地球温暖化を過不足なく理解する(via 極私的脳戸/日々の与太)、だって。この「過不足なく」っていいなあと思った。
地球温暖化に関わるテキストを共同の仕事に用いたことがあったので、興味深く読んだわけである。面白いのは、温暖化懐疑論が、温暖化言説がある種の政策の根拠とされていることに対するカウンターとして立ち上がっている云々というところだった(→温暖化をめぐるさまざまな議論へのコメント(その1))。確かに温暖化言説を、この記事が示すように、原子力発電推進の根拠にするものを読んだことはある。これに対抗して「石油・石炭資本がスポンサーになって」温暖化懐疑論を喧伝するのはよく分かる話。このような、ゴールが科学的議論と別なところにあるケースはただただ不毛だなあと思う。飲み屋レベルで聞かれる温暖化懐疑論も、「みんなが知らない真実を知ってる俺すげー」的ゴールがあらかじめ用意されているので不毛と言えば不毛、いやそれを分かって話につきあうのが粋ってことでしょうか。飲み屋話は過不足あるのが面白いんじゃんね。
このテキストは、科学的な根拠というものが、どのような「議論と手続きの歴史」に成り立っているか簡略に知ることができるという点で何かに使えるかなー。仮説と評価の繰り返しが相対的であろうとする立場を担保しているわけで、「必ずしも科学が正しいわけではない」という昨今のよくある言説がいかに的を外しているかがこのテキストからもよく分かる、というわけでクリップ。
地球温暖化に関わるテキストを共同の仕事に用いたことがあったので、興味深く読んだわけである。面白いのは、温暖化懐疑論が、温暖化言説がある種の政策の根拠とされていることに対するカウンターとして立ち上がっている云々というところだった(→温暖化をめぐるさまざまな議論へのコメント(その1))。確かに温暖化言説を、この記事が示すように、原子力発電推進の根拠にするものを読んだことはある。これに対抗して「石油・石炭資本がスポンサーになって」温暖化懐疑論を喧伝するのはよく分かる話。このような、ゴールが科学的議論と別なところにあるケースはただただ不毛だなあと思う。飲み屋レベルで聞かれる温暖化懐疑論も、「みんなが知らない真実を知ってる俺すげー」的ゴールがあらかじめ用意されているので不毛と言えば不毛、いやそれを分かって話につきあうのが粋ってことでしょうか。飲み屋話は過不足あるのが面白いんじゃんね。
このテキストは、科学的な根拠というものが、どのような「議論と手続きの歴史」に成り立っているか簡略に知ることができるという点で何かに使えるかなー。仮説と評価の繰り返しが相対的であろうとする立場を担保しているわけで、「必ずしも科学が正しいわけではない」という昨今のよくある言説がいかに的を外しているかがこのテキストからもよく分かる、というわけでクリップ。
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