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長谷川英祐『働かないアリに意義がある』

長谷川英祐『働かないアリに意義がある』(→amazon)を読んだ。新書なのでさらっと読めたが、ビジネス書が並ぶ末尾の既刊書タイトルから推測するに、シリーズに反してハイブローな本だと思う。

内容は、真社会性生物であるがどのように社会性=群体性を遺伝的に保っているか、新しい研究結果を交えて一般向けに報告したもの。ビジネス書を選好するオッサン向けに柔らかく(そして時にエヴァを交えながら)書かれてはいるものの、きちんと研究に裏打ちされていて読み応えがあった。ムシが社会性を持ち利他的なふるまいをみせることについて、いまだ定説を見ないらしい「血縁説(血が濃い者を助けたほうが遺伝子を残す可能性が高まる)」と「群選択説(2個体でやった仕事は3以上の効果を発揮する)」との比較を通じて、生物の多様性を論じている。進化生物学のハミルトン則、倍数倍数性生物(人間みたく遺伝子2n同士が次世代を作る)、単数倍数性生物(遺伝子nと2nが次世代作る)など生物学に暗い人間にもテクニカルなことが分かりやすく書かれていて、うまいなあと思った。10年くらい前に流行った、働いているのは集団の2割だけという話も出てくる。

生物学の研究手法を人文学にも適用することは、僕の友人でもやっている人はいるし、また言語学でも古くは系統樹説があったし、今でも英語学の人の語彙拡散の説明に利用されることはある(KAKEN - 語彙拡散理論と生物変化理論-英語の史的発達に基づいて(11610512)など)。

また、個体は自分が見つけられる範囲にいる個体としか交配できません。このような変動要因まで考慮したときにどのような進化が起こるのかは、実はまだほとんど研究も理解されていないのです。(本書p.178)


音韻変化は一斉に生ずるという青年文法学派のお題目に従わない語群が生ずるのは何故か、といった問題を考える上で、語彙拡散(lexical diffusion)についてこれと相似形の説明を行うのを読んだことがある。つまり自分が出会える範囲の語群、という文脈だったように思う(記憶が曖昧)。つまり一般的な構造言語学で説明するような、均整のとれた共時的体系と共時的体系を並べて、その変化を論ずるような理路では捉え切れないものに光を当てる考え方ということになるか。というあたりになると、本書とはもう別の話題になってしまうが。

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