える)、方言は下位変種(私的領域でのみ使える)というダイグロシア的構図であって、それの良し悪しはともかくとしてたしかにそれは観察可能な現象である(それが現実とかは言わない)。
方言に権力性を撃つというのは、抑圧の開放と言う意味ですごく分かる話ではあるけれども、セットで標準語の権力性も撃っておかないと、観察可能な世界ではバランスが取れないと思う。来場客は年配の方が多かったようにお見受けした。おそらく60年代くらいまでの方言抑圧の時代を幼少の頃に送られたのだろうと思う。「あたたか」で「本当の」言葉を奪われたと感じ、それを奪還する時代にいると感じているのだとしたら、言葉の権力性を脱構築するには両面からのアプローチが必要なのではないか、と思った次第。
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